ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

ふたごの星

2017-03-31 04:21:33 | 短歌






小窓にて こどくがふたつ ならびゐて ともに見上げる ふたごの星を






*今日もまた星の歌を選んでみました。

ブログでの発表は2014年になっていますが、実はこれはかのじょの作品です。ヤフーブログで活動していた時、当時のブログ友達のブログのコメントに書いたものです。かのじょはそのブログ友達を気に入っていました。冴えない普通のおじさんで、とてもくだらないことをしていたが、心が純で毒がなかったからです。

何よりよかったのは、女性に対する欲がほとんどなかったことでした。色目で自分を見る男には一切近寄りたくないという人でしたが、男性の友達は欲しかったのです。もちろん、霊魂が男性だからです。

天使は心を見ることができますから、なんとなくわかるのですよ。この人なら、友達になっても、そんなに悪いことにはならないと。実際、悪いことにはなりませんでした。あまり心は開いてくれませんでしたが、それなりの教養でこたえてくれた。なつかしい感じがしたのは、前世での縁もあったからです。

かのじょが事実上ヤフーブログをやめてから、その友達との付き合いもなくなりましたが、この歌だけは惜しいので取っておきました。後にそれを思い出して、スピカが第3館の歌集に取り上げたのです。

小窓のように小さなパソコンの前で、孤独な二つの魂が並んでいる。それはあなたとわたしだ。いっしょに見上げている星は、ふたごの星だ。それはね、あなたもわたしも、同じだという意味なんだよ。小さな自分を抱いて生きている。きついことも痛いことも、甘いことも辛いことも味わい、生きている。あなたはわからないだろうけれど、わたしはあなたのことをそう思っている。ふたごみたいに似ているところがあると。

歌にはそういう心がこめられていましたが、やはり相手には伝わりませんでした。才ある女性に対する偏見はそう強くない人でしたが、やはり女性そのものが苦手だったようですね。

かのじょは生きている間、夫以外の男性にはほとんど近寄っていきませんでしたが、男性に全然興味がなかったわけではないですよ。ただ、嫌だと感じる人から逃げていただけです。かのじょが夫以外で少しでも心を開くことができた男性は、二人ほどいますが、二人の共通点は、異性としてのかのじょに興味がなかったということでした。

あなたがたにはつらいことかもしれませんね。

純粋に友達としてなら、いいという意味ですから。

かのじょは女性そのものという特質を持っていますが、やはりそこは男性なのです。男性には、友情以外のものを感じられないのです。

あのブログ友達に関しては、わたしも好もしく思っていますよ。つかの間とはいえ、かのじょに男の友情めいたものを感じさせてくれた。かすかにでも、孤独が響きあう甘い夢を見せてくれた。

本人は、何も知らないでしょうが。

誰にも自分を理解してもらえない、ほとんど真っ暗闇の人生の中で、ほんの短い間のあの交感が、かのじょの魂の渇きを、ほんの少し癒してくれたのです。







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こぐまの星

2017-03-30 04:20:31 | 短歌






夜来ると 海のひとでを そそのかし こぐまの星を かたれとぞいふ






*昨日は星について語ったので、今日の短歌も星を詠んだものを選んでみました。「こぐまの星」とは、もちろん、こぐま座にある北極星を意味します。

夜が来る。嘘が勝つ暗黒の世が来る。馬鹿は何をしてもいいのだ。だから海のひとでをそそのかし、おまえが空にのぼって、北極星になれと、誰かが言う。

痛い歌ですね。

ひとでは海星とも書きますが、それはその形が五芒星に似ているからで、とても星にはなれない。子供が学芸会で星の役をするときにかぶるお面の役くらいはできるだろうが、空の真ん中に登って、すべての人を導く尊い星になどなれるはずがない。

それなのに、それになれという。どうやってなるつもりなのか。馬鹿はもちろん考えている。ひとでに星の服を着せ、この世界に嘘をふきまくる。空に登れないひとでを星にするために、海こそ空なのだということさえ、平気で言う。そして、ひとでを星にして、本当の星をひとでにする。

何もわからない人間は、それに騙されて、大変なことになる。海が空になどなれば、世界がさかさまになりますから、何もかもがおかしくなってくる。そのことからくる苦しみを、あらゆる手立てを使って何とかせねばならない。

宮沢賢治の童話に「双子の星」というのがありますね。そこでは、空の双子の星が箒星に騙されて海に落ち、そこでひとでになると言われるのだが、そうはならずに、再び天に帰っていく。

星は騙されて海に落ちることはあるかもしれませんが、決してひとでにはなりません。明るい気持ちで愛を信じるものは、決して悪に溺れないのです。

キリスト教世界では堕天使などという考え方がありますが、天使は堕落したりしません。霊魂が悪に堕落することがあるのは、解脱をして愛に目覚める前の、人間の霊魂だけです。愛の真実について何も知らない間の、愚かさをかこっている人間だけに起こる現象なのです。目覚めてしまえば、二度と馬鹿なことなどできはしない。

永遠の真実の中に目覚めた霊魂は、自分の中にある鋼の真実が、決して曲げることはできないものだと気づくのです。そのような魂は、海の底に落とされようが、汚い泥沼に落とされようが、決して自分を汚すことはないのです。

だが、ひとでのように何も知らない小さな霊魂は、単純に、馬鹿なことをしてでも、星のように偉くなりたいと思うのだ。

ひとでに、北極星になれとささやいたものはだれでしょう。ほかでもない。そのひとで自身です。ひとでが自分で自分に言ったのです。馬鹿なことをして、偉くなってやれと。嫌なことをして、みんなを馬鹿にして、楽に、世界で一番偉くなってやれと。

そういうことを平気で考えられるのは、愛について何も知らない、若い魂だけです。








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錨星

2017-03-29 04:19:29 | 






錨星 とはに会はでは をれぬ夢     夢詩香






*錨星(いかりぼし)は、和語で、カシオペア座のことです。日本語でも、星を表す言葉はたくさんあります。参考までに、集めておきましょうか。このブログはいろいろと役に立ちますね。

オリオンの三つ星は有名ですね。北極星のことは、北辰とか妙見とか子の星(ねのほし)とか言います。北斗七星は北斗とか七つ星と言います。シリウスのことは天狼だということは知られています。白鳥座のことは北十字。スピカは真珠星という名があり、アンタレスは大火(たいか)という。ちなみに「あかぼし」は「明星(あかぼし)」なら明けの明星の金星のことだが、「赤星(あかぼし)」となるとアンタレスになります。宵の明星は「ゆふつづ(ゆふづつ)」ですね。木星には「歳星(さいせい)」という名もあります。織姫(ヴェガ)、彦星(アルタイル)、昴(プレアデス)、五角星(ぎょしゃ座)、釣鐘星(ヒアデス)、天の川、銀河、いて座に南斗六星があることも有名ですね。カノープスには南極老人星の別名がありますが、俳句には使いにくい。これくらいでいいでしょうか。

獅子とか琴とか天馬とか、星座の名前も押さえておきましょう。いろいろな星座の神話も知っておくとよいですよ。

カシオペアはギリシャ神話ではエチオピアの王妃で、アンドロメダの母親です。娘の美しさを奢ったことをポセイドンにとがめられて、娘を生贄に出さねばならなくなった。悲しい母親ですね。だが日本語の「錨星」は、単純にその形から命名されました。ギリシャ神話からくる星座の名前にはいろいろロマンがありますが、日本語はそれほど豊かではない。ギリシャ神話の助けを受けながら、イメージを膨らませています。

かのじょの瑠璃の籠の中での異名は、ルナのほかにツィーがありました。カシオペアのWの真ん中の星です。それはどうやら中国語で「鞭」を意味するらしい。偶然ですが、少し面白い符合です。愛の天使が自分を意味することに選んだ星に、鞭の名が秘められている。

カシオペアはアンドロメダの母親と言いましたが、その神話がどことなく影響しているのでしょう。かのじょはあの星座を、母国のようなものだと感じていたふしがある。小さな青い星の片隅に生きている自分の本当の故郷が、空にあるとすれば、あそこではないのかと。そしていつまでも不思議な目で見上げていた。

北の空に浮かぶ、錨の形の星はとても端正でくっきりとしている。見れば見るほど引き込まれてしまう。

星には、とても高い秘密があります。今はまだ教えられませんが、かのじょが星に感じていたことには、とても不思議な意味があります。

あの人はきっと、カシオペアに生きていたのだ。そう考えても、それほど大きな間違いではありませんよ。

あの錨星が、あの人の故郷なのだろうか。あの人は今あそこにいるのだろうか。ああ、永遠に会えないとはいうが、あの星を見ていると、それが我慢できないと思うほどだ。夢でもいいから会いたい。

星を見るたびに、会える気がする。

そういう物語が、空に書かれたのは、不思議な神の恵みです。







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桓魋の

2017-03-28 04:20:50 | その他






桓魋の 悔いは涙を 魚にする     夢詩香






*「魚」は「うを」と読みましょう。二文字の言葉は、短歌や俳句にとっては珠玉です。いろいろと収集しておくことをお勧めします。

カワセミのことを「鴗(そび)」と言い、カイツブリのことは「鳰(にほ)」という。ガマガエルは「蟇(ひき)」です。屋根をふくのに使う草を「萱(かや)」といい、キジとウサギで「雉兎(ちと)」という。「疾し(とし)」は速いという意味で、「睨む(ねむ)」はにらむという意味です。榾(ほた)、愛し(はし)、鶴(たづ)、避く(よく)…。当節流行りの「ゲス」は、もとは「下衆、下種」で、素性の賤しい者とか、使用人という意味です。

活用すると、少ない文字でおもしろいことができますよ。

ところで、桓魋(かんたい)は、論語に出てくる悪人の一人です。陽虎(ようこ)と並び称される。諸国を遍歴していた孔子が、宋の国に入ったとき、宋の司馬(軍務大臣)桓魋が、孔子を殺そうとしたのです。この言葉が有名ですね。

天、徳をわれに生ぜり。桓魋それわれをいかん。

天はわたしに重大な使命を課したのだ。桓魋ごときがこのわたしをどうすることができよう。

確かな自分に自信を持っている人でなければ言えない言葉です。

本当は陽虎を使いたかったが、字数が足りないので桓魋にしました。文字数は重要です。形に合わせて言葉を選ぶと、それに合わせて微妙に意味が違ってくるのが面白い。

論語の中では、陽虎や桓魋は悪人扱いですが、霊魂としては、顔回よりはずっとましですよ。なぜなら彼らは、この人生で孔子をいじめたことを強く後悔し、次の人生でそれを改めようと努力しているからです。本当です。特に陽虎はがんばっている。かなり何とかしましたよ。

涙を魚にするとは、後悔して泣いたことを、そのままにしておかず、できることをして、自分をなんとかしたということです。魚のように動いて、働いて、自分のやったことを償おうとしたのです。彼らは、孔子の心を見抜けなかった自分の不徳が恥ずかしいあまりに、やらずにいられなかったのです。

人間というものは、初めから賢いわけではありませんから、誰でも馬鹿なことをしたことがある。それを後悔してやり直せる人が、伸びていくのです。

陽虎は今もがんばっていますよ。桓魋もだいぶなんとかしています。よい人間として、見事に立ち直っています。

過ちて改めざる、これを過ちという。

孔子のこの言葉を、誰よりも守っているのはこの二人かもしれない。

過ちをしたら、自分を嫌なものにして何もせずに馬鹿になっているよりも、後悔の涙を魚のように振り動かし、できることは何でもやっていきなさい。それが、握り飯を作って、あの人に差し上げるということくらいでも構わない。自分にできる、正真正銘の真実を、その人のためにやるということが大事なのです。

まことこそが、人間を救うのです。







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壁紙の柄

2017-03-27 04:20:59 | 短歌






鉄のごと 重きますらを ひとりゐて まわりの者は 壁紙の柄






*短歌ばかりが続きますね。少し待ってください。明日あたりから、俳句をやりましょう。

これは、2013年のかのじょの作です。昨日の歌はシリウスについて詠ったものですが、実はこれは、ウラヌスについて詠ったものです。

鉄のように重い、とても男らしい男性が一人いるのだが、そのせいで、周りにいる男がみんな、壁紙の柄のように見えると。

かのじょの作にしては、とてもシニカルですね。少し彼の影響があります。しかし、テレビでウラヌスを見ていた時、かのじょにはこんな風に見えたのです。

プロ野球界にいる人には申し訳ありませんが、わたしにも、そう見えますね。

あの世界にいると、ウラヌスだけが、妙に重く、大きく見える。実際、霊的世界での大きさが違うからです。あなたがたも、見れば感じるはずです。あの人だけが、妙に密度が濃いという感じだ。中に何かがぎっしりと詰っている。

スポーツ界というのは、実は馬鹿の巣窟です。体技だけで自分の人生をよくしてゆくことができますから、体躯と運動神経を技術で作って、馬鹿な人間をよいものにしようとする活動が痛いほど発展しているのですよ。

本当の自分でやっている選手も、昔はかなりいましたが、今はほとんどいません。肉体も運動神経も偽物。霊的技術で作った優れた体躯の中には、実に寒い、小さな霊魂がいる。そういう選手は、たとえウラヌスより背が高くても、何か薄く、平べったく見える。

実在感というものが、痛い。本当は、いないはずの人間だからです。

勉強もしていないのに、偉いものになりたいと思うとき、馬鹿な人間は、体技とか、芝居とか、馬鹿でも簡単にできることで、何とかしようとする。ですから、スポーツ界とか芸能界というものは、馬鹿が集中して集まり、ひどく嫌な世界になっているのです。

実はウラヌスは、そういう嘘ばかりでできた世界を何とかするという使命を持って生まれてきました。だから、彼がその世界にいるだけで、多くのスポーツ選手が助かるのです。だが、現実はむごい。他の天使がほとんど死んでしまったので、彼の使命が、国王に移行したのです。

それによって、大きな不都合が発生した。実に、彼によって助かるはずだった人間が、助かることができなくなったのです。

これも、馬鹿が天使の活動を邪魔しすぎたからだ。結局は、馬鹿の方に痛い反動が行く。

自分ばかりをよいものにしようとして、偽物の自分を作り、都合の良い人生を生きようとするからそうなる。そんな人間は、壁紙の柄のようなものだ。絵に描いてあるだけで、生きている意味などほとんどない。

不思議なことに、その柄は動いている。動く壁紙の柄とは、人間は変なものになったものだ。







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ダビデ

2017-03-26 04:20:13 | 短歌






暗夜なれば 熱き怒りの 石もちて 痛きダビデは 暁に立つ





*今日はヘブライの神話から行きましょう。これは2007年の作です。かのじょが、シリウスと出会った頃のものです。

これほどキリスト教が隆盛している世界では、聖書の教養を無視することはできません。ダビデとかスザンナとかアブラハムとかヤエルとか、新約からはユダとかピラトとか、主な名前と経歴については、調べておいた方がいいですね。

バベルの塔の神話などは仮構ですが、ダビデ王は実在しました。ユダヤ民族にとっては偉大な王でしたので、忘れることなく記録していたのです。投石器という簡単な武器で、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒した。人間にとっては、すごいことをしてくれた英雄です。こんなことをしてくれた男は、忘れることはできません。

後にバテシバのことなどで汚点も残しましたが、それも含めて、人間的な陰影を持つ存在として、強く人間の心に刻されている。画家もよく、岩のように大きなゴリアテの首を持ったダビデの絵を描いています。

しかしここで詠われているダビデは、史実と伝説の中のダビデではなく、ただ、ダビデのようなきつい男という意味です。誰を意味しているかはわかるでしょう。

わたしたちはよく、痛い、という言葉を使いますが、それはどういうことかというと、法則的には正しくないことだが、それをやらねば活路が開けないということがあるとき、勇を賭してそれをやる、というような類のことを言います。馬鹿なことだとわかっているが、それをやらねばみんなが困る。ならば、反動をかぶり自分が痛い思いをすることも覚悟してそれをやらねばならない。それができる男、それが痛きダビデだ。

「暗夜なれば」という字余りの語句が痛いですね。法則をはみ出す、という感じが出ている。こんな馬鹿な世の中だからこそ、熱い怒りの石を持ち、ダビデは痛いことをするために、立ち上がる。彼の目の前には、時代の夜明けが見えている。

おもしろいでしょう。

かのじょは、シリウスの存在に、夢を見ていたのです。女というものは、すばらしい男という存在に、こんな夢を見ているのですよ。

この夢を、すっかり無視してしまえば、男は廃れるなどというものでは、ありませんね。







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アラクネの夜

2017-03-25 04:20:45 | 短歌






薔薇の根を ほどきてよりて 沈黙の 糸を編み来ぬ アラクネの夜






*今日はギリシャ神話からいきましょう。これはかのじょの作品です。2008年のものです。

日本人にとっては、中国の故事とギリシャ神話は必携の教養です。北欧神話やゲルマンの神話もおもしろいが、ギリシャ神話ほど、短歌になじんでこない。たぶん、ギリシャの方が日本に風土が似ているからでしょう。風土が似ていれば、人間も似てくる。

アラクネは、技能の高い織女でしたが、それを鼻にかけ、不遜にも女神アテナに挑戦しました。しかしそれでとても恥ずかしいことになり、アテナに憐れまれて蜘蛛に変えられたという女性です。

昔から、人間の傲慢を戒める神話はたくさんあります。ナルキッソスの神話もそうですし、太陽神アポロンでさえ、ダフネの神話で傲慢を戒められている。金持ちで美男でもてるからと言って、調子に乗っていると、ダフネのようなニンフにさえフラれてしまいますよということです。

しかしここで詠われているアラクネは、傲慢な女という意味ではなく、ただ布を織るという仕事を地道にやってきた女性たちのことを意味します。昔から布を作り服を縫うのは女性の仕事でした。男たちが着る服も、子供たちが着る服も、女性たちがみんな作ってきたのです。生きていくためにはそれはとても大事なことだ。着る服がなければ誰も生きていけない。だが、それをほめてくれる人はほとんどいなかった。布を織るなど簡単な仕事だからと、目にとめてもくれなかった。

薔薇の根とは、そういう目には見えない影のようなところで、誰かが地道にやってくれている仕事という意味です。薔薇の花は美しいから、誰もが見てほめてくれるが、実際根がなければ花は咲くことはできない。だが、土の中で地道にやっている根の仕事をほめてくれる人は誰もいない。

それでも、何も言わずに、根は仕事を続け、薔薇の花を咲かせることをずっと助け続けてきた。

花を咲かせるために、見えないところでずっと働いている、薔薇の根の心を、ほどいてよってその糸を編んで、何も言わずに布を作ってきた。それでみんなを助けているのに、誰もそれを言わなかった。そんな働き者の女性たちがいるんだよ。そんな女性たちは、夜に何を思っているのだろう。

これはそういう歌です。

そういう心を詠むのに、ギリシャ神話の言葉を使うと、何か不思議に美しくなります。

織女というのは、アテナのように美しくはないでしょう。時にはアラクネのように、調子に乗ってしまうことがあるような、人間的でかわいらしい女性でしょう。そんな子がやってくれている仕事を、全部ないことにして、いつまでもみんな知らないことにしていては、少々つらすぎますよ。

歌はいい。こんな美しいことを、とてもいい形で、みんなに教えることができる。







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鉄の闇

2017-03-24 04:25:13 | 短歌






あどるふの 鉄の闇をも 照らさむと 鵺のひそみに 珠を秘す月






*今日も短歌です。中国の教養ばかりでは何ですから、西洋に飛びましょう。あどるふはもちろん、アドルフ・ヒトラーのことです。

「鵺(ぬえ)」というのは、トラツグミの異称でもあるそうですが、ここでは得体のしれない妖怪変化のようなものを意味します。手元の辞書に由れば、頭は猿、体は狸、尾は蛇、足は虎のようになっている、想像上の動物だそうです。とても気味の悪い声で鳴き、その声をきくことは不吉であるそうです。

アドルフのような独裁者には、鵺のようなものでさえしかめっ面をするものだ。だがその、鉄のような絶望の暗闇をも照らそうと、鵺のしかめっ面の中に、珠のような愛を、月は秘めておくのだ。

実に優しい愛ですね。かのじょの詩に、「アドルフのために」というものがありましたが、覚えておられる人もいるでしょうか。あれを書いた時、かのじょはまだ30代でした。若すぎるとも言えないが、まだ人生の暗闇をそれほど知ってはいなかった。明るく、あっけらかんと、神に願ったのです。虐殺と独裁を行った究極の馬鹿でさえ、救ってくださいと。

純真という心は、時にあまりにも痛い。

リンクをつけますから、読み直してみてください。かわいらしすぎるでしょう。あの人はこういう人なのだ。馬鹿にはまぶしすぎるほど、きれいなのですよ。

だがあの人も、ヒトラーについては歌えたが、スターリンについては何も言えませんでした。スターリンのことは知っていましたがね、彼については詩の言葉が何も浮かんでこなかったのです。どんな愛にも、限界はあるのですよ。

スターリンについては、彼、試練の天使の作があります。つぶやき用に作ったものだが、発表する機会を失って死蔵していたものです。ここでやってみましょう。





露ほども なきと思ふな 国の罪 鉄の男を 戒めとせよ





露はもちろん、ロシア(露西亜)の意味も含んでいます。ロシアよ、国の罪が全然ないなどと思うな。スターリンのことを思い出せ。

スターリンとは、ロシア語で「鋼鉄の男」という意味です。英語のスティールと語源は同じです。鉄と鋼は微妙に違いますが、ここでは同じものとして使いました。

鉄は「くろがね」。金や青銅などと違って加工がしやすく、石器などよりはずっと丈夫で優れた武器を作ることができる。鉄器の発明によって、人間はたくさんの武器を製造し、激しい戦争をやるようになった。恐ろしく武器を進化させた。究極の殺戮さえ行った。

黒い金属というものは、闇に響く。その奥に、これを使って何をしてもいいのだぞという、魔の声を聞くことがある。

そのような鉄が支配している心の闇に住んでいるものでさえ、月はかすかにでも照らそうとしているが。

鋼鉄そのものであるというスターリンの闇には、誰がいくだろうか。







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螻蟻の穴

2017-03-23 04:19:02 | 短歌






城壁の 螻蟻の穴に 月を見て 千乗の国 露と消えゆく






*実はこの歌は、最初、末尾を「ぬる」にしていたのですが、弟子たちが、それはきつすぎると言ってきたので、それを採用して、「ゆく」にしました。どうも、「ぬる」にしてしまうと、感情的に非常につらいらしい。実情は「ぬる」であるらしいのだが、どうも相当にそれが悲惨らしいのです。

まあ解説するまでもないでしょうが、「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形です。つまりは「ぬる」にすれば、係り結びの省略形になり、非常に強い意味になる。

「螻蟻(ろうぎ)」とは、文字通り、螻(けら)や蟻(あり)のことです。韓非子にあるこの言葉から来ています。

千丈の堤も螻蟻の穴を以って潰ゆ。

一丈とは十尺で、約3.03mですが、千丈というのは単にとても長いということを意味します。千丈もある大きな堤も、小さな螻や蟻の穴一つから、崩れ去ることがある。大きなものをふんだんに持っているからと言って、油断して馬鹿なことをしていると、大変なことになるよという意味です。ほんの小さなとるに足らないものだと甘くみていたものから、すさまじい現象が起こって来ることがある。

まあ詳しく言わなくても、身に染みてわかっている人は多くいることでしょう。

千乗の国とは、戦車千台をも養えるようなとても大きな国という意味です。もちろん千丈とひっかけてあります。千丈の堤よりずっと大きいですね。

城壁に、螻や蟻が空けた小さな穴から、月のように美しい美女を覗いていたら、そこから大変なことが起こって、千乗の国がとうとう、露のように消えていくのだと。

これを「ぬる」にしてしまったら、完全に消えてしまったという意味になりますね。たしかに、これはきつい。

まあ、実情は、まだあるものはあるのだろうが、それもほとんど幻のようになっているのでしょう。形はあるにはあるが、風よりもむなしい。誰も愛してくれないからだ。

消えるということは、必ずしもそのものがなくなるということではない。存在意義が全く馬鹿になってしまうということもあるのです。あるということが、激しく恥ずかしい。消えてしまったほうが幸せだ。そういうものが、ある。それも、山のように堂々としている。

これが、馬鹿になったということです。

千乗の国が馬鹿になった。なぜか。たった一人の美女を手に入れるために、その千乗の国の価値をすべてつぎ込んだからです。ゆえにその国の価値が、螻蟻の穴から見えるたったひとりのかわいい美女より小さくなったのです。

千乗の国を作り上げた、男の価値がすべて、馬鹿になった。

阿呆ですね。







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青く澄む

2017-03-22 04:20:22 | その他






神を見る 君の眼は 青く澄む     夢詩香






*彼の言った通り、「青城澄」は、この媒体を通して表現しているすべての天使の総合ペンネームです。もちろんこの中にはかのじょ自身も入っています。

「すみ」ではなく「すむ」としたところに、かのじょのセンスを感じますね。

ですから、これから先、わたしたちがこのブログで発表した作品を公に出版する機会があるとすれば、必ず青城澄を使うでしょう。かのじょの作品にもスピカの作品にもゾスマの作品にも、青城澄を使います。できたら、本は出してみたいですね。あの人の作品を、ずっと埋もれさせておくのは悲しい。何らかの形に発展させてみたい。

神を見ると詠みましたが、わたしたちは神を見ることもできますよ。霊的世界では、あなたがたにも、神の姿を見ることができます。ですから、霊的存在でいるときは、あなたがたは人間を創ってくださった神のお姿をみな知っています。

ですが肉体を得てこちらの世界にいるときは、肉眼で神を見ることはできません。わたしたちも、そういう感じで見ているわけではありません。ただ空を見ている時、白い雲の中にいる大きな霊を感じるのです。それはそれは、不思議な色だ。雲はみな白いが、その白さが違う。

神が空にいらっしゃるときの雲の白さは、たとえてみれば、透きとおった悲しみが偉大に大きくなってしまったかのようだ。そして塵一つの曇りも混じることもなく、清らかになり果ててしまったかのようだ。

そんな神を見ていると、自分の目もそれに染まって、白いものが青くなってくるほど、澄んでくるのです。

たまらなく愛がかきたてられてくる。あの崇高なもののために、何かをしたくてたまらなくなる。それがたとえようもない幸福に発展する。

これはそういう意味の名前なのです。神を愛している天使が、自分の名として採用した言葉の中には、あまりに愛らしい愛が隠れているのです。愛する神とすべての存在のために、なんでもやっていきたいと。

わたしたちはその心を尊敬して、この名前をずっと使っていきます。

それはそれとして、わたしは別に、夢詩香の名も使っていきたいですね。句集や歌集を編むときは、澄よりも夢詩香を使ってみたい。なんとなく、青城澄ではできない仕事を、夢詩香にやらせてみたいのです。

ムジカの当て字で、よくある名ですがおもしろいことができそうだ。

これからもここでは、夢詩香でやっていきましょう。活動が広がっていくたびに、何かが起こってくるでしょう。







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