先の記事で、こんなことを書きました。
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今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、
これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれない
と予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、
その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。
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こうした考え方を身につけたのは、
反面教師としてですが、
父や母の影響が大きいのかもしれません。
父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、
動揺する出来事にぶつかると、
現実をていねいに検証しようとせずに、
最初に「こうだ」と飛びついた考えに、
ずっと、しがみついていることがよくありました。
趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、
同じ趣味や遊び上の
「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、
まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のように
バカげた期待に執着していました。
母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、
妹や親戚の一部の人に対しては、
どんなに説得しても、
初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとは
しませんでした。
それは、子どもの目にも、
「たったひとつの考え」が、
「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。
また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、
繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、
後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど
力を持つことがあるのを感じて、恐れました。
そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、
わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを
できるだけ言葉にして整理しながら、
先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。
後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。
子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、
何度も何度もさまざまな角度から
観察し続けていたのは、
自分の感情や思考の動きです。
児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、
ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、
自分の心の中を移ろい続ける感情や思いを
とにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、
言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら
自分の心と対峙していたのを覚えています。
そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、
それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。
そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、
常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。
大人になってそれらふたりのわたしを統合する必要を感じるまで、
幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているか
している自分と、
クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、
互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。
昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、
周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、
『長靴をはいた猫』という童話の猫のように
何事も先回りして策を練っておいたり、
『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、
鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような
途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、
突如、顔を現していましたから。
そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた
8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。
母方の田舎で海水浴に行った際、
ビーチボールごと波にさらわれて、
ひとりで沖に出てしまったことがありました。
流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、
海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、
必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。
事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、
周囲は無音の世界でした。
それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、
いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。
足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。
海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても
助かる見込みはないと悟った瞬間、
わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、
突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えてました。
「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、
しばらくもがいて力つきて死ぬ。
死ぬのはとも怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。
でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、
万にひとつでも生き残れた時に
将来書く小説の一部に書き加えられるように、
今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、
調べて言葉にしておこう」
そう考えて、
浜辺を眺めると、小さな無数の光が、
まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだ
ように輝いていました。
「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、
もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、
こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?
わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、
わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、
わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。
生きている時はこんなに大切な世界なのに。
死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、
生きているわたしがあの世があるのかないのか
想像するのと同じになってしまうのかな?」
空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、
信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。
その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、
わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。
両親がまさに、そのタイプでした。
「お父さんには信念がある」母は、そうやって美化していましたが、成人した今、確実に言えるのは、こうだと思い付いたらそう決めつけて、今の立ち位置から一ミリたりとも動いてみようとせずにものを見たままだったということ。
何かの罰でも恐れているかのごとく、考えを改めてみたり、思い直したり、検証したり、言い過ぎたと反省することなどありませんでした。
口癖は「沽券に関わる」でしたから。
子供の頃から、信念だなんてきれいで見事な、素晴らしいものなんかじゃないって、気がついていましたが、うまく言葉にできず、モヤモヤを抱えて、一人っ子として本の世界に意識を向けていました。
後に外国生活を経て、人の見方は多様であり、絶対のルールなんてない、そう痛感します。
奈緒美先生が他の大人たちから学ばれたことと少し近いかもしれませんが、あのまま親のもと、繰り返し呪文を聞かされていたなら、私は今よりもさらに、人生で苦しんでいたと思うと、親元を離れる機会があったのは救いでした。
この感覚、大多数の方が共有しているものなのか自信がなく…こちらにコメントさせていただきました。
耳が痛いです。
何でも言うことをきいてくれる(ように見える)幼い子どもを相手にするうち、よけい、自分の考えを深く掘り進めないままゴリ押しすることが多くなったと感じます。
ラクしてはいけませんね。
先生みたいにユーモアを持って多角的に考える習慣を身につけていきたいです。
「はじめの考えにとらわれる。」
新しい概念を獲得するまでに、長い時間かかる人たちが存在するそうです。
そして、ようやく獲得後今度はそれを頑なに手放そうとせず、それに縛られる人たちが存在します。
どんなに状況が変化しようとも、固執するのです。
このような人たちにより、己が窮地にたたされた時、解決策は「逃げること」しかないと、体験上実感しています。
このジャンルの人たちが、検証すること、観察すること、分析すること、多角的に物事を観ることは絶対にありません。
「たったひとつの考え」が
「他のたくさんの可能性を考えない。」
なおみ先生は、いつも私が言語化できないことを、適切に表現してくださいます。
「他のたくさんの可能性を考えない。」ことにより、
ハンデイキャップのある子供たちが救済されないことは、ゆゆしきことです。
この種の邪悪な人々は、「法の場」が必ずや裁いてくれます。いや、裁かれなければなりません。
絶対に泣き寝入りしてはならないと、先生の記事を読ませていただいて気持ちを新たにしました。
TEDのスーザン・ケイン、「内向的な人が秘めている力」の動画を見て、先生のことがすぐに頭に浮かびました。
エニアグラム タイプ9の邪悪さと戦えるのは、内向直観型思考寄りの人たちの結束しかないと思えてきました。
家族の影が肥大し、私の力では包み込めそうもなく恐ろしい気持ちがして冷静ではいられない状況ですが、先生のお蔭で今自分の置かれている状況を様々な角度から考え直すことができています。
ありがとうございます。