ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

逃げるんじゃない

2022-02-27 17:55:28 | 短歌




自分から 逃げるんじゃない たとえその 生がどんなに 苦しくっても




*大火節です。現代語でこうすっきりと言われたら、胸をどんと突かれるような気がしますね。ちゃんと57577になっているのも憎い。

人間というものは、時々、自分の人生があまりに苦しいことになってくると、魂がその人生から逃げてしまうことがあります。あとの人生は、違う魂がやるか(これを第2霊といいますが)、空っぽになって大勢の霊魂で動かすだけの傀儡になってしまう。そういうことも、ツイッターの方で大火のつぶやきを読んでいる人は学んでいることでしょう。

第2霊や傀儡などというものは、そう珍しいものではありません。自分の人生がいやなことになってくると、すぐに人生をやめてしまう魂というのはけっこういるのです。馬鹿なことをしでかして自分が馬鹿になってしまったからとか、肉体が若くなくなってきたからとか、そういう愚かな理由で自分の人生を途中で降りてしまう人はよくいるのです。

問題は、あとをやってくれる霊魂がそれなりになんとかできる人であったらいいのですがね、中にはとんでもないことをする人がいるのです。所詮自分の人生ではないからと、無責任にいやらしいことを好きなようにやって、その人生を破壊に導く人がいるのです。

ヒトラーやスターリンなどがそのいい例です。あのむごい虐殺や粛清は、実は本霊がやったことではない。本霊が逃げた後にその人をやった第2霊がすべてをやったのです。そしてその人を稀代の大悪人に仕立ててしまった。

第2霊がやったことでも、その責任は全部、人生の本来の持ち主である本霊の方にいきます。ヒトラーもスターリンも、本霊は何もやってないんですよ。だのにあまりにもむごい悪行の数々の責任が全部自分に来るのです。それを自分で支払わねばならない。自分の人生から逃げた代償は、時にあまりにも大きなものになる。

自分の人生が嫌になったからと言って、すぐに逃げてしまってはいけません。きついことになるのは自分なのです。どんなにつらくても、自分の人生は自分で生きるのが一番いいのです。馬鹿なことをして馬鹿になった自分がつらいのなら、正直に迷惑をかけた人に謝って、やり直していけばいいのです。そういう勉強をすることこそが人生の醍醐味なのに、それを途中でやめてしまうのは惜しいなどというものではない。

自分から逃げてはいけません。たとえその人生がどんなに苦しくても。






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ぴらかんさ

2022-02-21 08:55:35 | 





実をささげ 冬を耐へ行く ぴらかんさ     夢詩香




*歌が続いたので、久しぶりに俳句でもやりましょう。

拙宅の庭先には、小さなぴらかんさの木が生えています。植えたのではなくて、いつの間にか生えてきたのです。生えてきたところがちょうどよかったので、亭主が刈り込んで生垣代わりにしているのですが。

春には見事な花を咲かせて、秋口には赤い実を鈴なりにつけて楽しませてくれました。しかし今は、その実もみんな鳥に食べられて、裸の寂しい姿になっています。

盛りのころは、毎日のようにヒタキやヒヨドリが訪れて、楽しませてくれましたが、もうすっかり実を食べつくされた後では、鳥もよりつかなくなりましたね。だからぴらかんさも少し寂しそうだ。

赤い実はだれのためになしたものでしょう。花は何のために、あれだけたくさんの実をつけるでしょう。自己保存欲だけが目的ではないと思う。花も実も、見る人やそれを食べる小鳥のことを思いながらなすものではないだろうか。

この世には美しいものがたくさんある。花は放っておけば自然に咲くのではない。花自身が毎年のように自分の努力をして咲いているのだ。美しい実をなすことも、人知れずこつこつと営まれているその花の美しい努力のたまものなのだ。自分のためだけではないから、そんな努力ができる。喜んでくれる人や鳥がいるから、たくさんの実をなす苦労もがんばれるというものだ。

きれいな実を全部ささげて、裸同然になったぴらかんさに冬の寒い風が吹いている。でもそれほど悲しげではないのは、みなのために役立った自分の美しさがあるからでしょう。そしてまた春に向けて、がんばっていける。

また次の季節にも、美しい花や実を見せてくれるに違いないのです。




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春は来て

2022-02-16 07:45:54 | 短歌





春は来て 目覚めのころと 知りつれば すぎゆく風に まよひを捨てよ




*今年の冬はことのほか寒かったですが、2月に入ってその寒さも少し揺らいできたような気がしますね。

去年の今頃は、野のすみなどにオオイヌノフグリやホトケノザなどが咲き始めていたのですが、今日それを探してみても、まだ咲いていませんでした。春の歌ですから、おずおずとほころび始めた小さな野の花の写真など欲しかったところですが。

しかたないので、去年のコデマリの花の写真を採用しました。

春は、はじまりの季節です。冬の寒さが壊れて春の温かさが来るとき、人間も花と一緒に目覚めて、何かをしたくなる。

新しい自分を立てて、新しいことをしたくなりますね。

今は人類の目覚めの時代です。寒い冬の時代に、自分を迷っていた人間が、春咲く花のように一斉に目覚め始めている。自分とは馬鹿なものだと思っていたが、そうではないのだと。自分はすばらしいものなのだと。春の光のような神のささやきに導かれて、人間の魂が一斉に自分に目覚め始めている。

そして高みに向かって伸びようと活動を始めている。

人間の春の始まりです。みんながすばらしい人間となり、迷いの衣を脱ぎ捨て、飛び立っていく。

こんな時代に、いつまでも嘘の自分にこだわって、眠っていてはいけません。吹いてくる春の風の中に、迷いを捨てて、本当の自分に目覚めなければ。そうでなければ季節の巡りにおいて行かれます。

もう人間の迷いの時代は終わった。冷たい冬の嵐は止んだ。人間は心の嵐の中を耐え抜いてきた自分を抱きしめ、新たな自分の新たな時代に踏み込んでいくのです。

人類の青春が始まるのです。





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あやまちて

2022-02-12 07:34:24 | 短歌





あやまちて あらためもせず 流れきて もとむるものは けがれなきわれ




*これは、ツイッターで発表したとき、後ろから二番目の七が、「馬鹿のもとむる」になっていましたが、ここでは「もとむるものは」に変えてみました。他に、「嘘でいつはる」とかにもしようと思ったのですが、仲間がこっちのほうがいいと言ったので、これにしました。

あやまちてあらためざる、これをあやまちという、とは論語の言葉ですが、世の中には過ちて改めない人がよほどたくさんいます。自分の過ちを認めて、人に謝って償っていくということが、できないというか、したくないのです。そんなことをすれば人に馬鹿にされるし、自分のプライドを痛く折らなければならないからです。

だから馬鹿な人は自分の過ちをそのまま放っておいて、悪いのは世間の方なのだともうそぶいて、嘘とごまかしで自分を生きさせようとする。要するに逃げるのです。あやまちた自分というものがいやでたまらず、そこから逃げて、他人から自分を盗んで、まったく違う別の自分になろうとする。

どんな自分になろうとするかというと、それは悪いことなどしたことのない、穢れのない自分なのだ。悪いことばかりして、ずるいことばかりして、自分を無理やり変えて、なりたいものは、ただ善良な正しい自分というものなのだ。

言われて当然のことだが、馬鹿ですね。本当に陰りのない美しく正しい自分になりたいのなら、しっかりと自分のあやまちをあらためて、人にも神にも謝り、自分をやり直していくことが正しい道なのだが、馬鹿な人はそれを嫌がって、悪いやり方で、穢れのない美しい人に化けようとする。

あやまちた自分を認めるのが嫌なばかりに、神に逆らって嫌なことばかりした挙句、最終的になりたかったものといえば、神に愛される正しい人というものだったのです。馬鹿な人は、馬鹿なことをしてあやまちた自分というものがつらくてしょうがないのだ。できるなら、まだそんなことなど何もしたことがない自分に戻りたいと思っている。

でもそんなことなどできるはずがない。自分の過ちから逃げている限り、馬鹿は際限のない苦悶の闇をさまよい続ける。たとえ嘘でよい人間に化けていても、その罪の影は背中のこぶのように自分に永遠に張り付いてくる。

すべての罪を自分のものと認めて、やり直さない限り、馬鹿は永遠にその矛盾に苦しむのです。




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その花を

2022-02-04 08:02:39 | 短歌





道の辺の 花もおのれを 確かめて 世にふたつなき その花を咲く





*毎日ツイッターのほうで、2首ずつ詠むことを日課としていますが、なかなか良いのが詠めません。中には出すのが恥ずかしいような作もありますが、勉強と思い続けています。こういう積み重ねが、スランプから抜け出る道だと信じたいですね。

その中で、表題の作は、なかなか良いものにできました。言いたいことがしっかりと31文字に詰め込まれている。

道の辺などに咲いている花も、自分というものを確かめて、世界に二つとない、自分だけの花を咲かすのだ。

解説も不要なほど、言い抜けている。確かにそのとおり。たとえば水仙の花など、世の中に何億と咲いているでしょうが、その一つの花はほかに二つとないその花だけの花なのだ。自分というものは、自分以外にだれもいない。この自分だけの自分なのだ。

すべての存在は、ただひとつの存在なのだ。ほかに同じものはない。ただそれだけの自分である自分というものが、すばらしいのだ。その自分が、いったいどういう自分であるのか、様々なことをやって試してみたい。この自分の自分というものをやってみたい。そう思うとき、人は至高の幸せに導かれるのです。

すべての花は、ただひとつのその花なのだ。それがなんとたくさんいるのか。ただひとつの自分、ほかに二つとない自分が、すばらしくたくさんいる。みなが愛の中に包まれて、美しい自分を生きている。

この世界はすばらしい。自分とはすばらしい。

わたしたちはなんと幸福なものなのだろう。





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