つれづれ

思いつくままに

ピー子との三日間

2010-07-28 16:41:17 | Weblog
御池通りに面した南側に、ザクロの木が大きく枝を広げています。
7月はじめ、ザクロの枝奥深くに、ヒヨドリの巣を見つけました。
ピーっと甲高く鳴くヒヨドリのつがいが、繁くザクロに舞い降りるので、氣づいたのです。
ヒーヨと啼くので ヒヨドリというのだそうですが、ぼくの耳には 甲高くピーっと長く引っ張るように聞こえます。

長い梅雨明けを告げる祇園祭の暑い日、その巣にヒナが二羽いるのを見ました。
これ以上開けられないくらいに 大きな口を開いて、親鳥から餌をもらっていました。
毎朝 巣を見上げるのが、日課になりました。

猛暑日が続いた7月24日の朝、二羽のヒナが巣にいません。
あたりを探すと、一羽は巣の真下のクローバーの茂る土の上に、もう一羽は車道に、羽をばたつかせていました。
まず 車道のヒナを追いかけて捉え、二羽とも巣に戻すのですが、羽ばたいて 巣からすぐに落ちてしまいます。
しかたなく、とりあえず ザクロの木陰で涼しそうな クローバーの茂る土のところに、置いてやりました。

朝食を済ませて、ヒナの様子が気になるので ザクロの根元を見ると、二羽ともいません。
あたりを あっちこっち探し回って、一羽が、階段の踊り場に置いてある植木鉢の陰にじっとしているのを、見つけました。
でも もう一羽のヒナは、見つかりませんでした。

陽射しが高くなるにつれて、陰にいても頭がフラッとするくらいの暑さです。
このヒナを、このままにしておくことはできません。
近くのホームセンターで、小さめの鳥かごと 粟の餌と スポイトを買ってきました。
怖がって震えているヒナを そっと抱いて、啼くのに口をあけたところに スポイトで水を垂らし込んでやりました。
ヒナは、上手に水を飲みます。
昼食のそうめんを少し取っておいたのを、柔らかいストローの先に巻きつけて 嘴の近くにもっていってやると、大きく口をあけます。
そぉっとストローごと口の中に入れてやると、喉をひくひくさせながら、そうめんの塊を上手に飲み込みました。

高く飛ぶことはできないのですが、地を這うように羽ばたいて移動するので、しかたなく 籠の中へ入れました。
土曜日で会社が休みなので、籠の中に入れて 涼しい事務所に置いたのですが、か細い声で ぴっぴっぴっと啼き続けます。
悪いことしたかなぁ、でも 外の地面は焼けるように熱いしなぁ・・・

このヒナに話しかけるとき、ピー子と呼ぶことにしました。
ピーピー啼くからです。
名付け親は、家内です。

しばらくすると 泣き疲れたのか、ピー子は、嘴を右の羽の付け根にもぐらせて、丸こい眼を閉じて眠ってしまいました。

ピー子との、二泊三日の いとおしい戦いの始まりです。

夕方 街へ出かけるようとしていたとき、二羽の親鳥の激しいピーっという啼き声と、それに呼応するように ピー子のピーピー啼く声が、階下から聞こえます。
昼間の焦げ付く暑さは 少し引いていましたから、ピー子を親のもとに還してやろうと思いました。
ところが、夕立の前触れのような雨雲が、東の空を覆っています。
もうすぐ 間違いなく、氣違いのような雨になるはずです。
二羽の親鳥は、吹き抜けの丸窓にとまったり、ときには ブラインドのそとのガラス窓にぶつかるように近づいたり、事務所の東通路を行ったり来たりしています。
どうしたものだろう、親鳥のもとに出してやりたいが、しっかり飛べないピー子は、激しい夕立に耐えられるだろうか・・・
思案がそう長く続かないうちに、雷を先ぶれに、横殴りの大粒の雨が降り出しました。
知らぬ間に、親鳥もいません。
街へ出かけるのは諦めて、ピー子のそばにいることにしました。

ピー子は、さっき そうめんをちょっと食べただけです。
なんとか 粟を食べさせてやりたい。
使い捨てスプーンの掬い部を ハサミで細くして、口が痛くないように 細くした部分をヤスリとペーパーで引っ掛かりのないようにして、その柄に 割りばしの一本をセロテープで継ぎ足して、籠の中に入りやすくしました。
粟の小粒は 水でふやかして、スプーンの掬い部から滑り落ちにくくし、少しずつピー子に与えました。
口を めいっぱい開いて、粟を飲み込む様子は、とてもかわいい。
ぼくをあまり恐れなくなったピー子が、こんなにいとしいものとは、想像していませんでした。

夜中、見に降りた三度とも、あの熟睡ポーズ、嘴を右の羽の付け根にもぐらせて、丸こい眼を閉じて眠っていました。

鳥の朝が早いのは当然ですが、夏の朝は明けるのが早いので余計、早朝からピー子との戦闘開始です。
もう、親鳥が二羽揃ってやってきています。
ピー子の啼き声に引き寄せられるように、甲高く激しく啼き続けています。
片方の親鳥は、大きな虫みたいな餌を咥えています。
ピー子を籠から出して、鉢植えの柊の根っこへ置いてやりました。
すると すぐさま、餌を咥えた親鳥は 鉢の淵に来て、ピー子の大きく開けた口に 餌を口移しします。
今度は、近くにあるブドウ棚から、まだ青いブドウの実を咥えてきました。
よく見ていると、餌を運ぶ親鳥は もう一羽の親鳥よりも一回り大きく、小さめの親鳥は 少し離れてピー子を見守っています。
どちらが母鳥で どちらが父鳥かは判りませんが、ちゃんと役割分担があるみたいです。
このヒヨドリ親の、たくましい親らしさに、眼がしらが熱くなりました。

この光景を見せてやりたかったのでしょう。
家内が孫たちを呼び寄せました。
日曜日は一日中、ピー子の話題でもちきりでした。

ピー子は、親鳥に促されて、いっしょうけんめい飛ぼうとしています。
でも まだ、地上1メートルも高く飛べません。
日中の強い陽射しに、だいぶ体力が落ちてきたみたいです。
日曜日の車の量は少ないといっても、車道に出れば、危険がいっぱいです。
親鳥は、ずーっとピー子のそばにいるわけではありません。
孫たちも帰りました。
不気味な赤さのまんまるい月が、東の空に上がってきました。

この敷地内には、蛇がいます。
野良猫も、数匹うろついています。
空からは、カラスが狙っていることでしょう。
このまま、ピー子を自然に任せた方がいいのか、せめてもう一晩 安全な場所で過ごさせた方がいいのか、迷います。
明日は会社があるし、ピー子のことに かまけてはいられません。
でも、もう一晩だけ、籠の中で過ごさせよう。
そう、決心しました。

月曜日の早朝、きのうと同じように、二羽の親鳥がピー子の声に呼び寄せられて、事務所の東通路を騒がしく飛び回っています。
籠からピー子を出すとき、これが最後かも という予感がしました。
スポイト一杯の水と、スプーン二杯の粟を与え、きのうと同じ 柊の根っこに、そっと置いてやりました。

ピー子が、飛びました。
低空ですが、10メータほど離れた設計室への登り階段のところまで、飛んでいったのです。
親鳥が、そばで激しく鳴いています。
ぼくは、うれしくてうれしくて、感情移入から感情失禁になっていました。

そのとき、よく孫たちが歌っていた唄が、自然に口を突いて出ました。
高見のっぽさんが歌っている「グラスホッパー物語」です。
 ・・・とべとべ はねを ひろげ
    おおぞらの むこうへ
    おそれる ことは ない
    まだ みぬ せかいへ・・・

ピー子は、登り階段を 一段ずつ 失敗を繰り返し繰り返し、上がったり下がったり。
その間 二羽の親鳥は、1時間おきぐらいに餌を運んでいます。
でも 昼前ごろになって、口移しに餌を与えるそぶりをして 与えなくなりました。
ピー子を飛ぶように促していることが、離れた所からみていても、よくわかります。

ピー子の見はり役を、家内と水野さんに交代してもらっていた間に、大飛躍がありました。
見張り役の歓声で 察しがついたのですが、ピー子が高く飛びあがったのです。
登り階段から いったんワゴン車の天井を経由して、デイゴの木の高い枝へ移ったというのです。

たしかに、座り心地よさそうな デイゴの太い枝の切り口に、ピー子は ちょこんと乗っかっていました。
ここなら、デイゴの茂った葉で直射日光は避けられそうだし、何より 風通しが良さそうです。
親鳥も 近くの枝にとまって、ピー子を見やっています。
ほっとしました。

夕方まで、何度かデイゴを見上げましたが、枝の位置を変えたり、向きを少しずつ変えたりしながらも、安定感のあるとまり方でいます。
羽を大きく広げたりと、なんとなく 逞しくなったようです。

翌朝、デイゴのどの枝にも、ピー子の姿はありませんでした。
木から落ちてはいないかと、デイゴの根のあたりを見渡しましたが、ピー子はいません。
うまく羽ばたいて行ったのか、無事を祈るしかありません。
やっと解放されたという気持ちと同時に、一抹のさみしさを感じながら。
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ダンスのように抱き寄せたい

2010-07-23 11:35:24 | Weblog
映画「RAILWAYS」は、男の夢です。

当社の厨房用麺機機種に、「軽便二段麺機」というのがありました。
父が、大隈式二段麺機を軽便化したものです。
いま当社の厨房用主力機種になっている「ミディ麺機」は、父が工夫した「軽便二段麺機」を さらに改良・発展させたものです。

話が逸れましたが、「軽便」という言葉に関連して 脱線しました。

あのころの 多くの鉄道ファン少年が抱いたように、僕も「軽便鉄道」に憧れました。
脱線ついでに、日本における最初の軽便鉄道は、1880年開業の釜石鉱山鉄道です。
南海電鉄の前身である阪堺鉄道は、この釜石鉱山鉄道のお古です。
なお 軽便鉄道とは、軌間(レールとレールの間隔)が、例えば 762mm のように狭く、一般的な鉄道よりも規格が低くて、安価に建設された鉄道のことです。

映画「RAILWAYS」に登場する だいだい色した箱型の一畑電車「デハニ50形」は、一畑軽便鉄道から社名変更した直後の 一畑電気鉄道の象徴でした。
去年3月末の営業運転を最後に、引退してしまいました。
最後まで自動ドア化を拒み、手動ロック式ドアのままでした。
ちなみに、「デハニ50形」の「デ」は電動車のデ、「ハ」はイロハのハで三等車のこと、「ニ」は荷物車付の意味です。

さて、映画「RAILWAYS」は、鉄道ファンなら、筋書きそっちのけで映画代払っても、絶対損しません。
でも、それだけでは、もったいない。
中井貴一と奈良岡朋子の「息子と母親」が、一級品なんです。
ベタベタせず、いい距離感を保ちながら、お互いを思いやっている。
男なら、こんな関わりあいでいたいと思う 母親との関係です。

奈良岡朋子のキャリアが、にじみ出ています。
病室の窓から、息子が運転する一畑電車を眺める 母親の表情。
これを幸福と言うんだと、断言したくなります。

49歳の主人公・筒井肇役の中井貴一は、正真正銘の49歳で、これが えも言われぬ はまり役なんです。
彼の父、佐田啓二の渋い清潔感に輪をかけたような、それプラス、ウィットの効いた明るさで、あったかーぁくさせてくれるのです。
背広姿もきまってますが、運転手の制服が あんなに似合う俳優さんは、中井貴一をおいて他にないでしょう。

ひとり娘役の 本仮屋ユイカ、いい女優さんですね。
爽やかな風がつねに流れる この映画に、ひときわ清潔な爽やかさを添えています。

もうひとつの見どころ、夫婦関係。
一畑電車の運転手に転職した肇が運転する「デハニ50形」に、東京からやってきた妻(高島礼子)が初めて乗る。
みるからに郷愁漂う「いちばたぐち」の駅に降り立ったふたりは、どちらからともなく歩み寄って、ひとことふたこと。
出発ですよと 同僚に促されて、肇が妻に言い残す言葉。
「終点まで、ちゃんと乗ってくれよな」
このセリフを あんなに嫌みなく語れるのは、中井貴一だけでしょう。
妻も素直に、「はい」と答える。
あの場面は、忘れがたいシーンがいっぱいある この映画の中でも、ピカイチです。

東京でハーブショップを開いて 専業主婦を脱皮した妻・由紀子役の高島礼子は、僕にはちょっと苦手なタイプですが、見かけは冷ややかそうなんだけれど 根底にあたたかい思いやりをもった妻であり母である女性を、しっとりと演じています。
歳相応の年輪と美しさを感じさせる、ちゃんと自立した女性像です。

肇と由紀子の夫婦のような生き方は、正直 ぼくには理解し切れません。
一回り以上の年齢差が、理解をはばんでいるのでしょう。
でも、いいなぁ、とは思います。
この映画の「息子と母親」の関係と同様、ベタベタ感のない距離感、いいです。

エンディングに流れた 松任谷由実の「ダンスのように抱き寄せたい」を聞いて、この思いを強くしました。
ダンスのように抱き寄せたいのは、ダンスのようには もう踊れないからです。
中年夫婦の、落ち着いた仕合せが漂ってくるようです。

キザではなく、「ダンスのように抱き寄せたい」と素直に語れる夫婦って、いいですね。
ぼくには到底真似できそうもありませんが、けれん味のない一生を、ぼくも全うしたい。
この映画をみて、そう強く思いました。

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もだえ神さん

2010-07-21 16:53:12 | Weblog
一緒に仕事をしている水野さんが、重松清の単行本『十字架』を貸してくれました。
わたしが重松清ファンだということを、知っていてくれたのです。
近頃は 数ページ読んだら眠くなるのに、『十字架』は一気に読んでしまいました。

スウェーデン・ストックホルムの近郊にある世界遺産『森の墓地』のイメージを下敷きにして、物語は、「いけにえいじめ」されて死を選んだ 中学二年生の男の子・フジシュンの遺書から、展開していきます。
遺書には、勝手に親友扱いされたユウくん(主人公の僕)には「ありがとう」、いじめられた同級生・三島と根本には「ゆるさない」、片思いの中川小百合さん(サユ)には「ごめんなさい」、その三つの思いが書きのこしてありました。
遺書に名前を出されて、一方的にフジシュンの思いを背負わされて生きた 彼ら四人のその後の人生を、物語は、「見殺し」という十字架を背負う「罪びと」の意識との葛藤として、描かれています。

ひとを責める言葉には二種類ある、と、重松清は 小説のなかで語っています。
ナイフの言葉と十字架の言葉。
事件の一部始終を知る 地方紙の女性新聞記者・本多さんが、18歳になった僕(真田裕)に語ることばとして、著者は こう描いています。
「その違い、真田くんにはわかる?」
「言葉で説明できないだけで、ほんとうはもう身に染みてわかってると思うけどね」
「ナイフの言葉は、胸に突き刺さるよ」
「痛いよね、すごく。なかなか立ち直れなかったり、そのまま致命傷になることだってあるかもしれない。でも・・・」
「でもね、ナイフで刺されたときにいちばん痛いのは、刺された瞬間なの」
「十字架の言葉は違う。十字架の言葉は、背負わなきゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんかできないし、足を止めることもできない。歩いている限りってことは、生きている限り、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ」
「どっちだと思う?」
「あなたはナイフで刺された? それとも、十字架を背負った?」

あの阪神淡路大震災のあと、「ちびくろ救援ぐるうぷ」で 取り付かれたようにボランティア活動をされていた村井雅清さんは、自分たちだけ助かったという 理不尽な負い目を背負ってられたに違いありません。
去年の夏、佐用町を襲った台風9号による豪雨で、濁流に流されて行方不明になった小学5年生の小林文太君のおじいさんは、自分が避難して来いと言ったばっかりに 文太君を失ってしまったと、ご自分を責め尽くしておられました。

小説『十字架』の中川小百合も、自分を責めます。
フジシュンが自殺する当日にかけてきた電話のこと、プレゼントを持って行きたいと言われたこと、そっけなく断ってしまったこと、電話を切ったあと フジシュンが宅急便でプレゼントを送ったこと、そのコンビニでビニールテープを買って帰り 部屋に置いてあった遺書に 自分に詫びる追伸のメッセージを残したこと、そして 首を吊って死んだこと。
もしもフジシュンの望みとおり、会っていれば。
会わなくても、もっと優しい言葉をかけて電話を切っていれば・・・
サユは ただただ、ごめんなさいを繰り返すことしかできませんでした。

人は皆、心のどこかで、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と叫び続けずにはおれない負い目をもっている。
生きていくことは、ごめんなさいを積み重ねることなのかもしれません。
ただ ごめんなさいが、素直に口を突いて出ない。
法然上人は、ごめんなさいが言えない人間の弱さを見抜かれて、ただただ「南無阿弥陀佛」と唱えなさい、と諭されたのだと思います。

小説『十字架』を読み終えたのは、午前2時をまわっていました。
目が冴えて すぐには眠れそうにありません。
録画しておいた「100年インタビュー~免疫学者 多田富雄‘寛容’のメッセージ」を再生しました。
寛容の意味を探る その④「文明と科学の未来に救いはあるのか?」で、その答えを探るべく、三宅民夫アナウンサーは、前立腺がんを宣告されたころの多田先生が出された往復書簡集『言魂(ことだま)』の対談相手であった石牟礼道子さんを、熊本のご自宅に訪ねます。

パーキンソン病で姿勢保持困難なおからだで、石牟礼道子さんが、ひとことひとこと噛みしめるようにおっしゃった言葉のかずかず。
次元が違いすぎますが、突然 盲目になったパウロが 再び眼が見えるようになって 主に<行きなさい>と指し示された悦び、とでも表現したらいいのでしょうか。
据わらない首を懸命にこらえておっしゃった石牟礼さんの言葉から、録画の再生画面を通して私は、震えるようにあふれ出る悦びの智識を授かりました。

もだえ神さん。
なんにも出来ずに、ただ立ちすくむだけの人。
苦しんでいる人に 自分は何もしてあげられないと、もだえる人。
石牟礼さんが会われた 重度水俣病患者のご婦人は、自分の前で ただ立ちすくむだけの人をみて、「もだえ神さん」と呼んで 手を合わされた、というのです。

石牟礼さんは、「文明と科学の未来に救いはあるのか?」という問いに、多田先生がお考えになっていたのはこういうことなのでしょうと、どん底から心を再生した水俣病患者さんの言葉として、わかりやすく諭されます。
・・・他者の存在をないがしろにしない、そこには愛があり、人の心は愛で治ります。
多田先生のおっしゃる「寛容」は、品性の落ちた人々の心を再生する基盤、大地からの再生エネルギーを共有する基盤です。
それを、「愛」と呼んでもいいでしょう。
ある水俣病患者さんは、苦海を這いずりまわって苦しんだ末に、「チッソを許します」とおっしゃった。
「許すと、自分が楽になりますから」と。
多田先生が 長い闇の向こうに見えるとおっしゃる「希望」も、「愛」と呼んでもいいでしょう。
文明と科学の未来に救いはあるのか?という問いかけは、多田先生が すでにちゃんと、お答えになっているのです。・・・

多田富雄先生は、往復書簡『言魂』の中で、石牟礼さんのことを こんな風に表現されています。
・・・怒りを包んで、そこからほとばしり出る魂である。それが、石牟礼さんの「姉性(あねせい)」だと 私は思う。ともすると絶望、末世の思想に陥って、そこから抜け出せない現代である。しかし、彼女の強さや優しさは、一抹の希望を予感させる。・・・

「姉性」って、わかりやすくて いい言葉ですね。
石牟礼さんに、ほんとにぴったりの言葉です。

小説『十字架』の終盤で 重松清は、かっての恋人だった<僕・ユウ>に宛てた中川小百合の手紙の中で、次のように落ち着かせています。
・・・昔ユウくんに言われた「荷物を降ろせ」という言葉を、最近よく思い出します。それって無理だよね、と思うのです。わたしたちはみんな、重たい荷物を背負っているんじゃなくて、重たい荷物と一つになって歩いているんだと、最近思うようになりました。だから、降ろすことなんてできない。わたしたちにできるのは、背中をじょうぶにして、足腰をきたえることだけかもしれません。・・・

もだえ神さんでいいんだよ、と、重松清も言っているような気がします。
すくなくとも、人に「もだえ神さん」を見出す優しさを、持ち続けたい。

小説『十字架』に、そんなことを考えさせられました。


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祇園祭

2010-07-20 09:32:36 | Weblog
5歳の孫息子を右肩に載せて、御池新町の人の群の中に立っています。
下の孫娘は 母親に抱かれて、後ろのほうから わたしの肩の上のお兄ちゃんを見ています。

菊水鉾が いま、そのまま新町通りを越してしまいそうな位置まで進んで、止まりました。

孫息子が 頭の上から、鳥獣戯画を描いた扇子で、風を送ってくれます。
焼け石に水のような風ですが、彼の優しい気持ちは、首筋を這って流れる汗といっしょに、伝わってきます。

いま お囃子の音色が、変わりました。
これから、辻回しが始まります。
引き手からも、そしてちょっと遅れて観客からも、うぉーっという声があがります。
30度ほど南に向きを変えただけですが、周りから自然と拍手が起こりまた。

菊水鉾の辻回しの間に、伯牙山 山伏山 郭巨山と、先に新町通りへ流れていきます。
東山を背景に 鶏鉾が、すぐ後から近づいてきます。

「お囃子のひと、暑いやろなぁ」と、頭のうえで孫の声。
囃し手も 引き手も 付き人も、観客も 警備の警官も、アスファルトの御池通りも、鉾と ひとつ釜のなかのよう。

孫たちは これからも、幾度となく祇園囃子をきくことでしょう。
いま見ている鉾の辻回しや にぎやかなお囃子の音を、ずっとのちになって思いだすかもしれません。
誰の背に載っていたのか、誰に抱かれていたのか、それはたぶん、忘れるでしょう。

4回目の方向転換で やっと 鉾は、新町通りに向きを変えました。

菊水鉾が新町通りに姿を消すのを見届けて、わたしたちは人の群と太陽の光から逃れるように、地下道に向かいました。
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貧乏人には貧乏人の戦い方がある

2010-07-13 14:03:33 | Weblog
「へたくそは、へたくそなりの戦い方がある。がむしゃらにいくしかない。」
田中マルクス闘莉王が、ワールドカップ初戦に臨むインタビューで、こう話していたと記憶します。
闘莉王は、ブラジル生まれの日系3世。
「全力を尽くす」精神は、開拓者である祖父から受け継がれてきたものでしょう。
ぼくは、この「へたくそは、へたくそなりの戦い方がある。」という開き直りに、惚れました。
ワールドカップにおける日本チームの活躍と併せて、このことばに、閉塞感著しい いまの日本の未来に、一条の光をみた思いです。

これと同じ感覚の身ぶるいを感じた言葉を、『崖っぷちのエリー〜この世でいちばん大事な「カネ」の話〜』というテレビドラマの一場面で知りました。
『崖っぷちのエリ〜・・・』は、先週の金曜日より 山田優主演で始まったドラマです。
原作は、女流エッセイ漫画家・西原理恵子(さいばら りえこ)。
彼女の自伝エッセイ作品です。
NHKのインタビュー番組『こころの遺伝子 〜あなたがいたから〜』で出演していた彼女に、少なからずカルチャーショックみたいなものを感じていましたので、このテレビドラマが気になっていたのです。

義理の父親役の陣内孝則が、妻(渡辺えり)の連れ子である山田優に、溺愛の合間の諭しとして語りかけた言葉、
「貧乏人には貧乏人の戦い方がある。」。
美大での教材費を稼ぐためにキャバクラで働いていた山田優は、常連客(西岡徳馬)の 10万円を賭けた タバスコ一気飲み挑発に、金欲しさの一念で乗ります。
一気飲みを途中で諦めかけた彼女を、くだんの常連客が さらに挑発します。
このとき、山田優の脳裏をかすめた言葉が、義父のあの言葉でした。
そして その言葉を、思わず吐き出し、大ジョッキ一杯のタバスコを飲み干したのです。
「貧乏人には貧乏人の戦い方があるんじゃ。」

日本は、もともと貧しい国です。
ここでの「貧しい」は、石油やレアメタルなどの資源が乏しいとか、狭い国土とか、都会での狭ぐるしい住環境とか、そういった意味での貧しさです。
戦後65年、その貧しさをバネとして、どこの国にも負けない物質的豊かさを勝ち取りました。
大阪万博の頃からでしょうか、いつのまにか日本は、自国の貧しさを誤解し出しました。
『含み資産』という言葉が、その誤解を象徴しています。

日本は、もともと貧しい国なのです。
いま そのことを、もう一度はっきり認識すべきです。
その認識から、言葉は汚いですが、「貧乏人には貧乏人の戦い方」が産まれるはずです。

あえて添えますが、日本には日本なりの豊かさが、一杯あります。
その例を、外交評論家の岡本行夫氏は、彼の公式Webサイトに こう記されています。

・・・日本が胸を張って世界に輸出できるのは、「日本人」である。これほど善意でまじめで勤勉な国民はいない。例えば途上国での援助活動にあって、日本の専門家ほど愛情をもち、かつ大きな成果を挙げている人々はいない。ひとたび使命が与えられたときの日本人の働きぶりは抜群である。・・・

ワールドカップの中継でみた日本チームの感動的な働きぶり、何よりも闘莉王が吐き出すようにインタビューに答えた「へたくそは、へたくそなりの戦い方がある」という言葉は、上記の岡本氏の指摘を ズバリ言い当てている、そこには、大きな期待と覚悟をもった希望が見晴らせる、そのように いま、ぼくは考えています。

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再び、2010年安保。

2010-07-06 17:18:53 | Weblog
6月5日付けの朝日新聞朝刊の投書欄に、次のような一文が載っていました。

「鳩山さんに感謝の拍手送る」木村 友美(15歳高校生)
首相を辞めることになった鳩山由紀夫さんだけれど、私個人としては、ここまで頑張った鳩山さんはすごいと思う。
単純すぎるかもしれないが、国家のトップとしての苦労は並大抵ではないだろう。
普天間基地移設問題でも、政府と国民、アメリカと日本との間を取り持つのは重荷だ。
そう考えると、苦心の末に出された政策のあら探しばかりして「ありがとう」を言わない国民は、一生懸命働く母親に文句ばかり言う子どものように見えた。
ダメ出しは遠慮なくぶつけておいて、ああして欲しい、こうして欲しいとわがままを言いっぱなしにするのは、無責任がすぎる。
完璧な政策なんてあるわけない。
政治を理解する努力もしていない私が言うのは差し出がましいが、日本をまとめるために踏ん張って下さった鳩山さんに、テレビの画面越しではあるが、感謝の念を込めて拍手を送りたい。

この投稿文には、15歳の若者のたわいない発言と 片付けてしまうことのできない、大切な啓示がこめられているように思うのです。


沖縄・普天間飛行場の移設問題がこじれ、それが引き金となって退陣した鳩山内閣の跡を継いだ管直人首相は、ギリシャの財政破綻やサッカーワールドカップに国民の関心が移ったと見るや、普天間問題はきれいさっぱり忘れたかのごとく、消費税10%論を唐突に出してきました。
参議院選挙の争点を、普天間や 金と政治の問題から、消費税増税問題に移した狙いは、あまりにも露骨です。
それをわかっていながら、マスコミと、それに隷従するかのように、国民の目は、理想と現実の狭間で にっちもさっちも立ち行かない問題から、財政という国の財布課題に乗り移りました。
なにか、変だと思います。

莫大な赤字国債は、大きな大きな問題です。
バブル崩壊のツケが いま、大きくのしかかってきているのです。
そのために、税金の無駄な使途を洗い直し、それを正し、そこから健全な財政へのとっかかりにしようと、国民は、歴史的な政権交代を選んだのではなかったのか。
そのとっかかりすら 見えていない状態で、どうして消費税増税を いま、持ち出さなければならないのか、私には 政治家のずるさとしか 理解できません。


鳩山由紀夫前首相に、ひとつの大きな不満が残ります。
彼が 政治家として、沖縄問題を真剣に取り組もうとしていたことが 理解できたから余計、その不満が強いのです。
それは、彼の頭の中が 在任8か月の間で、『普天間移設先は、最悪でも県外』から 『学べば学ぶほど抑止力は必要だとわかった』へ、どういうことを学んだから変化したのか、その過程を つぶさに国民に開示してほしかった。
その変化のワケが、国民に、とりわけ 冒頭に紹介した15歳の勇気ある投稿者のような優しい日本人に、納得のいくものであるとするなら、私があえて2010年安保と訴えようとしていることに対して、ほとんど解決された答えを示せるのかも知れないからです。


戦後は終わっていません。
日本は、いまだアメリカから独立していません。

慶応大学教授の小熊英二さんは、「戦争体験世代が社会から実質的に退場し、軍事が戦争と平和の問題ではなく、政策として語られるようになった」とおっしゃっています。
日本に戦争体験世代がいるあいだに、日米関係をしっかり見直さなければならない、いまが その最後のチャンスだ、と、強く思います。
60年安保のときのような、「対米従属の解消と非武装中立なのか、それとも再軍備と改憲によってアメリカに対等のパートナーとして認知してもらうのか」といった、水と油の議論は不毛です。
反戦を国是とした上で、いまの世に最もふさわしい日本という国のありようを、国民全体の関心のうちに決めていかねばなりません。
具体的には、日米安保条約を今後どうしていくのか、です。

普天間問題は、他の話題で もみ消しにできるほど、甘くはありません。
なってしまった莫大な赤字国債の解消は、国家としての指針が定まったあとで、じっくり解決の道を探るべきです。
日本が、国民の総意として こうあるべきと定まったなら、アメリカも、普天間問題をいままでのようには 放ってはおけないでしょう。

私は、アメリカが嫌いではありません。
アメリカが日本に施してきた数々の好意を、決して忘れません。
しかし、戦争を、民主主義を広めるために いたしかたない必要悪だとするアメリカには、抵抗します。
それは、戦争放棄を国是とする日本とは 相容れないからです。
鳩山由紀夫氏が「抑止力は必要」という考えに至った理由が、彼自身の反戦との相克を乗り越えた末であるならば、それを聞かせてほしかった。

鳩山さんがタフでなかったとは言いませんが、ドロドロした駆け引きに長けていたとは言い難いでしょう。
ただ、最近のこの国のトップで、鳩山さんのような優しい首相を、僕は知りません。
タフと鈍感とは違うし、優しさが優柔不断の裏返しでは困る。
その通りです。
その通りですが、歯切れの良さと有言即行も、まやかしと独裁の裏返しであるのも事実です。


タフでなければ生きてゆけない。でも、優しくなければ生きている資格がない。
鳩山由紀夫氏に「ありがとう」を言えた 15歳の木村友美さんに、この言葉を、エールとして送りたいです。

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可愛いイレーヌ

2010-07-01 18:10:08 | Weblog
大阪・中之島の国立国際美術館で開催されていた「ルノ。」(ルノワール展)は、この前の日曜日で終りました。
最終日の前日、京阪電車を乗り継いで 午前中に入場。
美術館を出るころには、雨の会場前に 入場30分待ちの列ができていました。

街角のあちこちに貼ってあった ルノワール展のポスターに掲げられた絵は、『可愛いイレーヌ』です。
この絵の‘ほんまもん’に会いたかったのです。

絵画ファンの多くがそうであるように、私もルノアールの絵が大好きでした。
ロココ美術に憧がれ、その延長線の終着が ルノワールでした。
でも もう、ロココもルノワールも、眩しすぎます。
この「ルノ。」展は、4月17日から開催されていましたが、最初は観にいく気はありませんでした。
遠い恋人は そっとしておきたい、みたいな、変な諦めがありました。

実は、いま、レンブラントに魅せられています。
ロココとは正反対の、陰気くさくて重々しいバロック美術の終着みたいなレンブラントに惹かれるのは、やはり年齢的なものなのかもしれません。
眩しい光は もういい、ロウソクの光のような 一条の輝きでいい、そんなところなのでしょう。

ただ どうしても、あの『可愛いイレーヌ』に 最後一度だけ、会っておきたい。
最後の別れを告げられたら、もう思い残すことなく、レンブラントの光に向かえる。
そんな、人に言うのも恥ずかしいような理由で、まあ こじつけ的な感も否めないのですが、本格的なルノワール展を観るのは これが最後と、出かけた次第です。


『可愛いイレーヌ』は、正式には『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』といいます。
ユダヤ人の銀行家ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女イレーヌ(1872~1963)の肖像画です。
製作年は、1880年となっています。
このとき、イレーヌは、8歳。

当時フランスは、普仏戦争に敗れ、ナポレオン3世の権威が完全に失われて第二帝政は終焉し、第三共和政下にありました。
言論・出版の自由が保障され、政教分離が進むなど、自由主義的諸改革が進展した時期です。
同時に、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し 国威発揚につながる植民地拡大政策が採られて、西アフリカやインドシナに フランスの植民地化が進んだ時期でもあります。
国内経済の不振で 資金は有利な海外投資に向けられ、国民の零細な貯蓄は、ユダヤ系の金融資本によって 植民地への投資に引き入れられていきました。
1882年には金融恐慌が発生し、多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせていきます。
同時に、普仏戦争後 フランスの外交的孤立化が進む一方、アルザス・ロレーヌ地方の移譲に根深い禍根を残し、多額の戦争賠償金に苦しめられた国民には、隣国ドイツへの恨みつらみが、フランス国民の共通する感情としてくすぶります。
こういう反ユダヤ的・対ドイツ的雰囲気のうちに 1894年に起こったのが、ユダヤ人のフランス陸軍参謀本部大尉であったアルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件、ドレフュス事件です。
ドレフュスが、ドイツのスパイの汚名を着せられたのです。
この事件で軍は弱体化が進み、フランスは不安定な第三共和政のまま、第一次世界大戦へと突き進んでいきます。

イレーヌにとって、ルノワールに肖像画を描いてもらっていたころが、もっとも幸せな時期だったのでしょう。
1891年 19歳になったイレーヌは、ユダヤ人銀行家カモンド伯爵と結婚し、息子ニッシムをもうけますが、12年後には離婚。
その後 再婚はするものの、第一次世界大戦に出征した息子のニッシムが戦死してしまいます。
混乱する19世紀末に青春を生き 戦争に明け暮れた20世紀前半に壮年期を生きたイレーヌは、裕福なユダヤ人家庭に育ち 幸せすぎた幼少期であったがゆえに余計、誰もが蒙らなければならない時代の残酷に、人一倍 心を痛めなければなりませんでした。

パリのモンソー公園近くに建つニッシム・ド・カモンド美術館は、前夫カモンド伯爵が 死後、息子ニッシムの名を冠して、収集した美術品とともにフランス国家に寄贈した、自邸の建物とのことです。


母親に叱られて 終始うつむきながら、館内を人波に押されて歩む少女の、悲しい姿に気を取られて、展示された絵の前半は、鮮やかさだけが流れていました。
独立して掲げられている『可愛いイレーヌ』の前に至って、やっと、ルノワールと対峙することができました。

切りそろえられた前髪。
肩を覆うようにゆったりと長く垂らした後ろ髪は、紺色のリボンで纏められています。
なんて上品な顔立ちなんだろう、目も鼻も口も、耳さえも・・・。
なんて愛らしい手なんだろう、短めの子供っぽい腕。
でも この少し縮れたような褐色の髪が、この絵に惹かれた いちばんの理由だったと、改めて納得しました。

誰かに似ている。
『可愛いイレーヌ』を前にして、初めて思い出しました。
幼稚園の学芸会で 助けを求めるような目で私を見ていた、あの女の子に、よく似ていたのです。

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