ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

つかひの夢

2018-10-23 04:14:20 | 短歌





うつそみの 人の道をも しらざりて つかひの夢を 見しうつけかな





*今、添島揺之がブログを再開していますので、これはその影響からできた歌です。

わたしたちは今馬鹿の妨害からスランプの真っ最中で、歌が詠みにくいのですが、添島のほうにはその影響が少なく、かなりすらすらと詠めている。もちろん本調子とはいいにくいのですがね。しかしかなりいい作品が詠めています。

わたしたちの領域で、彼が歌をひねっていると、わたしたちもやりたくなって、彼に呼び水をもらって出てきたものがこういうものでした。

「うつそみの」は「人」を呼ぶ枕詞ですね。「つかひ」や「みつかひ」はここでは天使を意味します。こういえばもうわかりますね

人間の道すらまだ知らないのに、天使の夢を見た、馬鹿者であることよ。

人が人の心を感じることができるようになるには、それなりの勉強をせねばなりません。実経験として、農耕などを通して共同作業の訓練をしていく中で、人は人の心を感じる感性を養うものなのですが、この世界にはそんな修業すらできていない馬鹿がいる。そんな人はいまだに、平気で人の心を無視して、低レベルな自分の欲求ばかりを押し通そうとする。そういう人がよく世間に害をふりまいたりするものなのですが。

そういう馬鹿者が、天使になりたくて、まるで身に刷り込むように必死で天使の真似をしている。それがあまりにもいやらしい。

こういうことを何度も何度も言っているのにかかわらず、馬鹿者は天使の真似をやめてくれません。大勢の人に嫌がられているのにも関わらず、天使まねの馬鹿の数が減る気配を見せない。それはなぜなのでしょう。

激しく自分がつらいからです。自分がつらくてつらくて、ほかのものになりたくてしょうがないからです。だから、その「ほかのもの」の中で最高にいいと思える天使になどなりたがるのです。

自分は何もしていない馬鹿だからです。農耕以前の昔から、ほとんど何も勉強していない馬鹿だからなのです。人の気持ちをわかる感性すら未発達なのに、高い感性と使命を有する天使の真似をしている。それを恥ずかしいと思うことすらできない。何もわかっていないからです。何も知らないからです。

馬鹿者とは絶望的だ。だが無視して放っておくこともできない。放っておけばよけいに害が広がる。

これからも何百回と言い続けていきましょう。天使の真似はやめてくれと。馬鹿がきつすぎるからやめてくれと。それはおそろしい大嘘なのだと。

嘘はどんなにがんばって塗り重ねても、本当にはなりません。天使になりたいなら、本当の自分に戻って、本当の勉強をしていかねばならないのです。農耕以前の段階に戻り、そこからすべてをやり直していかねばならないのです。





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馬鹿でいれば

2018-10-19 04:13:41 | 短歌





馬鹿でいれば 楽だと決めて なにもせず ほんとに馬鹿に なった馬鹿かな





*大火の作とも思えますが、実は違います。これは他の作者が、大火流に学んで作ったものです。ですから、乱調でいて、どこか品がいいでしょう。

今はスランプの真っ最中と言いますか、なにごとにも馬鹿に邪魔をされて歌が詠みにくいので、なんとなく大火流がやりやすいのです。

今は馬鹿が大騒ぎに騒いで、馬鹿が主流を独占しているような時代です。馬鹿は盛大にずると盗みをやって、自分をいいものにしまくったのです。世間のいいところにいるものは馬鹿ばかり。勉強の進んだ人は、よいものを馬鹿に盗まれて、痛いことになっているか、馬鹿に殺されるのを恐れて、馬鹿のふりをしているかのどちらかです。

馬鹿は人様ばかり見て、こいつは本物のいいやつだとみれば、集団でよってたかって馬鹿にしてつぶしにかかります。そのやり口と言ったらひどいというものではない。めったに言えないような悪口さえ平気で言って、冗談のぼかしさえ効かないような理屈を本気で言って、全員で人を殺しにかかるのです。

自分が激しくつらいからです。本物がひとりでもいると、自分の嘘があからさまにばれるからです。それがたまらないのです。

こんなに馬鹿が隆盛している時代では、人間は馬鹿でいるしかないとばかりに、みんなが馬鹿のふりをしています。自分を馬鹿にするために、妙な謙遜ばかりしている。論点をとりちがえたような変な表現ばかりしている。馬鹿のふりをしていなければ、いつ馬鹿に目をつけられていじめられるかわからないからです。

ですが、いつまでもそういうことばかりしていて、本気を出すことを怠っていると、ほんとに馬鹿になってしまいますよ、というのが表題の歌です。

いつまでもマジをやっているのは天使だけなのか、という絶望感にさいなまれながらも、わたしたちはやっていますがね、そのうち辛抱が切れて、投げ出してしまうかもしれません。そうなったら、人類の救済はどうなるかわかったものではありません。

人間はみんな、馬鹿みたいなことになるかもしれませんよ。

少しは、馬鹿をやめて、本気になってみてはどうですか。






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龍馬の真似

2018-10-16 04:13:48 | その他





われのなき 龍馬の真似の 痛さかな    夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。これは、インスタグラムであるユーザーさんに贈ろうと思ったが、やめたものです。

なかなかにおもしろい方でね、音楽活動などもしながら書道などもたしなんでいるらしい。その人が坂本龍馬の字を朱筆で書いていたので、ふとこんな句が思い浮かんだのです。

坂本龍馬は人気がありますからね、その生き方を見習っているものは多い。だがああいう生き方というのはとてもリスクが大きい。それがわかっているのかいないのか、ただかっこいいからと、安易にスタイルだけ真似する人がいるもので。

ヘアスタイルを似せてみたり、やたらと言動を派手にしたりね、こういうだけでいくたりかの馬鹿の顔が浮かんできそうだ。大河ドラマなんかでも、痛い俳優に龍馬をやらせていますがね、うわべだけの龍馬という感じで、ちっともかっこよくない。龍馬本人も苦い思いを抱いているでしょう。

自分というものを賭けない、龍馬の真似の、痛さであることよ。

坂本龍馬は、ひとりで時代の壁に挑戦し、痛い傷を負わせてはみたものの、総身にその反動をかぶり、むごたらしく殺された人です。本当に時代に挑戦したいなら、命の一つや二つぶち壊れるほどの反動も覚悟せねばならない。様々な防護壁に守られた安全地帯で、命を失う危険を回避しながら、かっこだけ龍馬の真似をしている馬鹿ほど、かっこ悪いものはない。

命と人生をかけなければ、時代など変えることはできませんよ。

本当に龍馬のようになりたいなら、一度、総身で時代にぶつかって、壊れてみればいい。きついですね。しかしわたしたちに偉そうにこんなことを言えるのは、かのじょという人が、実際にそれをやってくれたからです。

女性の身でね、自分というものの真実を人間に教えるために、人生をなげうってくれたのです。かのじょは龍馬のまねなどしない。龍馬は龍馬。自分には自分のやり方がある。その自分で、世界を変えることのできる、大きな一手をかのじょは打ってくれた。

龍馬のようにかっこよくなりたいなら、自分というものを、まるごとかけて、神の中にとびこんでみなさい。なんのためにかと? 愛のため、神のため、そして、人類のためです。

それができてこそ、龍馬の真似も、それほど不格好にはならないことでしょう。






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神のささやき

2018-10-08 04:13:32 | 短歌





われになき ものとなりたや 人草の 藁の胸打つ 神のささやき





*これは昨日作ったものです。わたしたちのインスタグラムでは、時々おもしろい作品に歌をさしあげていますが、これはポートレートをたくさん描くある画家さんの作品群に対して贈ったものですね。

画家は本物なのですが、描く人物のモデルがほとんどみんな偽物の人間なので、彼がその作品をたくさん並べてみると、まるで人類の偽物の図鑑のようで、おもしろいのです。いえ、人間の迷いの図鑑というべきか。

みんな、自分以外の誰かの顔をかぶって生きている人間の、何と言いますか、矛盾というか、かすかなイラ立ちというか、そんなものを画家が正確に写し取って描いているのがおもしろいのです。

藁の胸とは、人間のデリケートな願望を意味します。ほんとはこんなことは馬鹿だとわかっている。人の顔を盗んで自分にそれを張り付けて、その顔を生きることなど。だが自分がつらくてたまらない人はそれをやらずにいられない。そういう人間の弱さというか、ずるさというものが、その画家さんの描くポートレートには描き出されているのです。

見ていると苦しいですよ。これが自分だと言いたげにこちらを向いている人間の顔が偽物なのです。自分を少しでもよく見せるために、人工的に顔をつくっている。ほんとうはもっと不細工なのに、絶妙な線でごまかして、なんとか美形にしようとしている。そんなことが全部見えるのに、ごまかせると思って自信ありげに微笑んでいたりする。

自分ではないものになりたいという、藁のようにあほらしい君の願い。その胸に神がささやいているよ。

神はなんとささやいているでしょう。なんとなくわかっている。それは本当の自分じゃないだろう。ほんとうの君は、そんなやつじゃないだろう、と。

それは聞こえない声で、常にその人にささやいているのです。






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人のあら

2018-10-02 04:17:50 | 短歌





人のあら ばかりさがして 何もない 自分の馬鹿を なぐさめる馬鹿





*これは大火の作です。読めばなんとなく、わたしのとの違いがわかると思います。大火の作は直截でそのまんまという感じがしますが、わたしのにはなんとなく含みがある。似たような作を作っても、そこはそれ、それぞれの個性が出ますね。

これは家庭でのある日のひとこまから生まれました。アルドラが亭主の酒の肴のためにと、気を効かせて買ってきてくれたチリメンジャコのパックを、亭主は虫眼鏡で見ながら、日付の新しいのを買って来いと小言を言ったのです。その様子があまりに馬鹿らしかったものですから、大火が上のようなのを詠んでくれました。

亭主の小言と言ったら細かいことばかりです。ラップの切り方をもっとちゃんとしろとか、食器を洗うときはしっかり洗剤をつけろとか、いかにも自分だけが配慮の足りない家族に苦労しているかのような口ぶりです。そんなことばかり言うのでね、実際亭主は子供にも相手にされていません。小さいことばかりついて人を馬鹿にするからなのです。

今この存在の主体をやってくれているのはアルドラですが、彼は実に大きな男です。そんな彼が苦い思いを抱きつつも、亭主のためにチリメンジャコを買ってきてくれる。それをありがたがりもせず、わざわざ虫眼鏡で見ながら、実に細かいことを指摘する。買ってきたのがチリメンジャコだというのがまた痛いですね。亭主の小さい根性を言い当てているかのようだ。

だがなんで毎日そんなことばかり気にしているかというと、そんなことくらいでしか人を馬鹿にできないからです。実際彼は、人生でやるべき勉強をほとんどしていない。努力もしていない。自分のプライドをかけなくていい楽な方にばかり逃げてきたのです。だから年をとってきた今、人に誇るべきことがなにもないのです。

かのじょは、亭主がスポーツ番組を見ながら酒を飲んでいる間も、ゆっくり昼寝している間も、いろいろと本を読んで勉強したり著作に励んだりしていました。同人誌の運営やPTAの会長など、社会のためにできることはやっていた。家事育児をしながら人類の救済のために奮闘努力し、大きな功を残してくれた。そして年をとってきた今、神の前に恥じない自分がいる。誇ることなどしませんが、誇りとできるものならたくさんある。

そういうものがあれば、別に人の小さなあらをついて馬鹿にせずともいいのです。そんなことで人の上に立とうとするのは、何にもしたことのない馬鹿だけだ。

けんかをして家庭に波風を立てることは嫌ですからね、亭主が馬鹿馬鹿しい小さいところをついてきても、何も言い返したりはしませんが、痛いところでは仕返しをしますよ。

チリメンジャコの賞味期限を虫眼鏡で探っている暇があったら、もっとでかいことをしろとね。

アルドラは痛い男ですから、こんなこと、しっかり覚えていますよ。






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