アフリカ独立記念日月間、きょうはチャドの独立記念日だ。チャド人の友人諸氏に、まずはお祝いを申し上げたい。
さてこのチャド。アフリカの地域分類からすれば「中部」ということになる。過去記事「アフリカ西高東低論」(第一話、第二話)でも述べたが、日本からみれば、中西部のアフリカは、しばしば「裏アフリカ」のような扱いを受ける、遠くて未知の地域だ。
中でも中部アフリカは、世界史においても、長きにわたりコンゴの熱帯雨林に閉ざされ、暗黒大陸となってきた。複雑な歴史背景と政局の中、一般には注目を浴びにくい地域でもあった。
◆チャドはこんな国
チャドは人口1,200万人、面積は128.4平方キロメートル(日本の約3.5倍)と広大な領土を擁する。南部はサバンナ~ステップ気候、そして北部にかけてその地勢は砂漠に溶け込んでいく。イスラムと砂漠が育む独特の文化と、厳しさの中に突如出現する素晴らしい自然の造形が人々を魅了する。
さてこのチャド。大陸の奥にあって東と西、南と北、アラブとアフリカを結ぶ結節点にある。語弊を恐れず言えば、いわば「地の果て」に位置してきたともいえよう。
そしてこの砂漠の地を越えて文化や交易が栄え、政治的、戦略的野心が交錯した。そういったことから、この国の歴史には常にきな臭さがつきまどってきた。
◆紛争と戦いの歴史
独立にあたっては南北の衝突があった。また北に位置するリビアとは、1978年から実に10年にわたり戦争を重ねてきた。東にスーダン。ダルフールはチャド内戦、自国の安全と深く結びついており、スーダンとの二国間関係は常に大きな課題であった。南に中央アフリカ。政変、武装勢力、無秩序。二日後に述べるが典型的な「脆弱国家」だ(あるいは近年では「崩壊国家」といも言われる)。
西にはニジェール。今、イスラム聖戦主義武装勢力のフロントラインは、北緯15度あたり。モーリタニア、マリ、ニジェールを通り、チャド、ダルフール、南北スーダン、そしてソマリアに至る。
砂漠の戦いに精通し、百戦錬磨のチャド軍。これまでも海外への派兵を重ねてきた。以前、コンゴ戦争に介入した。中央アフリカには現在もチャド軍が展開する。仏軍のマリ介入に際して、砂漠の戦いを知り、鍛えられたチャド軍が動員されたことも記憶に新しい。自国の安全のため、地域の安定のため、利権確保のため、野心のため。フランスの影もまた見え隠れする。
◆ガバナンス
チャド自体のガバナンスや悪政についても触れざるを得ない。トンバルバイ、イセーヌ・アブレ、イドリス・デビ・・・。独裁、政変、紛争。2000年代に繰り広げられた内戦では、10年間に、首都ンジャメナが二度にわたり陥落の危機に直面した。市民は逃げ場を失い、川を渡り対岸のカメルーン領にも押し寄せた。
(イドリス・デビ大統領。Wikip�diaより引用)
(※イセーヌ・アブレ全大統領の訴追については、過去ログ「アフリカなう(5/26号)」をご参照。)
この地には国連中央アフリカ・チャドミッション(MINURCAT)が展開していたが、2010年、チャド側が受け入れ同意を与えず撤退となった。市民や難民への保護が懸念されている。
またこの国はOPECに加盟する産油国だ。世銀はこの国の石油開発を支援するかわりに、チャド政府に対し、歳入の一定割合を、社会開発に割り当てるよう条件付けた。しかし、実際操業が始まると、チャド政府はこれを無視。2006年には世銀とオフトラック(関係断絶)となった。
同じ頃、チャドはそれまでの台湾との外交を断ち、北京との関係に切り替えた。中国資本(CNPC)による油田を開発、操業が開始される。
◆国際社会の表舞台へ
マリの仏軍介入への帯同は、国際社会の異端として扱われるイドリス・デビ政権にとっては、よい禊ぎの機会と捉えられていた。しかし7月14日のフランス革命記念日パレード参加におけるチャド軍参加の適否の議論は、チャドのガバナンスそのものに向けられた疑問だった(→過去ログ「軍事パレード学(後編)をご参照)。
個性あふれる中部アフリカの国々にあって、チャドの存在はなお強烈だ。しかしそのイメージにはいつもきな臭さが漂い、好戦的な香りがする。いつしか秩序と平和が根付き、本来のチャドの文化や生活が人々を魅了する国になって欲しい。そう思うンボテである。
(おわり)
◆独立記念日・ナショナルデーシリーズ
アフリカの独立記念日~いろいろな事情
コートジボワール
・前編
・中編
・後編
ニジェール
・前編
・後編
ベナン
フランス
・'Le 14 juillet'にみるアフリカとフランス
・14 juilletにみるサヘル情勢(前編)
・14 juilletにみるサヘル情勢(後編)
コンゴ民主共和国
・第一話
・第二話
・第三話
トーゴ
カメルーン
さてこのチャド。アフリカの地域分類からすれば「中部」ということになる。過去記事「アフリカ西高東低論」(第一話、第二話)でも述べたが、日本からみれば、中西部のアフリカは、しばしば「裏アフリカ」のような扱いを受ける、遠くて未知の地域だ。
中でも中部アフリカは、世界史においても、長きにわたりコンゴの熱帯雨林に閉ざされ、暗黒大陸となってきた。複雑な歴史背景と政局の中、一般には注目を浴びにくい地域でもあった。
◆チャドはこんな国
チャドは人口1,200万人、面積は128.4平方キロメートル(日本の約3.5倍)と広大な領土を擁する。南部はサバンナ~ステップ気候、そして北部にかけてその地勢は砂漠に溶け込んでいく。イスラムと砂漠が育む独特の文化と、厳しさの中に突如出現する素晴らしい自然の造形が人々を魅了する。
さてこのチャド。大陸の奥にあって東と西、南と北、アラブとアフリカを結ぶ結節点にある。語弊を恐れず言えば、いわば「地の果て」に位置してきたともいえよう。
そしてこの砂漠の地を越えて文化や交易が栄え、政治的、戦略的野心が交錯した。そういったことから、この国の歴史には常にきな臭さがつきまどってきた。
◆紛争と戦いの歴史
独立にあたっては南北の衝突があった。また北に位置するリビアとは、1978年から実に10年にわたり戦争を重ねてきた。東にスーダン。ダルフールはチャド内戦、自国の安全と深く結びついており、スーダンとの二国間関係は常に大きな課題であった。南に中央アフリカ。政変、武装勢力、無秩序。二日後に述べるが典型的な「脆弱国家」だ(あるいは近年では「崩壊国家」といも言われる)。
西にはニジェール。今、イスラム聖戦主義武装勢力のフロントラインは、北緯15度あたり。モーリタニア、マリ、ニジェールを通り、チャド、ダルフール、南北スーダン、そしてソマリアに至る。
砂漠の戦いに精通し、百戦錬磨のチャド軍。これまでも海外への派兵を重ねてきた。以前、コンゴ戦争に介入した。中央アフリカには現在もチャド軍が展開する。仏軍のマリ介入に際して、砂漠の戦いを知り、鍛えられたチャド軍が動員されたことも記憶に新しい。自国の安全のため、地域の安定のため、利権確保のため、野心のため。フランスの影もまた見え隠れする。
◆ガバナンス
チャド自体のガバナンスや悪政についても触れざるを得ない。トンバルバイ、イセーヌ・アブレ、イドリス・デビ・・・。独裁、政変、紛争。2000年代に繰り広げられた内戦では、10年間に、首都ンジャメナが二度にわたり陥落の危機に直面した。市民は逃げ場を失い、川を渡り対岸のカメルーン領にも押し寄せた。
(イドリス・デビ大統領。Wikip�diaより引用)
(※イセーヌ・アブレ全大統領の訴追については、過去ログ「アフリカなう(5/26号)」をご参照。)
この地には国連中央アフリカ・チャドミッション(MINURCAT)が展開していたが、2010年、チャド側が受け入れ同意を与えず撤退となった。市民や難民への保護が懸念されている。
またこの国はOPECに加盟する産油国だ。世銀はこの国の石油開発を支援するかわりに、チャド政府に対し、歳入の一定割合を、社会開発に割り当てるよう条件付けた。しかし、実際操業が始まると、チャド政府はこれを無視。2006年には世銀とオフトラック(関係断絶)となった。
同じ頃、チャドはそれまでの台湾との外交を断ち、北京との関係に切り替えた。中国資本(CNPC)による油田を開発、操業が開始される。
◆国際社会の表舞台へ
マリの仏軍介入への帯同は、国際社会の異端として扱われるイドリス・デビ政権にとっては、よい禊ぎの機会と捉えられていた。しかし7月14日のフランス革命記念日パレード参加におけるチャド軍参加の適否の議論は、チャドのガバナンスそのものに向けられた疑問だった(→過去ログ「軍事パレード学(後編)をご参照)。
個性あふれる中部アフリカの国々にあって、チャドの存在はなお強烈だ。しかしそのイメージにはいつもきな臭さが漂い、好戦的な香りがする。いつしか秩序と平和が根付き、本来のチャドの文化や生活が人々を魅了する国になって欲しい。そう思うンボテである。
(おわり)
◆独立記念日・ナショナルデーシリーズ
アフリカの独立記念日~いろいろな事情
コートジボワール
・前編
・中編
・後編
ニジェール
・前編
・後編
ベナン
フランス
・'Le 14 juillet'にみるアフリカとフランス
・14 juilletにみるサヘル情勢(前編)
・14 juilletにみるサヘル情勢(後編)
コンゴ民主共和国
・第一話
・第二話
・第三話
トーゴ
カメルーン