夕食時に、携帯でヤフー知恵袋を使ってカンニングしようとした事件の話題がのぼりました。
テレビでこう言ってただの、
それはおかしいだの、こう思う、ああ思う、こうなんじゃないの?
ああなんじゃないの?とさんざん好きなことを言い合った後で、
ダンナと娘はさっさと自室へ退散し、息子はまだくつろいだままでiPod touchをいじっていて、私は食後の後片付け。
こうした事件を、ばっさりと「こういうこと」と結論づけてしまうことに
抵抗がある私……
まだ、気持ちがもやもやとくすぶっていました。
私 「予備校の模試のような
それほどチェック体制が厳しくないところでカンニングをしてしまうと、
それで周囲からは成績が良いと見られるし、
周囲からこれくらいできる人といういう目で見られているから……
途中から、現実の自分の実力で勝負ってわけにいかなくなって、またカンニングを繰り返す……
という悪循環に陥っていたんじゃないかしら?
今回の事件は許せない犯罪ではあるけれど、
犯人は『親や教師や周囲の人々の期待や評価や価値判断の犠牲者』
のようにも思えて痛ましいわ。
今の教育でいくと、いざ大学受験となったとき、
ある面で大人たちに騙されてきたような感覚がると思うのよ。
大人は子どもにとって必要なことは何でも知っているし、
何でも教えてあげるし、言うことさえ聞いていたらどんな望みもかなうんだよというスタンスに。
子どもに計算や字の練習を先取り学習させている幼児の親が、
『早い時期から始めたから頭が良くなるとはとうてい思わないけれど、就学後に良い成績が取れるようにしておいてやると、子どもは自分はみんなよりできるんだ、賢いんだと錯覚する。そうしたら、がんばるじゃないか?』と言ったり、
計算の系統学習をさせている塾の教師が、『意味がわかっていなくても、取りあえずできるようになっておけば、理解は後からついてきます。良い成績が取れないと、子どもはやる気になれないものだから、まず良い成績を取らせてあげることが先決です』
と言ったりするのを聞いて、
それも一理あるかもしれないど、そうした錯覚が無効になるのが大学受験じゃないかと思って……。
どんなに素直に大人の指示に従ったところで、『できないもの』は『できない』し、
できないからって、『怠けてるんでしょ。がんばってよ』って責められても、
『がんばったからって必ずしもできるわけじゃない』って問題にぶつかるのが大学受験でしょう?
子どもをお勉強マシーンにするために うまいこと持ち上げて、
プリントをこなしたら表彰してもらうとか、
ワークをし終えたらプレゼントもらえるとか、
テスト結果で格上のクラスに入れてもらえるとか……
周囲が作り上げた動機に煽られて、
自分は賢いんだってプライドだけで、どこまでもがんばってた子が、
いきなり、
『自分の頭で考えろ。解法を自分で作り出せ』とでも言って冷や水を浴びせられるような難問……
を解くことになったら、
そりゃ、ヤフー知恵袋のようなものにでもすがりたくなるんじゃないかしら?
まぁ、テスト中に頼るのは論外だけど。
どこが騙されたように感じる点かというと、
大人が『これをしなさい』と与えるものの多くが、
その目的のために本当に必要なものを見極めて、そこから遡って、これをしなさい……と勧めているわけじゃないってことよ。
『絶対、いるから』と言っている割に、
『念のために……必要そうだと思えるもの、本当のところは自分にもわからないけれど、みんなが大事と言っていたもの、何か作業さえしておけばきっと役に立つと思われるもの』のために
闇雲に努力させるってことが多いことなのよ。
それが全て悪いわけじゃないわ。
でも、いつもいつも大人が解法を示しながら育てておきながら、最終目的では『教わらなくても自分で考えることができる力』を求められていた
って事実は痛いでしょう?」
すると息子がiPod touchから顔を上げて、次のように答えました。
「そうだね。そういう考え方もあるよね。
違法ダウンロードしろ、他人の作品をパクるのにしろ、
今回のようなカンニングにしても、犯罪と犯罪ではないことの間の壁が薄いよね。
ぼくはそうした軽犯罪……と言っていいのかわからないけど、最近問題になっている犯罪の後ろには、
『自分ひとりの影響力はたいしたことはない……』という気持ちがあると思うんだ。
『お前もおれも、その他大勢に過ぎない』という捉え方かな?
本当は、ひとりにできることって、いっぱいあると思うんだ。
誰でもどんなことでもできるとまではいかなくても、
例えば、先生になったんなら良い先生になろうって本気で努力することができるし、
その努力が周囲に与える影響力は大きいよね。
学校の先生は、『そんなことをしたら他の子が真似するだろう』って叱ることがよくあるけど、そういう言葉は、『お前はその他大勢に過ぎないし、おまえの行為は個人の行為としては善でも悪でもない』と言っているようで嫌なんだ。
ひとりにできることはたくさんあるし、自分ひとりの周囲に与える影響力は大きい……そう考えて、自分の行動に責任を持つなら、
犯罪に手を染めたいとは思わないはずだよ。
学校じゃ、善意をパターンで教えようとするよね。
でも、そうやってパターン暗記で覚える善意なんて、悪い宗教というか、迷信のようなもので、誘惑に会えば一瞬で消えてしまう。
ぼくは、小学生くらいの時から、善意と悪意について、よく考えを煮詰めていって、自分なりに納得できるしっかりした考え方をつかんでおくといいと思っているんだ。
学校じゃ、危ない意見が出てきたら先生じゃ対処できないからなのか、
子どもたちにじっくり考える暇を与えないよね。
でも、子どものうちに、本当の善意とはどういうものなのか、自分の考えを自由に言う機会があったなら、じゃあ自分はこれから世界とどう関わっていきたいのかって
方向が見えてくるはずだよ。」
テレビでこう言ってただの、
それはおかしいだの、こう思う、ああ思う、こうなんじゃないの?
ああなんじゃないの?とさんざん好きなことを言い合った後で、
ダンナと娘はさっさと自室へ退散し、息子はまだくつろいだままでiPod touchをいじっていて、私は食後の後片付け。
こうした事件を、ばっさりと「こういうこと」と結論づけてしまうことに
抵抗がある私……
まだ、気持ちがもやもやとくすぶっていました。
私 「予備校の模試のような
それほどチェック体制が厳しくないところでカンニングをしてしまうと、
それで周囲からは成績が良いと見られるし、
周囲からこれくらいできる人といういう目で見られているから……
途中から、現実の自分の実力で勝負ってわけにいかなくなって、またカンニングを繰り返す……
という悪循環に陥っていたんじゃないかしら?
今回の事件は許せない犯罪ではあるけれど、
犯人は『親や教師や周囲の人々の期待や評価や価値判断の犠牲者』
のようにも思えて痛ましいわ。
今の教育でいくと、いざ大学受験となったとき、
ある面で大人たちに騙されてきたような感覚がると思うのよ。
大人は子どもにとって必要なことは何でも知っているし、
何でも教えてあげるし、言うことさえ聞いていたらどんな望みもかなうんだよというスタンスに。
子どもに計算や字の練習を先取り学習させている幼児の親が、
『早い時期から始めたから頭が良くなるとはとうてい思わないけれど、就学後に良い成績が取れるようにしておいてやると、子どもは自分はみんなよりできるんだ、賢いんだと錯覚する。そうしたら、がんばるじゃないか?』と言ったり、
計算の系統学習をさせている塾の教師が、『意味がわかっていなくても、取りあえずできるようになっておけば、理解は後からついてきます。良い成績が取れないと、子どもはやる気になれないものだから、まず良い成績を取らせてあげることが先決です』
と言ったりするのを聞いて、
それも一理あるかもしれないど、そうした錯覚が無効になるのが大学受験じゃないかと思って……。
どんなに素直に大人の指示に従ったところで、『できないもの』は『できない』し、
できないからって、『怠けてるんでしょ。がんばってよ』って責められても、
『がんばったからって必ずしもできるわけじゃない』って問題にぶつかるのが大学受験でしょう?
子どもをお勉強マシーンにするために うまいこと持ち上げて、
プリントをこなしたら表彰してもらうとか、
ワークをし終えたらプレゼントもらえるとか、
テスト結果で格上のクラスに入れてもらえるとか……
周囲が作り上げた動機に煽られて、
自分は賢いんだってプライドだけで、どこまでもがんばってた子が、
いきなり、
『自分の頭で考えろ。解法を自分で作り出せ』とでも言って冷や水を浴びせられるような難問……
を解くことになったら、
そりゃ、ヤフー知恵袋のようなものにでもすがりたくなるんじゃないかしら?
まぁ、テスト中に頼るのは論外だけど。
どこが騙されたように感じる点かというと、
大人が『これをしなさい』と与えるものの多くが、
その目的のために本当に必要なものを見極めて、そこから遡って、これをしなさい……と勧めているわけじゃないってことよ。
『絶対、いるから』と言っている割に、
『念のために……必要そうだと思えるもの、本当のところは自分にもわからないけれど、みんなが大事と言っていたもの、何か作業さえしておけばきっと役に立つと思われるもの』のために
闇雲に努力させるってことが多いことなのよ。
それが全て悪いわけじゃないわ。
でも、いつもいつも大人が解法を示しながら育てておきながら、最終目的では『教わらなくても自分で考えることができる力』を求められていた
って事実は痛いでしょう?」
すると息子がiPod touchから顔を上げて、次のように答えました。
「そうだね。そういう考え方もあるよね。
違法ダウンロードしろ、他人の作品をパクるのにしろ、
今回のようなカンニングにしても、犯罪と犯罪ではないことの間の壁が薄いよね。
ぼくはそうした軽犯罪……と言っていいのかわからないけど、最近問題になっている犯罪の後ろには、
『自分ひとりの影響力はたいしたことはない……』という気持ちがあると思うんだ。
『お前もおれも、その他大勢に過ぎない』という捉え方かな?
本当は、ひとりにできることって、いっぱいあると思うんだ。
誰でもどんなことでもできるとまではいかなくても、
例えば、先生になったんなら良い先生になろうって本気で努力することができるし、
その努力が周囲に与える影響力は大きいよね。
学校の先生は、『そんなことをしたら他の子が真似するだろう』って叱ることがよくあるけど、そういう言葉は、『お前はその他大勢に過ぎないし、おまえの行為は個人の行為としては善でも悪でもない』と言っているようで嫌なんだ。
ひとりにできることはたくさんあるし、自分ひとりの周囲に与える影響力は大きい……そう考えて、自分の行動に責任を持つなら、
犯罪に手を染めたいとは思わないはずだよ。
学校じゃ、善意をパターンで教えようとするよね。
でも、そうやってパターン暗記で覚える善意なんて、悪い宗教というか、迷信のようなもので、誘惑に会えば一瞬で消えてしまう。
ぼくは、小学生くらいの時から、善意と悪意について、よく考えを煮詰めていって、自分なりに納得できるしっかりした考え方をつかんでおくといいと思っているんだ。
学校じゃ、危ない意見が出てきたら先生じゃ対処できないからなのか、
子どもたちにじっくり考える暇を与えないよね。
でも、子どものうちに、本当の善意とはどういうものなのか、自分の考えを自由に言う機会があったなら、じゃあ自分はこれから世界とどう関わっていきたいのかって
方向が見えてくるはずだよ。」
近所の子供たちにもそういった対応をしていました。
でも、子供が4歳になり、お友達と遊ぶようになってきて、最近これは違うんじゃないかなーともやもやっと思っていた事柄です。
ムスコさん。若いのにすごいですね。
ついバタバタしててそのばしのぎの対応をしてしまいがちなので、
ちゃんと子供たちとと一緒になぜダメなのか、良い事なのか悪いことなのか?立ち止まって考えていきたいと思います。