つれづれ

思いつくままに

有間皇子

2008-12-11 17:48:58 | Weblog
奈良の薬師寺東院堂に、像高190cmの 聖観音という 白鳳金銅仏立像が安置されている。
教育者・林竹二は、この像の持つ生真面目なまでの剛直性、若い男のひたむきとも受取れる清爽さ、そして、古代国家の黎明期を彩る 天皇家一族の悲しい史実から、この像は 有間皇子(ありまのおうじ)の姿を写したものではなかろうか、と小説的に推論している。
ちなみに、林竹二は、噂に聞くだけだったが、70年安保の学生紛争時 常に学生側に立ってことに当たってくれた学長として、われわれノンポリ学生にとっては親父的存在だった 西の奥田東・京大総長に対して 東の宮城教育大学学長であった人で、真の教育者だったと言われている。

11月30日、暖かな晩秋の陽射しに釣られて、40数年ぶりに薬師寺を訪ねた。
各層に裳階(もこし)を持つ 一見華奢な三重の塔として 東塔は、遠い記憶にも残っていたが、新たに建設された 金堂、大講堂、西塔、中門、回廊と すべて揃った 古代国家の大伽藍は まことに壮大であり、圧倒されてしまう。
宗教心の弱いわたしには、竜宮城に迷い込んだか と、少々食傷気味の感は否めない。
ただ この大伽藍から少し離れて位置する東院堂は、いにしえの奈良の香りを残す 鎌倉時代再建の建造物で、堂内は 大きさ、高さ、質素さにおいて ほっとする空間である。
この東院堂の本尊が、今回 薬師寺を訪れた目的の 聖観音菩薩像である。

厨子の中に安置された 直立不動のこの美顔長身白鳳仏を仰ぎ見るとき、有間皇子はこのような若者だったのかと、わたしも 林竹二の夢想に引き込まれてしまう。

本像は、大化の改新時の天皇である孝徳帝のきさきであった間人(はしひと)皇后が、孝徳帝追善のために造顕したことになっている。
間人皇后は、大化改新の立役者、中大兄皇子の実妹である。
ともに、舒明天皇を父に、皇極天皇(重祚して斉明天皇)を母にもつ。
なお、孝徳帝と間人皇后は いとこ同士の結婚であり、舒明天皇と皇極天皇は 伯父と姪の結婚である。
近親婚は、古代国家の天皇家では ごく当たり前のことであった。
とはいうものの、さすがに実の兄妹の結婚は タブーであったものと思われる。
ところが、間人皇后は 実兄の中大兄皇子と恋仲にあった。
孝徳帝のきさきとなってからも、間人皇后の中大兄皇子へのおもいは失せなかった。
中大兄皇子が、強引に間人皇后へおもいを寄せていたのかも知れない。
孝徳帝には 間人皇后とのあいだに子供はおらず、大化の左大臣安部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)のむすめ小足媛(おたらしひめ)とのあいだに 一人息子がいた。
これが 有間皇子であり、間人皇后とはなさぬ仲であった。

悲劇は、このような ややこしい人間関係から生まれた。

いわば 妾の子である有間皇子には、もともと皇位を望む気はなかったはずだ。
ところが 孝徳帝崩御ののちも、実権を握る中大兄皇子は天皇とはならずに、母である皇極上皇を再度天皇に据えて斉明天皇とし、自身は皇太子のまま 摂政することになる。
皇位を望む気はなくても、孝徳帝の死以来の 斉明・中大兄皇子の政治に疑問をもつ有間皇子のもとには、良からぬ取り巻きが群がるのが 権力争いの常である。
直木孝次郎(中央公論社刊 日本の歴史 第2巻 古代国家の成立)に拠ると、中大兄皇子が長いあいだ天皇の位につかずに 摂政の位置を続けていた理由に、間人皇后とのあいだの非公認の恋愛関係があった と、みている。
平安朝以降の 型にはまった儀式化された天皇ではなくて、古代天皇家の自由奔放な時代でありながらも、やはり先の天皇のきさきで しかも実妹の間人皇后と正式に結ばれることは、いくら実力者の中大兄皇子でも 憚れたのであろう。
こんな関係を、父孝徳帝に可愛がられた有間皇子が きわめて不愉快に思っていたことは、容易に想像できる。
勘の鋭い中大兄皇子が、有間皇子の不穏な周辺を見過ごすはずはない。
657年(斉明3年)、18歳になった有間皇子は “陽狂”となる。
つまり ハムレットの狂気、きちがいのまねをして、中大兄皇子の疑いから逃げようとする。
実際に狂人とまではいかなくても、有間皇子は 暗鬱な青年になっていたようである。
強度の神経衰弱、つまり ノイローゼにかかっていたらしい。
紀伊の牟婁温湯(むろのゆ)へ 湯治に出かけた記録が残っている。
和歌山県白浜温泉の近くであるが、いまも 白浜温泉には「有間皇子ゆかりの温泉」の客引きを掲げているのを見かける。

翌斉明4年、有間皇子19歳、彼の意志をこえて 有間皇子の存在は、政界に大きく浮かび上がってきた。
元気を取り戻して都(飛鳥岡本宮か)へ戻っていた有間皇子に、中大兄皇子は、蘇我入鹿とその父蝦夷(えみし)を倒し 異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子を失脚させたクーデター、大化の改新と同じ策略をめぐらす。
入鹿のいとこ蘇我赤兄(あかえ)に 有間皇子を訪ねさせ、謀反をそそのかす。
孤独な皇子は、赤兄の本心を見抜く余裕を 持ち合わせていなかった。
斉明天皇が 中大兄皇子ら(たぶん間人皇后も)を従えて 牟婁温湯へ湯治に出かけた留守を狙って、謀反の密議をお膳立てした赤兄は、有間皇子が密議を終えて帰宅したところを 襲撃して皇子を捕らえ、同時に 旅先の中大兄皇子に謀反の急を報せた。
刑せられんとして紀の温湯へ送られる途上、皇子が 自らを痛んで詠んだ歌が二首、万葉集に残されている。
   磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かへりみん
   家にあらば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

有間皇子は、中大兄皇子の 紀の温湯での尋問に こう答えている。
「天と赤兄と知る。吾は全ら(もはら)解らず」
わたしはなんにもしらない。中大兄皇子よ、あなたがいちばんよく知っているではないか。
その後 有間皇子は、紀ノ川の南、藤白坂というところまで連れ戻されて、ここで絞首された。
19歳の青年であった。

この事件は、さすがに、間人皇后の心を傷ましめたであろう。
中大兄皇子に与して 孝徳帝につれなくした間人皇后の、夫への慙悸的追善が、薬師寺東院堂の聖観音像であるとしても、それに託して 薄命の有間皇子を弔う心が強く働いていたと考えても、的外れではあるまい。

皮肉なことに、歴史とはそういうものだろうが、天智天皇となった中大兄皇子が寵愛したひとり息子の大友皇子は、有間皇子絞首から14年後、中大兄皇子の実の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に滅ぼされるのである。
歴史でいう「壬申の乱」、大友皇子、歳25であった。

ここ数年、毎夏 孫たちと 紀伊白浜温泉へ海水浴に行っている。
紀勢本線に岩代という 小さな駅がある。
南部(みなべ)に着く少し手前にある、海岸沿いの駅である。
海岸と鉄道の間に、松林が伸びているところがある。
ここが、万葉集に残された 有間皇子が詠んだ『磐代』なのだろうか。
先に紹介した 直木孝次郎著の「古代国家の成立」には、つぎのように記されている。
「磐代から紀の温湯までは、20数キロ、半日あまりの行程である。11月8日の夜をここであかしたとみてよかろう。松をむすぶのは身の幸いを祈るためのまじない、または習俗である。中大兄皇子の前にひきだされて運命のきまる日を明日にひかえ、一縷ののぞみを松が枝に託した有間皇子の心情は察するにあまりがある。」

また来年の夏 この松林を通るとき、きっと 薬師寺東院堂の聖観音像を思い浮かべることであろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヤング@ハート | トップ | 落ち葉のかなしみ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事