つれづれ

思いつくままに

デイゴ と ねむの木

2018-09-09 02:54:05 | 

10月7日から、新工場への移転を始める。
10月末ごろから、現工場の解体がはじまるだろう。

以前、古いおうちの解体現場を 通りがかりに眺めたことがある。
大きな松の樹が倒されようとしているところだった。
ブルドーザーに牽かれて、松の樹はギューッと悲鳴をあげていた。
あれだけはイヤだと思った。

当社の敷地にある ささやかなグリーンベルトにも、30種以上の樹木が植わっている。
実のなる木を、できれば明るい花が咲く木を、選んで植えた。
どの木にも、それぞれのおもいでがある。

前の工場から現在地に移転するとき、あまり未練を見せなかった母が この樹だけは残してと、移植したアラカシ。
もう老木となったそのアラカシは、前の前の工場(兼居宅)から前の工場に移植したものだった。

暑い夏の盛りに二度も小さな白い花をパラパラ散らし、冬の凍てつくころ つやつやの黄金色を 枝いっぱいに実らせるキンカン。
義母も一緒に車で遠出した折、どこかの道の駅で義母が買ってくれた苗木を、この工場が建った頃に地植えしたものだ。

花梨、ムクゲ、さるすべり、牡丹、キブネギク、はなかいどう、大山蓮華、グミ、さつき、沈丁花……
5年前に植えた萩と芙蓉が、もう背丈以上に大きく育った。

樹木には命がある。
小さな木にも、大きな木にも。

梅、ザクロ、ぽぽー、フェイジョアは、植木屋さんがどこかのおうちの庭木にと、もって行ってくれた。
プチリンゴは、鉢に植え直して 手元に残そうと思う。

デイゴとねむの木は、ひときわ大きく育った。
通りがかりのたくさんの人々にも、その花のめでたさを愛でてもらった。
彼らに、夏の暑い陽差しをつかのま避ける木陰を、提供もした。

デイゴとねむの木、その雄姿を画像でとどめておきたい。





10月下旬から、この工場にブルドーザーが入ることになる。
9月中に、デイゴもねむの木も ほかの樹木も、幹の根元から切ってくれるよう、出入りの植木屋さんに依頼した。

ブルドーザーになぎ倒される前に、出入りの植木屋さんの手で処分したい。
わたしのささやかな、わがままである。

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チムグリサ

2018-09-02 23:39:58 | 

涙もろいのはむかしからだが、人目をはばからず涙して本を読んでいる。
隣りの座席のおばさんが いぶかしそうにわたしを見ているが、そんなことはお構いない。
サンダーバードの車中でのことである。


「チムグリサ」は沖縄の言葉で、相手の立場になって悲嘆にくれること。「ああ、哀れだなあ」「悲しくて胸が痛む」などの意。
そう、この本の開きに書いてある。
この本というのは、『一九四五年 チムグリサ沖縄』という 120ページ足らずの薄っぺらい文庫本である。

この本を わたしは、新聞の書評欄で見つけた。
評者は丹羽宇一郎氏、元中国大使、元伊藤忠商事社長である。
書評が丹羽氏の名前だったことが、すぐにこの本を求めた 大きな理由である。
著者は大城貞俊氏、秋田魁新報社の発行である。

同書は、大城氏が長年にわたって取材してきた、沖縄の戦争体験者の「聞き書き」をもとにつくられた、6話からなる短編小説集である。
小説だが、6話のエピソードは作り話ではない。
多くの戦場体験者の話を聞いてきた著者が、彼ら体験者が語れなかった言葉と思いをくみ取り、体験者に迷惑をかけたり傷つけたりしないように、小説という形で世に著した。
いわば、著者の筆を借りて語られた 犠牲者たちの肉声である。


「トイレにいきますんで、この荷物 ちょっと見といてもらえますか?」
第2話で、身重の母親が 6歳の長女の手を もう一度ぎゅっと握って 力いっぱい摩文仁の断崖へ身を投げ出す ラストの場面、流れ出る涙を メガネを拭く素振りでごまかして、隣りのおばさんの申し出に「いいですよ、どうぞ」と答える。

それから、ちょっとアクシデントが起こった。
戻ってきたおばさんによると、トイレの赤ランプがついたままで ノックしても応答がない というのでる。
そういうと、だいぶ前から車両前方のトイレランプが赤になったままだったような気がする。
彼女が最後部の車掌室へ連絡して、ちょっと緊張気味の車掌さんが、何度もノックしたり声をかけたり。
原因がわかった。
トイレのドアが閉まるはずみでキーフックが回って、勝手に施錠してしまったらしい。

このアクシデントは、これで一件落着した。
が、その後 このおばさんとの会話が弾んで、京都に着くまでに読み終える心づもりだった『一九四五年 チムグサリ沖縄』の第3話以降は 京都に帰ってから、ということになった。
その週の日曜日、丸善カフェでコーヒー一杯で、最終話の第6話まで読み終えた。


6編のエピソードの中でも、最終話は最も悲惨だ。
沖縄戦の終盤、進攻してくる米軍から御真影を守り安置するため、名護で急遽編成された 25人の女子生徒と5人の先生の 30人の集団。
日本軍に捨てられたこの一群の、名護からヤンバル(沖縄北部の森)への逃避行で起こった、‘チムグリサ’な出来事である。
途中で遭遇した米兵に凌辱される女学生、それを止めることもできない引率教師。
女学生が叫ぶ。
「私たちは、必死で国を守っているのに、国は何もしてくれないじゃないですか」

丹羽宇一郎氏は指摘する。
「作中、女学生の叫びとして描かれている言葉は、沖縄の声のように聞こえる」
丹羽氏は、こう続ける。
「沖縄のことをもっと知らなくてはいけない。沖縄戦の犠牲者の話を聞くことでしか、われわれは県民の20%を失うという凄惨な戦争を具体的にイメージする術がない。……われわれは戦争の真実を知ろうとしないまま、一生を過ごすことがあってはならない」


わたしは、戦争を知らない。
それは、そういう世代なのだから、仕方ない。
だが、丹羽氏が言うように、戦争の真実を知ろうとする努力はしなければならない。
それが、戦後の幸せな日本に生きることのできる戦後世代の、つとめだと思う。

残された時間には、限りがある。
せめて沖縄戦の真実を知りたい、チムグリサの真実を知りたい。
そのとっかかりとして、『一九四五年 チムグリサ沖縄』に触れられたことに、感謝したい。

 


 



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