つれづれ

思いつくままに

みちのく いとしい 仏たち

2023-04-30 15:12:24 | 

岩手県立美術館で「みちのく いとしい 仏たち」展がひらかれている。
D&DEPARTMENT RROJECT出版の『d design travel 岩手』で調べると、盛岡市にある岩手県立美術館は すごくかっこいい、見てみたい。
盛岡へ行こう。

ニューヨーク・タイムズの「2023年に行くべき52カ所」の二番目に 盛岡がランキングされたから、行くのではない。
むしろ そういう情報だけなら、きっと 旅先に盛岡を選ばなかっただろう。
わたしが盛岡を訪ねたいと願ったのは、伊吹有喜が書いた小説『雲を紡ぐ』の盛岡に、親しみ深い街の風を 強く感じたからだ。
「みちのく いとしい 仏たち」展は、付けたしではないけれど、“御旗”みたいなものであった。

盛岡に着いて まず、盛岡城跡公園を歩く。
石垣の美しさに、思わず 昭和の名曲「古城」の歌詞が口をつく。
わたしの左手には 文春文庫『雲を紡ぐ』が、親指を栞替わりにして 握られている。
午後の春陽を反射して、紙面が少しまぶしい。
開かれているページは、主人公・美緒が ホームスパンの師匠でもある祖父・紘治郎に連れられて 二の丸跡地の広場に来たところだ。

美緒は 登校拒否の高校二年生、両親との間も ギクシャクしている。
東京・稲城の自宅を ひとり抜け出して いま、盛岡市の隣町・滝沢にある 父方祖父の工房兼自宅である山崎工藝舎に 居候している。

城跡には、いろんな種類の大きな木が、いっぱいだ。
名前を覚えきれないのだが、どの大木も 近畿の樹木と趣が違うようだ。
小説の二人の行動にシンクロして わたしも、二の丸広場北西に建つ石碑の前に立っている。

「学校で習っただろう。石川啄木の『不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて・・・』の、不来方のお城はここだ。これがその歌碑。『・・・空に吸われし十五の心』。美緒ぐらいの年の頃に 啄木もここに来たわけだ」

目の前の 残雪を抱いた岩手山の頂にかかる雲が、強風に流されて 姿を変えていく。
「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
啄木が 言うことなしと詩う山はどんなだろうと 少々猜疑的に想像していた山は、みごとに吹き飛んだ。
雄大さといい 品格といい、まさしく 言うことなしの、ありがたい山である。

それぞれに特筆すべき特徴ある喫茶店のかずかず、野卑でない下町臭に懐かしい昭和の香り漂う 内丸界隈、手作業の妙の品を手に取って賞味できる 紺屋町の街並み、お城の北側を走る大通りの 堂々たるユリノキ街路樹、裁判所前の石割桜や肴町のシダレカズラ、北上川支流の 鮭が遡上するという 中津川の堤と両岸の風情、毎週土曜日の夕方に歩行者天国道路となる いーはとーぶアベニューに並ぶ出店 よ市の賑わい、そしてなにより、福田パン製コッペパンの おいしいこと。
盛岡の街には、惚れ込まざるを得ない仕掛けが ここかしこにあふれている。

さて、本題の「みちのく いとしい 仏たち」のことである。

正直、この催し展に あまり期待していなかった。
白鳳仏に惚れ込み 円空仏以外 室町時代以降ことに江戸時代の仏像など 見向きもしなかった わたしには、民間仏と聞くだけで その魅力を想像する術は 円空仏にしか なかった。
この展を観ることによって わたしは、大げさだけれど 仏像観が変わるほど、みちのくの民間仏に魅了されてしまった。

仏像は、本来 正しい図像を熟練した技巧で制作したものであって、名前の伝わる仏師とその工房が 作者である。
こういう仏像は、お寺の本堂内陣に祀られ、ご本尊として崇められる。
民間仏は、しかるべき図像儀軌を踏まえず むしろそんなものには無頓着に、仏像制作の素人である片田舎の大工や 手の器用な村人によって、多くは粗末な木材から刻りだした仏像である。
つくられてから200年300年程度の 美術史的にほとんど無価値な、小さく粗末な祠や小屋 運が良くて煤だらけの神棚が 彼らの居場所である。
それでも いやそれ故に、素朴で単純な造形は、率直で飾らない信仰の対象でありえた。
なぜ みちのくの民間仏は かわいいのか、祈り見つめる根底に つらさ切なさくやしさがあるからだ と、この展の主催者は言う。
そのつらさ切なさくやしさを「てえしたこだねのさ(大したことはないんだよ)」と笑ってみせるやさしさが、ニコニコする民間仏を産んだのだ と。
主催者は、哀しさを秘めているから かわいいのだ と、断言する。
まったく同感だ。

この「みちのく いとしい 仏たち」展は、定朝や運慶などの “法印”クラスの専門仏師ではなく、円空や木食などの 生涯を仏像制作に捧げた造仏聖でもなく、いわば「第三の“彫り手”」の存在にスポットライトを当てる 絶好の催しだと思う。
なお、今年9月16日~11月19日には 京都・龍谷ミュージアムで、また 今年12月2日~来年2月12日には 東京・ステーションギャラリーで、同じ催しが開かれると聞く。
機会があれば、京都でも 彼ら民間仏に もう一度 会ってみたい。

旅は 非日常の深呼吸、なんとか足腰と脳が定かである限り 旅を続けたい、そう願っている。

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唐招提寺を訪ねて

2023-04-15 15:27:59 | 

奈良へ行ってみたい。
この願望は、喧噪の日々を過ごし 体調不良に漠然と将来の不安を感じるとき、あの ゆったりと流れる奈良時間の中に遊ぶ自分を想像して、たまらなく募ってくる。
ここ 長らく、奈良を訪れていない。
あちこち歩きまわる体力を失ったわたしには、このみ寺しかない。

わたしの中で「み寺」と呼べる場所は、唐招提寺の境内しかない。
南大門を潜って、あの 緩やかに流れる天平の甍・金堂を、真正面に眺める。
なんという圧倒的な光景であろうか。

八本の吹き放しの円柱が並ぶ。
この円柱を見ると わたしは、この円柱に もたれかかりたい誘惑にかられる。
いけない いけない 危険だと、この独占欲の匂いがする誘惑を抑えて、これくらいなら と、そっと指先で年輪を辿ってみる。
光を木目のあいだに吸い込んで湛える という表現が、西洋の神殿の石柱と 根本的に異なる趣を、的確に伝える。
 
東大寺はすごい人でした と、醍醐井戸脇の藤棚に咲き誇る白藤の前でシャッターを切ってあげた(たぶん関東の)旅人が話していた。
ここ 唐招提寺に観光客は少なく、奈良時間が 境内隅々に流れている。
ここを訪ねる口実とした「東山魁夷の襖絵」の御影堂は、鑑真和上命日の前後数日しか公開されないとのことで、門前から拝み見るしかできなかったが、また訪ねる楽しみにとっておこうと思う。

唐招提寺の境内は 春の日差しをいっぱい浴びて、おだやかに ゆるやかに、時を刻んでいた。

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