カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間二十六主日

2010年09月24日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「しばしば愛情深い心の動きをもって、短くても、神のことを考えなさい。」
聖フランシスコ・サレシオ

9月23日ごろ、春分と同じく昼夜の時間がほぼ同じで、秋の彼岸です。先祖を敬い、亡くなった人の霊魂を偲ぶ日です。このころ辺りに咲いている曼珠沙華は彼岸花、死人花、捨子花などの異名をもち、かつては飢饉の際の食用としました。畑の畔道や墓地など人里に、あれよあれよという間に鮮やかな赤を走らせます。山鹿市菊鹿町の番所棚などが名所です。また唐黍(とうきび)は「とうもろこし」ともいい、広く栽培されて、小麦、米とともに世界三大穀物の一つであったが、現在は食糧としてより、ポップコーンなどの菓子の原料、コーンスープなどの食材として利用されることが多い。
さて、キリスト信者の心には欠かせない特徴があります。それは聞く心です。自分の心、自分の体全体を耳にすることです。耳を傾けて神様が話される声を聞いています。有名な神学者もキリスト信者をみ言葉を聞く人とよんでいます。神様はそよ風の中で話してくださり、嵐の中でも預言者の時代のように話されます。モーセに茨のやぶの中から話されました。サムエルは夜中に夢の中で神様から呼ばれました。聖書の中に神様がしばしば雲の中から話される場面があります。神様は人の心の沈黙の中でも話されています。イエス様が神様の言葉になって山から話しかけられたり、小さい船からでも群衆に話されていました。洗礼者ヨハネは声として言葉であるイエス様に耳を傾けるように、自分の命を掛けて勧めました。小さいものたち、貧しいものたち、病者の中に宿るイエス様が、このような人々を通しても話してくださいます。キリスト信者はこのような不思議な、神秘的な言葉に一生耳を傾けています。その中に人生の喜び、幸せ、救いが含まれているからです。
ルカによる福音書 16・19-31
聖書によると富はむしろ人の心を縛る枷であり、人の目も暗くして、神様のこと、他人のことも見えなくします。また神様の言葉も聞こえなくなるのです。このような心を持った人は貧しい人、弱い人を差別し、神様から見捨てられています。富にとらわれた人は心がかたくなで慈しみと憐れみのない人になります。預言者の言葉を通して、富のためだけしか生きていない人達を、神様が厳しく裁かれていることで明らかです。当ルカの福音書の例え話で注目するところは、貧しい人には名前があります、金持ちには名前はありません。貧しい人はできものだらけのけがれた者で、犬がそのできものをなめています。しかし例え話の中心になるのは死後に起こることです。隣人のことを完全に見えなくなった金持ちは地獄に落ちて、貧しい人はアブラハムのふところに受け入れられています。当福音書はあくまでも例え話です。死後、正確に何が起こるか誰も知りません、しかし例え話は死後、生きていた通りに報われることになると言っています。とうとう金持ちは自分の兄弟について心配しはじめます。アブラハムの答えは、ラザロは助けに行けないが預言者を通して宣べられた神様のみ言葉を聞くべきだと告げています。最後に例え話が強調するのは、神様のみ言葉を聞き、心を変える、その言葉の力を受け入れる人だけが神様を見、神様に従う、隣人を愛するということです。自分の心が縛られることなく富から自由になることによって、素晴らし天上の音楽を聞くことになります。それはわたし達の救いの歴史の歌です。
                               モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社、2007~)より一部引用。