カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」68

2013年05月02日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 復活の第六主日 2013・5・5
 
「信仰の具体的な形」
信仰とはキリスト信者にとっても、具体的に信じるのはまず、自分の貴重な財産を安全な所、頼る所に預けることです。キリスト信者がもっている財産は命、自分の人生の目標、愛の事、平和な心です。その貴重なものはどんなところよりも、もっとも頼る神様に預け委ねます。そのような貴重なものは命である神様が確実に永遠に大切にしてくださいます。
信仰はしるしの中に、ある象徴的な深い意味を見いだします。つまり、秘跡のしるしを考えてみれば、洗礼の水、聖体のパンとブドウ酒、堅信式の油にそれを通してしるしの奥の意味をみるようになれば、より素晴らしいことを見いだせます。たとえば水は神様の命を例えたり、パンとブドウ酒がイエス様の体だったり、油の中に聖霊の力を見いだせます。秘跡のしるしと同じように、イエス様をしるしとして見れば神様の姿を見られます、命の神秘を見て神様の顔、そのみ旨を身近に見られるのです。人生の歩みには暗い所に信仰の目によって大きな光をも見いだせます。それに信じるのは頼れるもの中にお一人を選ぶことです。確かに完全に信用できるものはただお一人だけです。それはキリスト信者にとって神様だけです。そして信じるとはかならず何かを約束された人に頼ることです。確かに約束されるものは何人かいますが、しかし命をかけて十字架上で人の為に死んで、より大きな愛を示した方はただお一人だけです。それはイエス様です。そのイエス様がされたいくつかの約束は信じるべきではありませんか。その中で人の為に準備してくださった場所は天国にあるのです。だから信じるとは、約束されて行くべき場所が必ずあると思うことで、そしてその場所にまだ行かない内にも、そこにいつか必ず行けることを思うことです。信じるとは頼る人の言葉に耳を傾けて、受け入れて、おっしゃることも素直に実行することです。信仰を持つと言うのはいつも人間の自由を含んでいますから、否定的な答えも見通しています。だから信じるのは強制的なことではなく、最終的に人間の心の自由によって決めることが出来ます。確かに選ばれた信仰によってその通り生きるのは前提であり、信じたことの通りを行うべきだと思います。信じた通りに生きるように決めるのは欠かせないことです。

モヨリ神父