ひらつか日記

1999年に漫画家おかざき真里ホームページの連載コーナーとしてスタートした身辺雑記×音楽紹介日記です。

iPhone

2008年08月25日 | 非音楽
Fx702p

先日、表参道のソフトバンクショップを通りがかったところでついガマンできずに「iPhone 3G」を購入。以前に「iPod Touch」について書いた日記(2007.9.9)とわたしの基本的な見解は変わらない。バッテリーのもち、内蔵メモリー容量、挙動の安定性等々の問題で、これを買ったからといって今までのケータイやiPodを捨てるにまでは至らないが、しかし、実用性をさておけば、こんなに楽しい機械は今他に見当たらない。よくできている。ちょっとヘンな褒め方になるが、「iPhone 3G」のすごいのは、機器として何も「新しさ」が無いところだ。想像もしなかったような全く新しい機能がついているわけではない。インターネットを手のひらに持ち歩く、それだけを愚直に実現した製品で、要するにパームトップのマッキントッシュである。機能が新しいのではなくて、体験が新しいのだ。iPhoneをいじっていて、80年代初頭、高校時代にはじめてさわったコンピューターのことを思い出した。冒頭にあげた画像がその機械で、カシオ計算機が出していた「FX-702P」というプログラム可能な関数電卓。近所のお兄さんが持っていたのを触らせてもらって、そのおもしろさにすっかりやられてしまった。ディスプレイは液晶1行のみ、プログラムが書ける容量はわずかに1.6KBと、今のパソコンのスペックから見れば原始的もいいところだが、手のひらにコンピューターがのっている、ということに大変興奮させられた。コンピューター、というところがミソで、何と言ったらいいか、「脳」を持ち歩く感覚というか。もちろん機械が自律的に思考するわけではないので「脳」という表現は適切ではないのだけれど、ゲーム機や電話機や電子手帳を便利に持ち歩くというのとは全く違った感じがあって、iPhoneは、久々にそんな感覚を思い起こさせてくれたんである。iPhoneの実用性について、いろんな人が様々な面から苦言を呈しているようだが、ゲーム機や電話機や電子手帳と比べて云々するのは全くの的外れで、こいつはパームトップのマッキントッシュ以上でも以下でもなく、コンピューターというコンセプトに興奮できるかどうか、金を払えるかどうか、という代物なのだと思う。わかる人には、大推薦の一台。ちなみに、わたしが今回、iPhone購入に踏み切ったのは、 「iPhoneを使う前と使った後で、人生観が本当に変わった。毎日が楽しくてしょうがない」というソフトバンクの孫社長の発言が契機。この人、カゲキな振る舞いで毀誉褒貶が激しいが、コンピューターというコンセプトに興奮できる感覚を持ち合わせている人で、日本の経営者としてはおそらくかなり珍しい存在。


「広告」について(2)

2008年08月10日 | クラシック
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番


時代感覚として、「広告」が見たくないものになってきている、あるいは見る価値のあるものだと思われなくなってきている…というのが前回に書いたことの要点。テレビで北京五輪の開会式をみていたら、放っておいたこの稿のことが気になりだした。チャン・イーモウ、すごいね、すごい。こんな金のかかった開会式は空前絶後だろう。しかし、見ていた人の多くはおそらく食傷したんじゃないか。時代の空気と、あまりに関係がなさすぎる。少数民族の衣装を纏ったキャスト、環境問題への言及、世界各地の聖火リレーの画をプロジェクションした終盤…と、悪い冗談としか思えない箇所も散見されて、エンターテインメントとしては圧巻だが、こんなの見て感動してる場合じゃないぞ、という方にキモチの針が振れる。この感じ、今の「広告」を見るキブンと(程度の差はあれ)酷似していると思った。開催地が自国の栄光を語る。五輪の開会式とはそういうものだから、そのこと自体の是非を問うてもはじまらない。企業が自社商品の素晴らしさを語る。広告とはそういうものだから、そのこと自体の是非を問うてもはじまらない。では、中国共産党はどんな開会式をやればよかったのだろうか。今日の広告がどのようにあるべきだろうか、という問いは、実にこういう次元で考えられなければならないように思う。チャン・イーモウの表現は、広告でいえば旧来のマスマーケティングのやりかただ。エフェクトは斬新だが、メッセージングとしては古いと思う。完成された誤解しようの無いメッセージを、一方的に押し付けてくる感じ。「考えさせられる」ところが全く無い。スキが無い。受け手は、何も考えずに口を開いてポカーンと見てればいいんだ、という作りになっている。ハリウッドなんだな。受け手を白痴にするエンターテインメント。白痴にさせられるから、こんな時代にあって、こんなの見て単純に喜んでていいのか、という感覚が意識下で妙な違和感というか、拒絶感を引き起こす。「広告」が見たくないものになっているのは、受け手に暗に「思考停止」を迫るメカニズムを内包しているからではないかと思う。今の時代に、積極的に見たいと思われる「広告」の表現とは、では一体どういったものであるべきか…。また長くなりそうなので続きはそのうち。今日の推薦盤はこちら。Shostakovich: Symphony No.9 / Leonard Bernstein, Vienna Philharmonic Orchestra 。ソ連時代を生きた作曲家、ドミトリ・ショスタコーヴィチ2001.3.26日記にも記述あり)の交響曲第9番。交響曲第9番といえば、楽聖ベートーヴェンの最後の交響曲。わが国を代表する大作曲家の記念すべき第9番となれば、それはもう壮大な名曲になるに違いない、と期待するソ連当局。1945年作品ということは、第二次世界大戦の戦勝を祝うというタイミングでもあったわけで、その期待は大変なものだったはず。そこに発表されたのが、この曲。聴いていただくとわかるが、演奏時間わずか25分の小曲、腰の軽いコミカルな曲想、まるで子供の運動会?と、とてもじゃないが、大作曲家の交響曲第9番とは思えない。誰がどう聴いても、当局への反抗、ソ連文化の面目まるつぶれである。スターリン存命中だから下手すればラーゲリ送り、というシャレにならない状況下、これはまさに命を賭した一世一代の冗談であった。当局の不興を買ったショスタコーヴィチは激しい批判にさらされ、レニングラードとモスクワの音楽院教授を退任、スターリンが死ぬまで、しばらくあからさまな共産党賛美の曲を書かされる破目になる。ショスタコーヴィチはソ連崩壊を待たずに死去したので、どういうつもりでこれを作曲したのかはもはや誰にもわからないが、この交響曲第9番のスカスカで頓狂な音響は、これからもそれを聴く人に常に何かを考えさせ続けるだろう。