受験中の息子は、90分を一コマとして、何コマかずつ集中的に勉強しては、休憩を取っています。シンセサイザーを弾いたり、マンガや本を読んだり、ネットをしたり、家族とおしゃべりしたりしています。
姉と話すときは遊びや旅行や流行についてや人間関係のことを、
ダンナと話すときは最近のニュース(特にダンナが好きな海外の時事ネタ)について、
私と話すときは、将来どのように働きたいか、どんなものを創りだしたいかといったことがほとんどです。(たまに教育ネタも)
息子も私もクリエイティブに生きたいという強い願望を持っています。
それで、この手の話をするときは、どんだけ? という熱心さで、
話をしています。
息子いわく、
「会話することで、将来、創りたいものが明確にできる。輪郭が見えてくる」そうです。
息子 「大きなビジョンとして、一生のうちにこんなものを作りたいという夢はあるんだ。
最終目標として関しては、一般受けするものより、
マイノリティーを相手にした本当に作りたい物にしたいんだけど……
それ以外では、現代のニーズにあったヒットするものも生み出したいよ。
とにかくいろんな物をたくさん作りたいんだ。」
私 「パソコンとか携帯電話の従来の形や使われ方とは全く異なる形態の何かが求められているんじゃない? 」
息子 「確かにそうだけど、そうした新しさはぼくが作りたいと思っているものとは、また別の分野かな?
研究室に入って最先端の物を作り出すっていうのは、
お母さんが買ってきてた雑誌で糸井重里さんが言ってた
『ツリー構造』の先端を極めていく仕事になりがちだと思うんだ。
糸井さんが挙げていた例だと、ツリーを細かく分けて、
その先々に目をやっていると、
自動車をクリエイティブで考える場合に、
バックライトやワイパーの高性能化につながりやすいってことになるって。
研究室では大衆のニーズよりも、
研究という世界観の中でより注目され、
より価値のあるものを生み出そうと努力しているんだろうし、そ
れは大切なことだと思うよ。
それにもちろん、世の中のニーズに合致する革新的な物も生まれているわけだけど。
でも、そこでぼくが作りたいようなものが作れそうか、ぼくの強みが生かせそうか……というと疑問なんだ。専門的すぎる感じがするんだ」
私 「★(息子)の強みは創造力と洞察力と世の中のこれからの動きに敏感だってことだものね。ひとつの物事をどこまでも極めていって最先端を目指すより、世の中の流れとダンスでも踊るように柔軟に自分の生き方を創っていった方が合っているのかもね」
息子 「うん。
音楽でも、絵でも、高尚なものが必ずしもいいわけじゃないと思うんだ。かといってたくさん売れたらそれが価値を表すわけでもないけど。
でも、低俗だと思われるものの中にも、多くの人に愛されているものは、
そこに人を感動させる何かがあるものだよ。
ぼくは質の上で高いものを求めながら、
同時に低俗だと思われている部分も含んでいて、『誰でもウェルカム』という形に、あらゆる人に開かれている作品が作りたいんだ。
低俗な部分を含んでいるって表現はおかしいかな……
ほら例えば将棋って
幼い子でもルールを覚えればすぐ遊べるけれど、
その深さはどこまでも続いていく感じがあるよね。
かといってそれは最先端技術を生み出す研究から生まれるものでもないし、
単純な思いつきから始まっているわけでもない。
そのシンプルな面白さの底には、
人の営みのとても本質的なものがあると思うんだ。
今はクリエイティブに生きるのは難しいよ。
本当に質が高くて新しいものを生み出す芸術家がいても、
その人が必ずしもお金持ちになれるわけじゃない。
創作活動に夢中になる人の多くが、お金儲けには無頓着ってこともあるけど。
それだけでなくその質の高さが、一部のマイノリティーな人以外の多くの人々拒んでいるてこともあるんだよ。
誰でもウェルカムじゃないんだ。
そこで、その作品をパクって、一般受けする形にするだけじゃなく、
どうでもいい目を引く部分を強調してよさを崩す人々がごろごろいるよ。
それが商売ってものだろうし、悪いわけじゃない。
でも、それが当たり前になって、成功をリードしちゃうと、
クリエイターは生きづらいよね。
ほら、『ニーチェの超訳』にしたって、わざわざニーチェが本当に言いたかったことの本筋からずれたものや、正反対の言葉を取り上げて、
売れる作品に仕上げることだけを目指しているじゃん。
ぼくがどうやってクリエイティブに生きていくかってことを考えると、
創る作業と同じくらい、
どのように創るのか、誰に向かって創るのかというビジョンを明確にしていかないといけないと思っているんだ。」
姉と話すときは遊びや旅行や流行についてや人間関係のことを、
ダンナと話すときは最近のニュース(特にダンナが好きな海外の時事ネタ)について、
私と話すときは、将来どのように働きたいか、どんなものを創りだしたいかといったことがほとんどです。(たまに教育ネタも)
息子も私もクリエイティブに生きたいという強い願望を持っています。
それで、この手の話をするときは、どんだけ? という熱心さで、
話をしています。
息子いわく、
「会話することで、将来、創りたいものが明確にできる。輪郭が見えてくる」そうです。
息子 「大きなビジョンとして、一生のうちにこんなものを作りたいという夢はあるんだ。
最終目標として関しては、一般受けするものより、
マイノリティーを相手にした本当に作りたい物にしたいんだけど……
それ以外では、現代のニーズにあったヒットするものも生み出したいよ。
とにかくいろんな物をたくさん作りたいんだ。」
私 「パソコンとか携帯電話の従来の形や使われ方とは全く異なる形態の何かが求められているんじゃない? 」
息子 「確かにそうだけど、そうした新しさはぼくが作りたいと思っているものとは、また別の分野かな?
研究室に入って最先端の物を作り出すっていうのは、
お母さんが買ってきてた雑誌で糸井重里さんが言ってた
『ツリー構造』の先端を極めていく仕事になりがちだと思うんだ。
糸井さんが挙げていた例だと、ツリーを細かく分けて、
その先々に目をやっていると、
自動車をクリエイティブで考える場合に、
バックライトやワイパーの高性能化につながりやすいってことになるって。
研究室では大衆のニーズよりも、
研究という世界観の中でより注目され、
より価値のあるものを生み出そうと努力しているんだろうし、そ
れは大切なことだと思うよ。
それにもちろん、世の中のニーズに合致する革新的な物も生まれているわけだけど。
でも、そこでぼくが作りたいようなものが作れそうか、ぼくの強みが生かせそうか……というと疑問なんだ。専門的すぎる感じがするんだ」
私 「★(息子)の強みは創造力と洞察力と世の中のこれからの動きに敏感だってことだものね。ひとつの物事をどこまでも極めていって最先端を目指すより、世の中の流れとダンスでも踊るように柔軟に自分の生き方を創っていった方が合っているのかもね」
息子 「うん。
音楽でも、絵でも、高尚なものが必ずしもいいわけじゃないと思うんだ。かといってたくさん売れたらそれが価値を表すわけでもないけど。
でも、低俗だと思われるものの中にも、多くの人に愛されているものは、
そこに人を感動させる何かがあるものだよ。
ぼくは質の上で高いものを求めながら、
同時に低俗だと思われている部分も含んでいて、『誰でもウェルカム』という形に、あらゆる人に開かれている作品が作りたいんだ。
低俗な部分を含んでいるって表現はおかしいかな……
ほら例えば将棋って
幼い子でもルールを覚えればすぐ遊べるけれど、
その深さはどこまでも続いていく感じがあるよね。
かといってそれは最先端技術を生み出す研究から生まれるものでもないし、
単純な思いつきから始まっているわけでもない。
そのシンプルな面白さの底には、
人の営みのとても本質的なものがあると思うんだ。
今はクリエイティブに生きるのは難しいよ。
本当に質が高くて新しいものを生み出す芸術家がいても、
その人が必ずしもお金持ちになれるわけじゃない。
創作活動に夢中になる人の多くが、お金儲けには無頓着ってこともあるけど。
それだけでなくその質の高さが、一部のマイノリティーな人以外の多くの人々拒んでいるてこともあるんだよ。
誰でもウェルカムじゃないんだ。
そこで、その作品をパクって、一般受けする形にするだけじゃなく、
どうでもいい目を引く部分を強調してよさを崩す人々がごろごろいるよ。
それが商売ってものだろうし、悪いわけじゃない。
でも、それが当たり前になって、成功をリードしちゃうと、
クリエイターは生きづらいよね。
ほら、『ニーチェの超訳』にしたって、わざわざニーチェが本当に言いたかったことの本筋からずれたものや、正反対の言葉を取り上げて、
売れる作品に仕上げることだけを目指しているじゃん。
ぼくがどうやってクリエイティブに生きていくかってことを考えると、
創る作業と同じくらい、
どのように創るのか、誰に向かって創るのかというビジョンを明確にしていかないといけないと思っているんだ。」