虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

『生きる力』のもとは真実の言葉を話すこと、人と出会うこと

2013-10-28 19:35:34 | 日々思うこと 雑感
明治生まれの国語教師、
大村はま先生の著書『日本の教師に伝えたいこと』(ちくま学芸文庫)
を読んで、深く感動しました。
少しだけ紹介させてくださいね。(一部省略しています)
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(子どもたちは)まず真実の言葉を話せるようにしなくてはなりません。
どんなときに真実の言葉が育たないかと言いますと、たとえば何か読んだあと、すぐに教師が感想を聞くとします。

感想というのは、言葉にすることの難しいもので、たくさんあっても、なかなか言えないものです。
考え深い子どもが、かえって言えなくなる場合もあります。

ところが学校には、学校型の優等生がいて、ぱっと手を挙げて感想を言います。
すると教師はそれを聞いて、「ほかに」と言って、(発言した子は、ちっともねぎらってもらうこともなく)「ほかに」「ほかに」とやっているうちに、
とにかく答えることがいいんだ。
考えることよりも答えることが大事だと心得る、そんな風にならされていくわけです。

答えられたときだけ褒められて、黙っているとよくない。子どもは教師に喜んでほしい。これはもう当然のことですから、何か言おうとします。

私は、これは恐いことではないかと思います。
ほんとうに自分の気持ちが表せる言葉でなくとも、とにかく適当に言えるというのは、
恐いことではないでしょうか。

それから教師が「ほかに」と言って、じっと自分のほうを見ていると、
何か言わないと悪いような気がしてきて、子どもはそういうところは
大人とまたちがった可憐なところがあるので、
それでついちょっと思いついた言葉を言います。

ちょっと思いついた言葉なのであって、心の中から本当に出てきた、
言おうと思った言葉ではありません。
言おうと思ったことばではなくとも、何か言えるとほっとするのです。

そういうふうに、言おうと本当に思ったことではないことが、いちおう人に言えるということは、とても寂しいことのような気がします。

別に悪いことではないと思いますけれども、しかし、あまり親友を得たり、本当にに人と交わる喜びを感じたりすることが、少し難しくなるのではないかと思うのです。
            (↑『日本の教師に伝えたいこと』より引用)
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今の時代は、
『心の中から本当に出てきた、言おうと思った言葉をを言う』
ことの大切さをすっかり忘れているのかもしれません。

幼い子たちにしても、大人たちがまるでパソコンやロボットにインプットするように知識を注いで、
それらが、できるだけ素早くたくさんインプット通りに子どもから出てくることを期待する姿があります。

本当は、子どもは大人が大人の知識を入れたり出したりする道具ではなくて、
その子の内面で熟成され、形になろうとしている
まだ言葉にならないその子特有の思いがあるのです。
黙っている子どもは、
それを外の世界に出そうとする生みの苦しみを抱いているのです。

そうして表現した自分の言葉を他人に受け止めてもらってはじめて、
子どもの自分というものの核となるものができてくるように思います。

大村はま先生は、読後の感想なども、感動するほど、言い表すことばが浮かばないもので、それは単に表現力がないということと別物だとおっしゃっています。
それを無理に言葉にさせてしまうと、適当に、とにかく言う習慣が身に付いて、
言語生活者として基本的な、

『本気で考えて、本気のことを素直に言う』

ということがなくなっていくそうです。

子どもに何げなしに、
苦しまぎれに何か言わないと、できない子と思われる、
という気持ちにさせないことが大切なのだとか。

のど元まで出ている気持ちが言えないときには、
大人が自然な形で「こうかな」と具体的な言葉でフォローしてあげると良いそうです。

工作のワークショップや虹色教室で、子どもが自分の真の言葉を語ってもいいという雰囲気を作っていると、
子どもたちはひとことしゃべるごとに、自分への自信を深めていることがわかります。

子どもの表情の輝き、したことがない算数の問題に「はい」「はい」と手を挙げる様子、その後、家に帰ってからも、何時間も何かに熱中する姿があるのです。

大人たちは、いろいろ教え込んで子どもを「できる子」に仕立て上げて、
自信をつけてあげようと考えがちです。

でも、そうした愛情が、自分の真実の言葉を見失うほど
他人の言葉を子どもの中に注ぎ込むことだとしたら、

何ができるようになっても、子どもは大村はま先生がおっしゃるように
真の言語生活者になれないのかもしれません。

写真は、京都のワークショップに参加してくれた男の子の作品です。
いつも言いたいイメージが溢れてきて、何も言えなくなってしまうところがあるようです。
ゆっくり耳を傾けると、面白いアイデアが次々飛び出してくるのです。

先日は家族でクレパス絵画展に来てくれて、もじもじと恥ずかしそうにしていたのですが、「ブログに☆くんのパトカーの作品をアップするね」と言うと、
満面の笑みを浮かべていました。
家に帰ってから、
「お母さん扉の外にいて欲しかった」と告げたそうなのです。
絵画展では緊張して話せなかったけれど、私に話したいことがいろいろあったそうです。
照れて何も言えなかったようだけど、誰かに本気で伝えたいと思う自分の言葉を、
心の内側にしっかり持っているところが、すてきだなと思いました。
 
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明治生まれの大村はま先生の指摘は、
今もちっとも古くなっておらず、むしろこれから教育の場で非常に重要になってくるのかもしれないと感じました。

というのも、
ちょうどいただきものの雑誌類を整理していて、ついでにパラパラと拾い読みしていたら、こんな記事を見つけたのです。
記事で目にとまったのは、「物語る力」という言葉。

ビジネス・ブレークスルー大学院大学学長の大前研一氏が、
アメリカ人ジャーナリストのダニエル・ピンクのこんな言葉を紹介していたのです。
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いまもっとも必要とされるのは「物語る力」だ。
「符牒的な答」など存在しない時代だから、自分の意見を物語として説明し、相手の「共感」を得る必要がある。
もちろん反論も出るだろう。それをくみ上げたうえで、両者が納得できる結論を生み出す。そうした「合成する力」こそ、21世紀のリーダーに求められるものだ。        
 (講談社MOOK セオリー より)
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「物語る力」といえば思い浮かぶのが、息子の学校のある先生です。
過去記事を紹介しますね。↓

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息子の通っている学校に、
『教えるのがとても上手な先生』という方がいらっしゃいます。

息子いわく、
学習内容への興味を掻き立ててくれるし、モチベーションが上るし、授業がわかりやすくてとても良い~とのこと。

その先生が、今の学校で教えるようになるまでの経緯を聞いて、
ちょっとびっくりしてしまいました。

何でも、旅行好きだった先生は、若い頃は、定職に就かずに、
世界中を貧乏旅行して渡り歩いていたそうです。
あるとき、塾の教師になろうと働き始めたとき、
その塾は、生徒たちに、
「授業のわかりやすさ」等で先生を評価するシステムをとっていたそうです。
すると、何と、結果は最下位だったのだとか。
その結果を前にして、
「絶対、だれよりも教えるのがうまい教師になってやろう!」と決意したそうです。


その後、その思いを強くして、教員を目指して勉強し始めたときは、
かなりの年齢になっていて、
いざ、教職に就こうと学校を打診しはじめたときは、
教員になる年齢制限の35歳くらい~を、過ぎていたのだとか。

そこで、この先生はどうしたかというと、
自分がどのような経緯で今にいたり、どんな人間か……等、自分の思いをつづった手紙を50通、さまざまな学校に送ったのだそうです。
すると、年齢制限の枠を超えているとはいえ、
5通の返事があったのだとか。

その後、その先生は、その5つの学校に
「自分はまだ教育実習を受けていないので、
働く際に、そこの学校で、まずそれを受けさせていただいてから、
働かせてください~」といった内容の手紙を送ると、

何と、良い返事が3つあったそうです。

そうして、今の学校で、授業の上手な先生として
働いておられます

この先生の情熱を受け取って、手紙を返したってところで、
うちの学校もなかなかやるじゃん~と思っているらしい息子。
確かに、先生もすごいし、学校も太っ腹ですね。

人間、なりたい夢がはっきりしていて、
思いが強ければ、どんなことでもなせばなるのもですね~
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息子はこの先生の
「人は会って話をすれば面白い人間かどうかわかる。そのために面接があるようなもんだ」という言葉が気にいっていて、
娘と将来について話すとき、よく話題にしています。

娘も、「音楽聞いたり、本物の芸術に触れたり、自分でいろんな体験をすると、それが全部自分の一部になるって読んだことある。
成績とか資格などとは別に、自分らしさを磨く体験をいろいろしておきたい」と言います。

大前研一氏は、次のようにもおっしゃっています。(簡単に要約しています)
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新しい時代において20世紀型の秀才はまったく役立たない。どんなに暗記が得意でも、正解そのものが存在しないからだ。

答えがないなら、自分の頭で考えるしかない。
そういう意味では、先生に言われたことを従順にこなす子どもより、
むしろ単純作業に嫌気がさして宿題をわざと忘れてくるような子どものほうに可能性がある。「なんでやらなきゃいけないのか?」と疑問に感じる心が大切なのである。

新しい時代に通用する人材を見抜くポイントは3つある。

まずは、前提条件を提示する能力。
知識自体は価値を持たない時代には「頭の構造」を調べる必要がある。
「そもそも」という発想ができない処理型人間ほど無用の存在はいない。

次に大切なのは環境の変化に合わせて自分を変えていく能力だ。
細かい兆しを見落とさず、一人で柔軟に対応するしか生き残る方法はない。

3つ目は、能動的な生き方をしてきたか。アメリカのヘッドハンターは、必ず過去の業績を見る。中学の頃に運動クラブを立ち上げて会計係をやったとか、高校のブラスバンドで老人施設を計画的に訪問していたとか、何でもいい。
イニシアチブをとる人間だったのか、それともフォロアー(その他大勢)だったのか、自然に見えてくる。

一方、日本の履歴書は箇条書きで、資格の欄に普通免許とか書き込むだけ。
国民皆免許の時代には何の意味もない。将来、花開くようなやつは、仲間を集めて近所の川掃除をしていたり、学生時代に冒険旅行に出たり、必ず何か語れるものをもっていた。
20世紀型の秀才たちは不思議と書くことがない。先生の言うとおり生きてきた人間は、朝起きました、歯を磨きましたという日記風にしか書けない。

エスカレーターに乗って受動的に生きてきた人間は、文章を書かせるだけでもはっきり見分けられる。
         (講談社MOOK セオリー より)
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これから「物語る力」が、どうしてこうも求められるのか?

それは、グローバル化が進んでいるからなのでしょう。
大前氏のインタビューから例を借りると、
日本の若者たちも日本の外に出て、
海外の工場が閉鎖するようなときに、
どうやって相手を納得させるかといった手腕が問われるようになってきたからなのでしょう。

新学習指導要領の『生きる力』でも、思考力・判断力・表現力等をはぐくむ観点から、言語活動の充実があげられています。

それはただ語彙をたくさん知っていて、
問われたらそれなりの答えが返せるということより、
大村はま先生のおっしゃるように、

『本気で考えて、本気のことを素直に言う』
『自分の心から湧き出てくる真実の言葉を言う』

ことが重要なのでしょうね。
 

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