つれづれ

思いつくままに

円空の善財童子立像

2024-04-19 12:55:14 | 

上の写真は、紀伊国屋書店発行の『円空の彫刻』から転載したもので、円空の「自刻像」と明記されている。
長い間 この像から円空上人を想像し、円空仏を彫りだしている円空の姿を 思い描いていた。

あべのハルカス美術館で4月7日まで「円空ー旅して、彫って、祈ってー」展が開催されていたが、最終日近く やっと思い立って阪急電車と地下鉄御堂筋線を乗り継いで あべのハルカスを訪ねた。
現在ただいまの体調からして、大阪まで行くのは少々勇気が要ったが、天王寺駅を降りてすぐそこだったので すごく助かった。

これほどの数の円空仏を一か所で観られること自体、わたしにとって大きな賜物でしかない。
この「円空展」では、上の写真の像は「善財童子立像」となっていた。


20歳はじめ 円空仏に魅せられたわたしは、 円空上人が遍歴した足取りをたどるように、円空仏の痕跡を 日本各地に訪ねまわった。
北海道南西部の後志(しりべし)地域から始まって、青森県下北半島から秋田県男鹿半島をめぐり、日を改めて 三重県志摩半島に長逗留して 円空の足跡を訪ね歩いた。
ひと夏休みを丸々費やして、濃尾平野から飛騨地方を 憑かれたように歩き回った。
円空仏を追い求めて 最後にたどり着いたのは やはり 円空上人の生まれ故郷である岐阜羽島で、木曽川を眺めたのち 歩いて長良川に向かい、その河畔に夕暮れまで佇んでいたのを、懐かしく思い出す。

円空上人は、江戸時代のはじめ、美濃国竹が鼻というところ、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれている。
ちょうど 木曽川と長良川に挟まれた、農業のほかに生きる道のなかった、しかも 常に水の災いにさらされた地域だ。
父無し子であったが、母親にかわいがられ、7歳のとき その母を洪水で無くしてしまう。
あの夕暮れに見た長良川は、予想外にきわめて穏やかであった。

円空は、生涯で12万体の仏像を彫ったといわれている。
発見されているもので、約5500体ほどある。
この目で観たのは、その1割ほどもない。
それでも 画集などで調べて気に入った円空仏は、ほとんど訪ねている。
その中で 実物の円空仏を観ていないのは、上の写真の立像と 円空最後のほとけと言われている「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」であった。
その両方とも、この展で拝観が実現した。

高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像は、展の最後の部屋に置かれていた。
2mを越す細長い十一面観音像を中心に、向かって右が 善女竜王像、左が善財童子像の三体。
これら三体の仏像は、同じ一本の丸太から作られている。
十一面観音像を彫りとった残りの木から、円空の母の姿である善女竜王像と 円空自身の姿である善財童子像を 彫りだしているのだ。
円空さんは、母とともに 観音さまに抱かれて、やっと安寧を得たのである。


善財童子像は、円空上人自身。
だから、善財童子像は 自刻像。
冒頭の疑問は、「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」と展の最後に対面できて、すっきり解けた。


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空を見あげる。

2023-12-16 16:00:19 | 

空を見あげる。
青空なら、そのかなたの方を。
小雨なら、かざした傘越しに。
強い雨なら、借りた軒先から。

背筋首筋が伸びるし、近視眼疲労の目の保養にもなるし、人の顔色から解放されもする。
なによりも、気持ちが晴ればれする。
要らん考えが、どっかへいってしまう。

若いとき、人の口元を見るようにしていた、目と目が合うのが嫌だったから。
バリバリ仕事してたころは、見落とさないようにと、近視眼を研ぎ澄ましていた。
細かいところまで気が付くねぇとの言葉に、いい気になってもいた。
年老いてからは、足元が危ないからと、下ばかり見て歩くようになった。

80歳を間近にして ようやく、ときどき空を見あげている。
雲のひょうきんな形をよろこび、その行方を追う。

この感覚を、忘れないでいよう、と思う。





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幸田文著の『崩れ』

2023-12-09 12:55:43 | 

幸田 文(こうだ あや)。
日本近代文学を代表する文豪・幸田露伴を父にもつ、明治37年生まれの文筆家である。
わたしの父の4歳上、母の7歳上である。

この薄っぺらいが重い本『崩れ』は、「年齢72才、体重52キロ」の幸田文が、自分でもよくわからない衝動にかられ 日本全国の「崩れ」現場を見て歩く、一種のルポルタージュである。
具体的に、時には同行の男性の背におぶってもらいながら 幸田文が訪ね歩いた「崩れ」を挙げると、安倍川支流の大谷川の「大谷崩れ」、富士山てっぺんの俗にお鉢とよばれる火口の西壁の崩壊谷「大沢崩れ」、富山県を流れる暴れ川・常願寺川の上流水源地のひとつ 鳶山(とびやま)の西方にある「鳶崩れ」、日光男体山の崩れ、長野県を「糸魚川静岡構造線」に沿って流れる暴れ川・姫川の 特別豪雪地帯の小谷村(おたりむら)中ほどの支流・浦川上流水源地「稗田山(ひだやま)崩れ」、、、
さらに鹿児島県の桜島、北海道の有珠山と 火山へも足を伸ばす。
「年齢72歳、体重52キロ」の幸田文の、このエネルギッシュな行動力に まず たじろぐのだ。

幸田文著『崩れ』の文章の魅力は、彼女独特の“その意味をこざっぱりと彷彿させる幸田あや語彙”をちりばめながら、この自然現象「崩れ」の荒々しい風景を 言葉という自分の武器を細心かつ大胆に使いこなして表現しているところ、であろう。
誰かがこの「崩れ」を見とどけ伝えなければならないという一途さに、読み人は感動するのだ。
『おとうと』や『台所のおと』や『木』や『きもの』・・・これら彼女の代表作からうかがえる 日常生活の静かなたたずまいからは、この『崩れ』の峻厳さは 想像もつかないが、わたしは、この薄っぺらい文庫本を 幸田文著のささやかな本棚の いちばん目立つところに仕舞いたい。

『崩れ』を読んでいて、明治末生まれの母のことを思った。
母も、「頑固」のひとことではかたづけられない強靭さ、かたくなまでの一途さを 身にまとっていた。
それは、生きる力でもあるが、一面 もろく、なにか悲しい。

この文庫本の巻末に掲載されている 川本三郎氏の「解説」の文末に、こう ある。
  山の奥の奥に姿を隠していてめったなことでは人の目に入らない崩れとは、実は幸田文にとって生涯でもっとも愛した人、父の幸田露伴  
  のイメージそのものではなかったかと。
  孤高で、厳しく、そしてやさしく、ときに悲しい父。
  幸田文は晩年を迎えたとき、実はふと亡き父に会いたくなり、それで崩れを訪ね歩いたのではなかろうか。
  とすれば、本書は幸田文の、父への最後のオマージュといえるだろう。

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安乗岬灯台

2023-08-27 22:09:11 | 

僕たちの通っていた小学校・中学校は 今でいう「小中一貫校」で、ときどき 講堂の暗幕カーテンを閉め切って映画を上映して 生徒たちに見せてくれていた。
高峰秀子・佐田啓二主演の映画『喜びも悲しみも幾年月』も、そのひとつだったように記憶する。

日本各地の辺地に点在する灯台を転々とする灯台守夫婦の物語なのだが、その舞台となる灯台のひとつに 安乗岬灯台が登場する。
この映画をみてから中学を卒業するまでの間に 僕たちは、安乗岬灯台を10回近く訪ねた。
岬の埼にすっくと立つ四角形の白い安乗岬灯台は 文句なく美しいと感じたし、映画に登場する灯台のなかで日帰りで行けるのは 安乗岬灯台しかなかったから。
安乗岬灯台は 正しくは「安乗埼灯台」なのだが、僕たちは「安乗岬灯台」で通していた。

ここで<僕たち>とは、わたしと わたしの幼友達の“まっつん”のことである。
灯台に魅了されたのは わたしであって、まっつんは わたしの熱意に しかたなくついて来てくれたのかもしれない。

3000を超える日本の灯台に 灯台守はもういない、すべて無人化された。
そして 霧信号所もなくなり、霧笛を聞くこともなくなった。

映画『喜びも悲しみも幾年月』のラストシーン。
御前埼灯台の踊り場手摺から身を乗り出すようにして 双眼鏡で夜の駿河沖を航行する外国航路客船を探す灯台守夫婦、その船にはエジプトのカイロへ向かう娘と新婚の夫が乗っている、船を見つけて眼下の霧信号所へ白いハンカチを必死に振って霧笛を鳴らすよう合図する灯台守、船のデッキに立つ新婚夫婦は霧笛を聞き 夫は汽笛で答えるよう 船長に頼みに走る。
霧笛と汽笛は、黒い海原を飛び交って 互いの想いを交す。
映画のこのシーンは、灯台守も霧笛も存在しない今、完全に幻となってしまった。

わたしの中の「安乗岬灯台」は 今も、幻ではなく しっかりした思い出として 生き続けている。

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寺田寅彦の「団栗」

2023-08-15 14:08:41 | 

寺田寅彦の随筆集に、『団栗』(どんぐり)という小文が収められている。

岡潔の『春宵十話』を読んでいたら、次のような一文が眼に留まった。
「文学の世界でも、寺田先生の『藪柑子集』特にその中の「団栗」ほどの緻密な文章はもういまではほとんど見られないのではなかろうか。」
押入れの奥深くに眠っていると目星をつけて、中学時代に親にねだって買ってもらった『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)を漁り出し、その『団栗』を読む。
寅彦が20才のときに学生結婚した 5才年下の夏子は、結婚生活5年後に 忘れ形身の男の子を残して夭逝する。
この最初の妻・夏子との思い出を  5000字足らずの文章に書き留めたのが、この『団栗』である。

まだ十台の病弱な若妻の 初々しいわがままを(たぶん喜ばしく思いながら)あしらいつつ、気分転換にと 身重の彼女を植物園へつれ出す。
そこで見つけた団栗を 彼女は、自分のハンカチいっぱいになるまで 夢中になって拾い集める。
寅彦のハンカチまでねだって、それにも団栗を満たす。
飽きたのか、「もう止してよ、帰りましょう」と言う。

忘れ形身のみつ坊をつれて、寅彦は あの植物園へ遊びに来て、昔ながらの団栗を拾わせた。
「こんな些細な事にまで、遺伝と云うようなものがあるものだが、みつ坊は非常に面白がった。」
「亡き妻のあらゆる短所と長所、団栗のすきな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支えないが、始めと終りの悲惨であった母の運命だけは、この児に繰返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。」

中学生だったわたしは、将来なりたい人物像に 寺田寅彦を描いていた。
物理学者であり、優れた随筆家であり、夏目漱石のいちばんの俳句弟子であり、バイオリンもチェロもピアノも上手に弾け、絵もうまい。
線香花火の火花の形の研究など、日常身辺に起こる現象をわかりやすく説く“寺田物理学”が好きだった。
こんな寅彦に憧れた。

当然のことながら 何一つ 寺田寅彦に敵うものなど持てなかったが、ひとつだけ 寅彦よりちょっと幸せそうなものを、わたしは持っている。
57才で没した寅彦は 二回も妻を亡くし、結婚を三回している。
わたしは、53年も ひとりの妻と一緒に過ごしてきて、78才になった今も ふたりとも辛うじて元気に生きている。
家内は、「若い奥さんを三度ももらえた寅彦さんのほうがいいんじゃないの」と、茶化して言うのだが・・・

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私蔵本の ささやかな装幀

2023-07-23 16:43:41 | 

私蔵本などと言っても せいぜい1000冊くらいなのだが、それでも 小さな部屋の小さな本棚を 埋め尽くしている。
7年前に 今の住まいに引っ越すとき、相当な量の本を 思い切って処分したつもりだったのだが、この7年間に こんなに溜まってしまった。
これらも いずれ、終活の一項目となるのだろう。

私には 本に関して、ささやかな楽しみがある。
自分の気に入った本を、透明フィルムでカバーするのだ。
以前からなのだが、ドイツ製の透明接着ブックカバー「フィルムルックス・609」で ぜひとも残したい本を、ささやかに装幀するのである。
いずれは捨てられると解かっていても、願わくば(私の想いも含めて)誰かに読んでもらいたい、という下心があるのだと思う。
もっとも、読破率が極めて低い上に、なかなかピタッとくる本に出合えていないので、透明フィルム装幀の本は ごくわずかではある。

どこが永久の棲み家になるのかは不明だが どこになるにせよ、これらの私蔵装幀本だけは 携えていきたいと思う。

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先輩Aさんの訃報

2023-07-07 17:36:27 | 

先輩Aさんのご家族から、一枚の訃報ハガキが届いた。

S社の愛媛製造所・新居浜工場に わたしが新入社員として配属されたのは、53年前であった。
同じ課に 1年先輩のAさんがおられた。
冷間圧延機の設計を仕事とする課で、薄鋼板の平滑度を向上させる設備である「テンションレベラー」を設計するチームで ご一緒させていただいた。

彼の薦めで、同製造所の山岳部に入部した。
何度か挑戦した「シャクナゲ山行」は、あの頃の懐かしい 貴重な思い出である。
廃坑寸前の別子銅山に 山岳部の山小屋があった。
定期的に その山小屋に籠るのだが、そこでやることは 天気図の作成だった。
ラジオから流れる『天気予報』の「御前崎1008ミリバール、北北東の風、風力3・・・」に聞き耳を立てて、気象白紙地図に等圧線を引き、風向・風力を記入していくのである。
気象に詳しくなる、それが山岳部の「掟」みたいなものであった。

山小屋に寝泊まりすることもあったが、そんなとき、ふだんは多くを語らないAさんから 彼の個人情報を聴き、わたしもそれを曝けだす。
彼は、知多半島で農業機械の工場を経営する会社の長男であり、いつかは実家に帰らねばならない立場の人であった。
同じような境遇のわたしに、弟のように接してくださった。

わたしがS社を退社する1年前の早春、Aさん家族は S社の元親会社の管轄する新居浜港から、新居浜を去って行かれた。
夜10時40分出航の関西汽船を、同僚数人と見送った。
彼らのそれぞれの手に、色とりどりのテープが数巻 握られている。
Aさん家族の立つ高い甲板に そのテープを投げるのだが、そのほとんどは 暗い海にむなしく落ちた。
わたしの投げた赤色のテープを、Aさんがうまくキャッチしてくれた。
49年経った今でも、あの光景が ありありと脳裏に浮かぶのである。

あの 新居浜港での別れ以後、Aさんとは 年一回の賀状だけの付き合いとなった。
だいぶ後になって、半田市にある新美南吉記念館を訪ねた際、近くのAさん宅を訪問してみようと勇気を振りしぼったのだが、突然の訪問は迷惑をかけると思い直し、諦めたことがあった。
いま この歳になって、こういう後悔ばかり 頭をよぎる。

享年79歳であった。
来年 わたしも、その歳になる。

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AIと人間

2023-06-02 11:04:51 | 

藤井聡太さんが名人位をとった。
大谷翔平がホームランを打ったニュース以上に、うれしい。

彼は「AI時代の新名人」と呼ばれる。
藤井聡太は AIを越えているのか。

AIの知識は皆無に等しい人間の「ひとりごと」として、聞いてください。

AIは、過去から今に至るまでの人間の 言葉や行動や作品やらの 莫大なデータから成り立っている。
つまり AIは、人間以上のことができるとは考えられない。

普通の人間は、過去から今に至るまでの あらゆる人間の言葉や行動や作品やらを すべて記憶することなどできない。
だから、「AIはすごい」と言うことになる。
それだけのことだと思う。

ほんとうに新しいこと、奇想天外な思考、心が震えるような言葉や行動、これらは人間にしかできないのではなかろうか。

職人肌の父が よく言っていた。
「知識と知恵は別もんや」と。
そう、AIには「知識」は膨大にあっても、「知恵」は人間にしか生み出せない。
「知恵」は、実体験から生まれるもの。
恐ろしいほどの量の「知識」を蓄えているAIでも、血を吐くような苦い経験を積んではいないだろう。
だから、AIには「知恵」は生み出せない、と 私は考える。

藤井聡太さんは「人間の方が読める局面がある」と言っている。
「対局に現れるのは指した手だけですが、指されなかった手も存在します。それぞれに意図があり、重なり合って一局の将棋になる。意図を持って指し手を選ぶという人間ならではのことを大切にしたい」と。

凡人にはできないことだが、できる人間もいる、そのことに 私は希望をみる。
独自の真言世界を生み出した 弘法大師空海しかり、現実の惨さを越えた絵『ゲルニカ』を描いた ピカソしかり、そして「AI超え」と表現される一手を放つ 藤井聡太しかり、である。

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みちのく いとしい 仏たち

2023-04-30 15:12:24 | 

岩手県立美術館で「みちのく いとしい 仏たち」展がひらかれている。
D&DEPARTMENT RROJECT出版の『d design travel 岩手』で調べると、盛岡市にある岩手県立美術館は すごくかっこいい、見てみたい。
盛岡へ行こう。

ニューヨーク・タイムズの「2023年に行くべき52カ所」の二番目に 盛岡がランキングされたから、行くのではない。
むしろ そういう情報だけなら、きっと 旅先に盛岡を選ばなかっただろう。
わたしが盛岡を訪ねたいと願ったのは、伊吹有喜が書いた小説『雲を紡ぐ』の盛岡に、親しみ深い街の風を 強く感じたからだ。
「みちのく いとしい 仏たち」展は、付けたしではないけれど、“御旗”みたいなものであった。

盛岡に着いて まず、盛岡城跡公園を歩く。
石垣の美しさに、思わず 昭和の名曲「古城」の歌詞が口をつく。
わたしの左手には 文春文庫『雲を紡ぐ』が、親指を栞替わりにして 握られている。
午後の春陽を反射して、紙面が少しまぶしい。
開かれているページは、主人公・美緒が ホームスパンの師匠でもある祖父・紘治郎に連れられて 二の丸跡地の広場に来たところだ。

美緒は 登校拒否の高校二年生、両親との間も ギクシャクしている。
東京・稲城の自宅を ひとり抜け出して いま、盛岡市の隣町・滝沢にある 父方祖父の工房兼自宅である山崎工藝舎に 居候している。

城跡には、いろんな種類の大きな木が、いっぱいだ。
名前を覚えきれないのだが、どの大木も 近畿の樹木と趣が違うようだ。
小説の二人の行動にシンクロして わたしも、二の丸広場北西に建つ石碑の前に立っている。

「学校で習っただろう。石川啄木の『不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて・・・』の、不来方のお城はここだ。これがその歌碑。『・・・空に吸われし十五の心』。美緒ぐらいの年の頃に 啄木もここに来たわけだ」

目の前の 残雪を抱いた岩手山の頂にかかる雲が、強風に流されて 姿を変えていく。
「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
啄木が 言うことなしと詩う山はどんなだろうと 少々猜疑的に想像していた山は、みごとに吹き飛んだ。
雄大さといい 品格といい、まさしく 言うことなしの、ありがたい山である。

それぞれに特筆すべき特徴ある喫茶店のかずかず、野卑でない下町臭に懐かしい昭和の香り漂う 内丸界隈、手作業の妙の品を手に取って賞味できる 紺屋町の街並み、お城の北側を走る大通りの 堂々たるユリノキ街路樹、裁判所前の石割桜や肴町のシダレカズラ、北上川支流の 鮭が遡上するという 中津川の堤と両岸の風情、毎週土曜日の夕方に歩行者天国道路となる いーはとーぶアベニューに並ぶ出店 よ市の賑わい、そしてなにより、福田パン製コッペパンの おいしいこと。
盛岡の街には、惚れ込まざるを得ない仕掛けが ここかしこにあふれている。

さて、本題の「みちのく いとしい 仏たち」のことである。

正直、この催し展に あまり期待していなかった。
白鳳仏に惚れ込み 円空仏以外 室町時代以降ことに江戸時代の仏像など 見向きもしなかった わたしには、民間仏と聞くだけで その魅力を想像する術は 円空仏にしか なかった。
この展を観ることによって わたしは、大げさだけれど 仏像観が変わるほど、みちのくの民間仏に魅了されてしまった。

仏像は、本来 正しい図像を熟練した技巧で制作したものであって、名前の伝わる仏師とその工房が 作者である。
こういう仏像は、お寺の本堂内陣に祀られ、ご本尊として崇められる。
民間仏は、しかるべき図像儀軌を踏まえず むしろそんなものには無頓着に、仏像制作の素人である片田舎の大工や 手の器用な村人によって、多くは粗末な木材から刻りだした仏像である。
つくられてから200年300年程度の 美術史的にほとんど無価値な、小さく粗末な祠や小屋 運が良くて煤だらけの神棚が 彼らの居場所である。
それでも いやそれ故に、素朴で単純な造形は、率直で飾らない信仰の対象でありえた。
なぜ みちのくの民間仏は かわいいのか、祈り見つめる根底に つらさ切なさくやしさがあるからだ と、この展の主催者は言う。
そのつらさ切なさくやしさを「てえしたこだねのさ(大したことはないんだよ)」と笑ってみせるやさしさが、ニコニコする民間仏を産んだのだ と。
主催者は、哀しさを秘めているから かわいいのだ と、断言する。
まったく同感だ。

この「みちのく いとしい 仏たち」展は、定朝や運慶などの “法印”クラスの専門仏師ではなく、円空や木食などの 生涯を仏像制作に捧げた造仏聖でもなく、いわば「第三の“彫り手”」の存在にスポットライトを当てる 絶好の催しだと思う。
なお、今年9月16日~11月19日には 京都・龍谷ミュージアムで、また 今年12月2日~来年2月12日には 東京・ステーションギャラリーで、同じ催しが開かれると聞く。
機会があれば、京都でも 彼ら民間仏に もう一度 会ってみたい。

旅は 非日常の深呼吸、なんとか足腰と脳が定かである限り 旅を続けたい、そう願っている。

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唐招提寺を訪ねて

2023-04-15 15:27:59 | 

奈良へ行ってみたい。
この願望は、喧噪の日々を過ごし 体調不良に漠然と将来の不安を感じるとき、あの ゆったりと流れる奈良時間の中に遊ぶ自分を想像して、たまらなく募ってくる。
ここ 長らく、奈良を訪れていない。
あちこち歩きまわる体力を失ったわたしには、このみ寺しかない。

わたしの中で「み寺」と呼べる場所は、唐招提寺の境内しかない。
南大門を潜って、あの 緩やかに流れる天平の甍・金堂を、真正面に眺める。
なんという圧倒的な光景であろうか。

八本の吹き放しの円柱が並ぶ。
この円柱を見ると わたしは、この円柱に もたれかかりたい誘惑にかられる。
いけない いけない 危険だと、この独占欲の匂いがする誘惑を抑えて、これくらいなら と、そっと指先で年輪を辿ってみる。
光を木目のあいだに吸い込んで湛える という表現が、西洋の神殿の石柱と 根本的に異なる趣を、的確に伝える。
 
東大寺はすごい人でした と、醍醐井戸脇の藤棚に咲き誇る白藤の前でシャッターを切ってあげた(たぶん関東の)旅人が話していた。
ここ 唐招提寺に観光客は少なく、奈良時間が 境内隅々に流れている。
ここを訪ねる口実とした「東山魁夷の襖絵」の御影堂は、鑑真和上命日の前後数日しか公開されないとのことで、門前から拝み見るしかできなかったが、また訪ねる楽しみにとっておこうと思う。

唐招提寺の境内は 春の日差しをいっぱい浴びて、おだやかに ゆるやかに、時を刻んでいた。

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