前回の記事「見えない世界」の栄養 3で、
「同じような材料を使っていても遊びに参加する子が変わる度に、
質の異なるアイデアが生まれてきて、別の楽しみが共有されていく」と書きました。
小3のAくんと小5のBくんの二人の暗闇の活用の仕方はこんなふうでした。
デュプロブロックで建物を作るのが大好きなAくん。
何をすると決めるでもなく大きな箱のようなものを作っていました。
Bくんはデュプロの中や隙間からライトを当てたり、人形にいろんな角度から
ライトを当てて、長い影や短い影、歪んだ影などを作ったりして遊んでいました。
そのうち、Aくんの作るブロックの箱内に人形を置いて、
ライトを当てて遊びだしました。
最初のうちは、何十体もの人形をびっしり並べて、大量の人形の影が映る様子を
眺めていたのですが、最終的に一体の人形にさまざまな角度からライトを当てて、
それが壁面を動いていく姿を楽しんでしました。
そうした遊びからヒントを得て、壁面を使った『マリオゲーム』が完成しました。
ボスキャラを倒す炎のシーンは赤い色水にライトを当てて演出しています。
影が箱内の壁を半周しながら土管を飛び越えたり、
ビックマリオになったり、敵と戦ったりするこの作品。
大変だったのは、ライトを当てる隙間を作ることでした。
スムーズに影が動いて、ジャンプしたり大きくなったりする変化をさせようと
思うと、いったん作品の一部を何度も壊して作り直さなければなりませんでした。
それでも、完璧なものに仕上げたくて、AくんもBくんも、
やりなおしに屈せずに作り続けていました。
ふたりの姿を見るうちに、哲学と倫理学の教授の鷲田清一先生の
『「とことん」に感染する若者たち』というエッセイが浮かびました。
鷲田先生は常日頃、「アート制作のボランティアに駆けつけるひとたちは、
無報酬なのに、なぜ寝食を忘れるくらい熱心になれるのか、
今の若者は労働への意欲やモチベーションがはなはだしく落ちているという風評は
嘘のようだ」と感じておられたそうです。
大阪で封印された地下街を光のアートで蘇らせるプロジェクトの際も、
アーティストの一人が三千本の蛍光灯を必要とすると、どこからともなく集まった
ボランティアが、廃墟や工事現場を回って本当に三千本集めてきたそう。
林海象監督の最近作では、京都の芸術系大学の学生が演技や舞台装置や
工法の中心にいて、画面の隅にちょこっと映る請求書の束ですら、学生が一枚一枚、
請求する会社の名前を考案し請求の費目も書きこんだそう。
高嶺格のダンス作品でも、踊る学生が小道具の一部である古いLPレコードを
数百枚、一枚として同じものなく集めてきたのだとか。
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いっさい手抜きしないこの凄まじいエネルギー、いったいどこから生まれるのか。
他人と何かをいっしょに創っているという感覚がもてる。どんなテーマにも
入っていける。体感が活動にじかに訴えてくる。
労働のように目的によってやることが先に決まっていない。
あらかじめ枠組みもしがらみもないのでゼロから創ってゆける……。
理由はいろいろと考えつく。が、その場に実際に居合わせて思った。
細部にまでとことんこだわり、果てしなくやりなおし、絶対に手を抜かないアーティ
ストたちの「本気」が、空気として協力者に伝染し、彼らに中途半端な活動を
許さなかったのではないか。
アーティストたちの知覚には並はずれた強度がこもっている。
脇から制作に加わった人たちは、アーティストたちの、
この社会から消え行きつつある獰猛なまでの<力>と、
適当なところで折りあうことをしない<凝りよう>にきっと目がくらんだのだと思う。
そして、それに感染して、水準を下げてしまう「おざなりな」仕事ができなくなった
のだと思う。(略)
確かな緊張感があれば、人はとんでもない力をそこに注ぎ込むのだということを
身をもって知り、今の若い人、ぜんぜん棄てたもんじゃないと感じ入った次第。
『大事なものは見えにくい』鷲田清一 角川ソフィア文庫 P75,76より
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知覚の強度も、何かに注ぎ込むエネルギーも、本気の心も、
仕事をおざなりにさせないような緊張感も、損得を考えずに自分を活動に投入する
思い切りも、どれも目に見えない世界のものです。
この数日、教室内の電気を消して遊ぶ……というちょっとした試みに、
一人ひとりの子のアイデアが飛び交い、それぞれが唯一無二のワクワクする時間が
生みだされる様子を目にしながら、
「目に見えない世界」の栄養の大切さを実感しました。