雉兎を得て つまこを思ふ しづをかな 夢詩香
*先日、「雉兎(ちと)」という言葉を紹介したので、それを使って詠んでみました。
「雉兎」というのは、文字通りキジとウサギのこと。またそれを捕る猟師のことです。「しづを」は「賤男」、身分の低い男のことを言います。
身分の賤しい男が、キジとウサギを手に入れて、自分の妻子のことを思っている。
キジやウサギは森にいる。森に行って、それなりに自分の技をつかえば獲ることができる。神も咎めはしない。うまく手に入れることができて、一番最初に思い浮かぶのは、家で自分を待っている妻や子のことだ。
どれだけ喜んでくれるだろう。そう思うだけで、小さな男の心も踊る。
自分の力いっぱいでできることを、心いっぱいで喜んでくれるものがいる。それが幸せなのだと、男ははっきりとわかってはいないかもしれない。だが、素直に喜んでいるその姿は愛おしい。
小さな男が、正直に自分にできることをやって、小さな妻子を立派に養っている。それはそれは麗しい。そんなことができる男は、誰かが深く愛するだろう。
そうやって、まじめにやっていればいいものを。過ぎたものを求めて、幻の世界をさまよいはじめれば、人間はすこぶる汚くなってくる。小さくとも澄んでいたあの幸福を忘れ、偽物の幸福をきらびやかに飾っていく。そしてすべてが苦しくなっていく。
高貴なものと、卑賤なものという区別は、事実上、あります。便宜的ではありますがね。要するに、段階的にまだ高いことができない霊魂は、卑賤というグループに置かれた方が、幸せなのです。そういう形の中で、自分にできることを正直にやっていけば、卑賤の皮を少しずつ脱いで行って、高貴なものになってゆくことができる。
そういう形に添って、進歩していくことが、人間にとってはいいことなのですよ。
賤しいことというのは、まだいいことがわかっていないから、簡単にやってしまう馬鹿なことという意味です。物事が何もわからない赤ん坊が、糞で台所を汚すというようなことですよ。大人はとても困る。台所は食べ物を作るところですから。だが、赤ん坊にはそんなことはわかりませんから、平気でやります。
まだ勉強のできていない人間というものは、こういうことを、いつでも、あちこちでやっているのです。
勉強が進んでくれば、人間としての正しい態度が身についてくる。そういう人が増えれば、社会が正しく運営されていく。そしてみんなが幸福になっていく。
人間は、最初から賢いわけではありません。子供の方がいつも純真で正しいなどというわけではありません。
正しい勉強をして、正しい大人になった人間の方が、ずっとよいのです。