MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2225 銃撃事件の捜査と政治への波紋

2022年08月10日 | 社会・経済

 安倍晋三元首相の銃撃事件で逮捕された山上徹也容疑者が、「犯行の動機」として供述している(と伝えられる)のが、宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」への激しい恨みです。

 報道によれば、山上容疑者には母親が同団体にのめり込み多額の献金をしたことで家庭が崩壊したという過去があり、同団体のトップを殺害しようとしたがそれが困難だったため、同団体とつながりがある(と思えた)安倍氏を襲撃したと供述しているということです。

 正直、(世界を揺るがすこととなった)日本の総理大臣経験者暗殺の理由が「宗教団体トップへの復讐が難しそうだったから(簡単そうな安倍さんにした)…」と言われても、いまひとつ説得力に欠けるというか、かなり飛躍した感覚のようにも思えます。しかし、もしも彼の犯行動機が「同団体の悪行を暴いてほしい」「人生を台無しにした同団体を告発したい」というのもであったとすれば、その目的は(一定程度)果たせたと言えるのかもしれません。

 実際、事件から1カ月を経て、これまでの同団体の活動実態は多くの日本人の知るところとなっています。また、自民党を中心とする保守系政治家と旧統一教会との関係についても連日、メディアで大きく取り上げられるようになっており、野党からの追及などもあって、今後国会の場で様々に議論されることでしょう。

 しかしその一方で、(事件を契機に)政治と旧統一教会との関係を厳しく追及する野党やメディアの姿勢に対しては、「安倍元首相を殺害した犯人の思う壺にしてはならない」という意見もあるようです。

 元自民党副総裁の高村正彦氏は、過去に、統一教会の訴訟代理人を務めたことについて週刊文春の取材を受け、「この事件で統一教会が取り上げられることは、テロをやった人の思う壺なので正しいとは思えない」と発言した(週刊文春7月28日号)と伝えられています。

 実際、報道の過熱とともに、ネットなどには山上容疑者の厳しい生育環境に対して「同情」の目を向ける声も上がっており、旧統一教会と安倍派を中心とした自民党幹部とのズブズブの関係が明らかにされるにつれ、(「自業自得」といった)不謹慎な声も聴かれるようになっています。

 もとより、どのような理由があったとしても、(この法治国家日本において)暴力という手段を使って自身の目的を達しようという行為が許されないのは自明です。しかし、だからといって、容疑者が犯行に及ぶに至った事件の動機や背景から目を背けることは果たして適当と言えるのか。

 8月7日のYahoo newsに、元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎氏が、『“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り』と題する論考を寄せているので、ここで紹介しておきたいと思います。

 安倍晋三元首相銃撃事件の容疑者山上徹也は、旧統一教会という組織に対して恨みを抱き、最も影響力の大きい「旧統一教会の関係者」である安倍元首相を殺害することによって、その悪事を社会に晒したいという目的で犯行に及んだとみられると、郷原氏はこの論考に記しています。

 現在、容疑者の犯行動機に関する供述を裏付ける事実があったのかどうか、つまり、「旧統一教会」の山上容疑者自身やその家族に対する「悪事」が実際にあったのか、それがどの程度のものだったのか、捜査によって解明が進められている。

 そうした中で、安倍氏が連団体の国際行事に動画メッセージを送った事実や、その背景にあった旧統一教会と安倍氏との関係も、容疑者が安倍氏に殺意を向けたことの裏付け捜査の対象となるのは当然だというのが氏の見解です。

 これらが事件の捜査で解明されていくだけでなく、それらに関連する事実が社会の関心事として報道されるのも、事件の社会的、政治的重大性を考えれば当たり前のことだと氏はしています。

 一部には、「旧統一教会と安倍氏のとの関わりは犯行と直接関係がない」「旧統一教会と政治との関係に固執するのは犯人の思う壺」として、捜査や報道の方向に疑問を呈する意見も聞く。しかし、事件の真相を究明するためにも(こうしたことは)必要な作業だというのが氏の指摘するところです。

 山上容疑者の犯行の目的は単に「恨みを晴らす」ことだけではなく、「最も政治的影響力が大きい旧統一教会のシンパであった安倍元首相」を殺害することで、社会の関心を旧統一教会の反社会性と、それを支える自民党議員との関係に向けようとする「告発的動機」もあったはずだと郷原氏はこの論考に綴っています。

 また、実際、事件を機にこの問題はマスコミ等で大きく取り上げられ、容疑者は相当程度目的を実現しているということです。

 「犯人の思う壺」といった議論は、このような「告発的動機」の目的が達成されることを問題にしているように思えるが、その点について犯人の意図するとおりの結果になったからと言って、犯行自体が正当化されるわけではないし、処罰が軽減されるわけでもないと郷原氏は言います。

 問題は、山上容疑者が行った「告発」を契機として、そのような問題を、社会がどう受け止め、どう扱うか、それらについてどう判断すべきかというところにある。容疑者の裁判に当たって社会が納得できる判決を導くためには、一連の真実の究明は避けては通れない道だということでしょう。

 実際、旧統一教会の欺罔的な入信勧誘や多額の献金要請などが反社会的なものとして報じられていることや、自民党議員への選挙協力などの報道内容が事実に反しているとか評価が間違っているというのであれば、その誤りを指摘し反論すればよいだけのことだと郷原氏は話しています。

 捜査に求められているのは、忖度なく関連する事実の関係を明らかにすること。現時点で旧統一教会と国会議員との関係を取り上げること自体を躊躇する必要はないし、山上容疑者の意図を実現し、「犯人の思う壺」になることを理由に差し控える理由も全くないとこの論考を結ぶ郷原氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿