つれづれ

思いつくままに

先輩Aさんの訃報

2023-07-07 17:36:27 | 

先輩Aさんのご家族から、一枚の訃報ハガキが届いた。

S社の愛媛製造所・新居浜工場に わたしが新入社員として配属されたのは、53年前であった。
同じ課に 1年先輩のAさんがおられた。
冷間圧延機の設計を仕事とする課で、薄鋼板の平滑度を向上させる設備である「テンションレベラー」を設計するチームで ご一緒させていただいた。

彼の薦めで、同製造所の山岳部に入部した。
何度か挑戦した「シャクナゲ山行」は、あの頃の懐かしい 貴重な思い出である。
廃坑寸前の別子銅山に 山岳部の山小屋があった。
定期的に その山小屋に籠るのだが、そこでやることは 天気図の作成だった。
ラジオから流れる『天気予報』の「御前崎1008ミリバール、北北東の風、風力3・・・」に聞き耳を立てて、気象白紙地図に等圧線を引き、風向・風力を記入していくのである。
気象に詳しくなる、それが山岳部の「掟」みたいなものであった。

山小屋に寝泊まりすることもあったが、そんなとき、ふだんは多くを語らないAさんから 彼の個人情報を聴き、わたしもそれを曝けだす。
彼は、知多半島で農業機械の工場を経営する会社の長男であり、いつかは実家に帰らねばならない立場の人であった。
同じような境遇のわたしに、弟のように接してくださった。

わたしがS社を退社する1年前の早春、Aさん家族は S社の元親会社の管轄する新居浜港から、新居浜を去って行かれた。
夜10時40分出航の関西汽船を、同僚数人と見送った。
彼らのそれぞれの手に、色とりどりのテープが数巻 握られている。
Aさん家族の立つ高い甲板に そのテープを投げるのだが、そのほとんどは 暗い海にむなしく落ちた。
わたしの投げた赤色のテープを、Aさんがうまくキャッチしてくれた。
49年経った今でも、あの光景が ありありと脳裏に浮かぶのである。

あの 新居浜港での別れ以後、Aさんとは 年一回の賀状だけの付き合いとなった。
だいぶ後になって、半田市にある新美南吉記念館を訪ねた際、近くのAさん宅を訪問してみようと勇気を振りしぼったのだが、突然の訪問は迷惑をかけると思い直し、諦めたことがあった。
いま この歳になって、こういう後悔ばかり 頭をよぎる。

享年79歳であった。
来年 わたしも、その歳になる。

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