MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2640 なぜ五輪出場を「辞退」しなければならなかったのか

2024年09月20日 | スポーツ

 日本選手団の活躍により、メダル獲得数が海外で開催された五輪では過去最多となったパリ五輪。スケートボードやフェンシング、レスリングなどの競技が日本人メダリストの誕生によって注目される中、サッカーやバスケットボールなど、結果として期待に応えられなかった競技も見受けられました。

 選手個人に対しても、柔道の阿部詩選手やバレーボール男子代表など、期待された結果を残せなかった選手に対するSNSにおける匿名の誹謗中傷が相次ぎ、日本オリンピック委員会(JOC)が「警察への通報や法的措置も検討する」と声明を発表する事態もあったと聞きます。

 お隣の韓国には「川に落ちた犬は棒で叩け」という諺があるようですが、人間の心のどこかには、傷ついた人間をさらに追い込んで苦しませることで憂さを晴らすサディススティックな感情が、(いつの時代も)あるということなのでしょうか。

 そういえば、(皆すっかり忘れているようなのですが)オリンピックの開会式直前に日本体操女子のエース的存在であった宮田笙子選手が、飲酒と喫煙によって代表を辞退するというハプニングが話題となりました。

 19歳の彼女が飲酒と喫煙の事実により五輪代表でいられなくなったことについて、「当然」とみる向きも、「厳しすぎる」とみる向きもある中、結果的として「辞退」というよくわからない(ある意味日本的な)結論で幕引きが図られたことに対し、何となく釈然としたしない気持ちになったのは私だけではないでしょう。

 もとより、19歳の大学一年生が、新勧コンパで酒や煙草を覚えるなどというのは世間一般には「よくあること」。法律違反とはいえ人に迷惑をかけているわけでもなし、正義を振りかざす(無関係な)人々から「甘すぎる」と厳しい非難を受けることを恐れる競技団体の、「大人の都合」のとばっちりと勘繰られても仕方のないところかもしれません。

 日本スポーツ界のこうした問題処理の仕方に対し、現実主義的なリバタリアンとして知られる作家の橘玲氏が『週刊プレイボーイ』誌(8月5日号)のコラムに、「体操選手のオリンピック辞退と老人支配社会・日本の絶望」と題する一文を寄せているので参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 体操女子のパリ五輪日本代表で主将だった19歳の選手が、飲酒と喫煙によって出場を辞退した。この問題を考えるにはまず、飲酒や喫煙が法によってどのように定められているかを確認しておく必要があると、橘氏はこのコラムに記しています。

 氏によれば、日本では20歳未満の飲酒/喫煙は禁止されているが、これはあくまで青少年の健全育成を目的とするためのもので、違反しても「罰則」はない(注:酒やタバコを行政処分によって没収することは認められている)とのこと。さらに、成人年齢が18歳に引き下げられたことで、これまで親権者や監督者に課されていた飲酒・喫煙を制止する義務もなくなった(平成30年6月20日警察庁生活安全局長通達)ということです。

 そうなると、罰則として残るのは、20歳以下に酒やタバコを販売した者へのものだけ。これを簡単にいうと、18歳以上の者が飲酒・喫煙していたときに、「法律で禁じられている」と諭すことはできても、「そんなの勝手でしょ」といわれればそれで終わり…というのが日本国の法律の規定だと氏は言います。

 団体や法人には独自のルールを設定することが認められているが、それはあくまでも法の範囲内に留めるべきなのは自明のこと。選手に対して飲酒・喫煙を禁じることはできるとしても、法律の目的は「健康被害防止及び非行防止」であって違反者を処罰することではないというのが氏の認識です。

 だとすれば、オリンピック出場を辞退させるという今回の処分はあまりに重すぎるのではないか…これが、国内に広く議論を引き起こした理由だろうと氏はしています。

 実際、選手が所属する大学は、「教育的配慮の点から、常習性のない喫煙であれば、本人の真摯な反省を前提に十分な教育的指導をした上で、オリンピックに出場することもあり得ると考えていました」という声明を発表。これに対してSNSでは、「あまりに的外れ」など炎上の様相を示したが、法の趣旨を考えれば大学の主張のほうが正論に思えるというのが本件に対する氏の感想です。

 仮に(彼女に)常習性があったとしても、飲酒・喫煙などの依存症は治療・支援の対象というのがいまの常識ではないか。そして、(それにもまして)違和感を覚えるのは、日本体操協会が自ら選手を処分するのではなく、合宿中のモナコから日本に帰国させたうえで、出場を辞退させたことだと氏は続けます。

 これでは、週刊誌にスキャンダルが掲載され、ネットの炎上の標的になることを恐れて、選手が自らの意思で辞退したように見せかけたと思われても仕方ないと氏は話しています。

 リベラリズムの原則は、「他者に危害を加えないかぎり、個人の自由に介入してはならない」のはず。それなのに、「リベラル」を自称するメディアでさえ、「規則を守るのは当然」として過剰な道徳を強要し、これまでの努力をすべて奪う暴挙を批判しなかったということです。

 (日本の置かれている状況を象徴するもののひとつとして)氏はここで、出場辞退を謝罪する記者会見の様子を挙げています。全国のモラルの高い人々に対し、頭を下げる日本体操協会の幹部は全員が中高年の男性だった由。選手の行動とは直接関係のない(偉い)人たちが、なぜか頭を下げている姿だということです。

 人類史上未曾有の超高齢社会に突入した日本では、若者は「高齢者に押しつぶされる」という強い不安を抱えていると氏は指摘しています。いまや日本の“マイノリティ”になった若者たち。彼らの目には、この光景が「頑張っている19歳を、年寄りが保身のために叩きつぶした」と映り、老人支配社会・日本にさらに絶望しているのではないかとコラムを結ぶ橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。