葛飾(かつしか)の 真間(まま)の入江(いりえ)に うち靡(なび)く
玉藻(たまも)刈りけむ 手児名(てこな)し思ほゆ
=巻3-433 山部赤人=
葛飾の真間の入江になびいている美しい藻を刈ったという手児名のことが思われる。 という意味。
玉藻(海藻)は波にゆらゆら靡いていることから「うち靡く」が「玉藻刈る(海産物を採取して暮らしている)」の枕詞にもなったのだろう。
山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌である。
手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。
山部赤人は奈良時代の歌人。微官であったらしく,『万葉集』に長歌13首,短歌37首が残るのみで,閲歴も不明。千葉県出身ともいわれている。
現在の千葉県山武郡の南半分を古来より山辺郡いわれており、その為、現在の山武郡大網白里町の北西部から東金市の南西部付近に山部赤人出生地の伝説が存在するのである。
江戸川にそそぐ真間川をたどり、手児名霊堂近くに来ると、この手児名橋がある。
この橋の下のテラス壁面に、レリーフの絵とともに、手児奈ゆかりの万葉集2首の陶板が設置されており、これはその1首。