MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯847 日本人は議論が苦手

2017年08月06日 | ニュース


 安倍首相が都議選の最終日に街頭演説で発した「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです。」という発言が、メディアなどで大きく取り上げられました。

 人生では当然「勝ち・負け」を競う場面は数多くありますから、その言葉自体に大きな問題はないような気もします。しかし、場面を言論の世界に限定すれば、そこに求められているのは「より良い結論」を導くことであって、「どちらかが正しく」「どちらかが間違っている」というような正邪二元論の下で勝ち負けを競うことではないでしょう。

 「安倍、帰れ!」と自由な議論を封殺しようとする人たちと、彼らを「こんな人たち」と呼んで頭から否定し排除しようとする政治家。

 お互いに柔軟性を欠いたまま、こうして議論を「敵」と「味方」の戦いとして認識してしまうのは、「個人」よりも「所属」を大切にする(ある意味)日本人の性(さが)と言ってもいいかもしれません。

 異なる意見から新しい「何か」を生み出す建設的な議論は、一体どうしたらできるのか?

 8月3日のTHE HUFFINGTON POSTには、フリーライターの雨宮紫苑(あめみや・しおん)氏が、『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ』と題する興味深い論評を寄せています。

 「日本人は議論が苦手だ」と言われるが、その理由としては協調を重んじる気質や自分の意見を言うのが苦手な日本人の国民性が挙げられることが多いと、雨宮氏はこの論評で指摘しています。

 しかし、理由はそれだけではないのではないか。そもそも日本人は、議論を通じて「対話」するのが苦手なのではないかというのが、この問題に対する氏の基本的な認識です。

 例えば、彼女の記事に対する(ネット上の)反応を見ても、賛同意見では「共感した」「その通り」といったコメントが多い一方で、反論意見の大半には「どうせコイツは…」といった人格への攻撃が伴っているということです。

 雨宮氏は、こうして「ちがう意見=敵」と思ってしまうところに、「日本人は議論ができない」と言われる大きな原因があるのではないかと説明しています。

 当然、「意見への賛否」と「人間性」は分けて考える必要がある。仲がいい友人でも驚くほど考え方が違う場合もあるし、逆に考え方は似ていても好きになれない人だっている。

 しかし、それでも日本では意見の賛否と人間性を切り離せない人が多く、話し合いの場でも感情が重視される場面が数多く見受けられると雨宮苑氏は言います。

 実際、「○○さんは不倫をする不誠実な人なので、その意見は信用できない」とか、「そういう言い方をすると傷つきます」といった、本題に全く関係ない、客観的根拠もないが情に訴えるといった姿勢で話し合いに臨む人も少なくないとうことです。

 雨宮氏は、日本人がこのように議論に感情を優先させる背景に、日本独特の「空気を読む」などといった(いわゆる)同調圧力の存在を見ています。

 集団内の全員の考えが同じであることを正しい姿と見なして、同じ考えの者同士が徒党を組んで異なる意見の者を攻撃する。皆が賛成なのに反対する「空気が読めない輩」は、異端視され、厄介者扱いされるということです。

 意見がちがう人を集団の和を乱す「敵」とみなす思考回路の下では、敵には容赦なく攻撃するし、「自分が正しいから相手は間違えている」という極論に走るようになると雨宮氏は説明します。

 「意見がちがう人=敵」だと考えている限り、双方の意見はひたすら平行線をたどるし、議論ではなくただの意見の押し付け合いになる。白黒はっきり決められるテーマならそれもありかもしれないが、現代社会で話し合われる多くの問題はそうシンプルなものばかりではない。

 そして、確実な正解が存在しない以上、議論を通じて、多角的な視点から「より正しい答え」を導くことが求められるということです。

 氏は、「より正しい答え」を導くには、数学と同じように「正解へいたるプロセス」があるとしています。

 まずしなくてはいけないのは、議論の目的を共通認識として持つこと。全員が「意見を出し合って対話することが目的」と理解することによって、はじめて議論が成り立つということです。

 日本では、特にこういった議論の技術を習う機会がないので誤解されがちだが、「論破や勝ち負けが目的ではなく意見を通じた対話こそが大事なのだ」と考えれば、関係のない人格攻撃や揚げ足取り、詭弁がいかに無駄で邪魔かわかるはずだと雨宮氏は指摘しています。

 氏によれば、「目的の共有」の次に来るステップは、「事実」と「テーマの本質」の共有だということです。

 「Aにすべき」「すべきではない」という真っ向から対立した意見をぶつけ合ってても「正解」は見えてこない。同じ土俵で話し合うためにはまず客観的事実を共有し、どこに議題の本質があるのかを探ることが不可欠となるということです。

 残念ながら、日本の議論では(大概)こういう「整理されたプロセス」がないため、無茶苦茶な言い分が飛び交ったり、感情論に流されたりしてしまうと雨宮氏はしています。

 議論は、物事の理解を深化させ、より確からしい解を求めるために必要な作業であることは言うまでもありません。

 経験がもたらす思考の土壌や知識の傾向や水準が異なる人々の間で、意見が異なるのは当然のこと。議論で大事なのは、相手を論破することではなく、テーマに対して多くの知恵を持ち寄り、「より正しい答え」を模索することだということです。

 グローバル化が進む世界では特に、自分の意見を述べて相手の意見を聞き、「より正しい答え」を構築する対話能力は必須になると雨宮氏も指摘しています。

 (そうした視点から)まともに議論できる人が増えれば日本はもっと意見を言い易いオープンな社会になり、(社会環境に見合った)多様性が認められるようになるのではないかとこの論評を結ぶ紫苑氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。




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