MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2559 健康長寿と医療の在り方

2024年03月20日 | 医療

 少子高齢化の進展に伴い、膨張が続く国民医療費と医療保険の保険料。この10年余りで(現役世代)1人当たりの負担額は4割増加し、年30万円を超えるようになったと日本経済新聞が伝えています。(「医療保険、現役負担4割増 10年超で膨張」2023.9.15)

 世界でも評価の高い日本の皆保険制度。全体で見れば、年間40兆円を超える国民医療費の約1割を患者が窓口で支払い、4割を国や地方が負担、残りの5割を保険料で賄っています。

 記事によれば、そうした中35~39歳の医療保険料が09年度から20年度の10年間で41%増加し、21.8万円だった1人当たりの年間保険料は2020年度には30.8万円にまで膨らんだということです。

 病気にかかるリスクは年齢を重ねるほど増えていく。後期高齢者の1人当たり医療費は年90万円ほどで、65歳未満の5倍近いと記事はしています。生活習慣病による入院治療の機会なども増え、高度・高額な医療のお世話になりやすいということでしょう。

 とは言え、個々の高齢者と医療機関との関係で言えば、医療費の増加はそうした生死にかかわるような場面で生まれるものばかりでもなさそうです。

 高齢者になると、若いころと違ってあちこち調子の悪いところが出てくるのは当然のこと。「ちょっと眩暈がする」などと言って近所のクリニックに足を運べば、「血圧が少し高いですねぇ」とか「夜眠れていますか?」などと言われ、「じゃ、ひととおり検査しますね」とか「お薬を出しておきましょう」という話になって、気が付けばなんか病人になったような気がしてきてしまうものです。

 「人生100年」とも言われるこの時代を、心身ともに健康で生き抜くためには一体どうすれば良いのか。昨年12月30日の経済情報サイト『PRESIDENT Online』に、精神科医で作家の和田秀樹氏が『医者いらずのほうが確実に長生きできる』と題するブラックジョークのような一文を寄せていたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「医療行為をしないほうが死ぬ人は減る」と聞けば、「そんなことはないだろうと」と反発される向きも多いかもしれないが、実際この日本でも、医者いらずのほうが寿命が延びた例があると、和田氏はこの論考に記しています。

 氏によれば、有名な例としてしばしば挙げられるのが、「夕張パラドックス」というもの。2006年、北海道の夕張市が財政破綻し、市民病院が廃止になり、19床の診療所となったため、夕張市民たちが病院で医療行為を受ける回数が格段に減った。しかし、こうした状況の中、夕張市ではがんで死ぬ人と心臓病で死ぬ人、脳卒中で死ぬ人の数がすべて減り、老衰で死ぬ人の数だけが増えたと氏は話しています。

 また、近年のコロナ禍においても、新型コロナウイルス感染症が日本にやってきた最初の年である2020年、実は日本全体の死者数が驚くほどに減ったという状況に驚かされた関係者は多いとのこと。コロナによって通常の医療が制限を受ける中、一方で(医療行為をしなかったゆえに)病気で死亡者数が減るという不思議な現象が生まれていたということです。

 2020年は死亡数が約138万人で死亡数は11年ぶりに減少。本来、少子高齢化が進んでいるため死者数は毎年増えるはずなのに、2020年は前年より死者数が約9000人も減ったと氏は説明しています。

 普通に考えれば、コロナ禍によって人がバタバタと亡くなっていったと思いがちだが、コロナが流行ったせいで(この間)医療機関に行かなくなった患者がものすごく増えた。その後の2021年と2022年は史上最大の死者数を更新したが、これは、以前と同じように医者の治療を受けていたら死んでいた人たちが、一年間寿命が延びた結果だと考えれば十分に説明がつくということです。

 そして、この間のもう一つの特徴は老衰が大幅に増えていることだと氏はしています。これも「医者に行かなければ、病気で死なないで自然に死ぬことができる」ということの証左となるということです。

 言葉は悪いですが、朝早くからせっせと病院に足を運び、あそこが痛い、ここが調子悪いと(まるで自慢をするように)訴えるお年寄りたちが多いことに、確かに違和感を感じないわけではありません。

 病は患者と医者が作り出すもの。医者が無理やり病気をつくった結果、本来は治療しなくてもよい人が治療する羽目に陥っているケースが驚くほど多いことが、これらの事例からわかると話す和田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2538 人生の最期をどこで迎えるか

2024年02月04日 | 医療

 2020年の1年間に国内で亡くなった人のうち、自宅で最期を迎えた(いわゆる)「在宅死」の割合は15.7%とのこと。死亡者全体の約7割が病院のベッドの上で亡くなっており、在宅死はだいたい7人に1人程度と、思いのほか少ないことが判ります。

 一方、厚生労働省が2017年に実施した「人生の最終段階における医療に関する意識調査」では、「あなたが末期がんの患者であると仮定して、どこで最期を迎えることを希望しますか?」との質問に対し、回答者の約7割(69.2%)が「自宅」と回答しています。

 その理由は、「住み慣れた場所で最期を迎えたいから」が71.9%、「最期まで自分らしく好きなように過ごしたいから」が62.5%、「家族等との時間を多くしたいから」が50.7%とのこと。多くの人が住み慣れた場所で自分らしく最期を迎えたいと考えている現実がある一方で、理想と現実との間には少なからぬギャップがあることも見て取れます。

 とは言え、見送る側の立場に立てば、(例え配偶者や親兄弟とはいえ)寝たきりになった人や認知症の人などの介護はそんなに甘いものではないのも事実です。どんな状態で、いつまで続けなければいけないのか。まるで「出口の見えないトンネル」の中にいるようだという話も、しばしば耳にするところです。

 高齢化社会の進展とともに、顕在化する介護の問題。12月21日の情報サイト『日刊ゲンダイDIGITAL』に、医師で作家の和田秀樹氏が『「在宅死」を勧める政府にダマされない 介護施設の選択が決して悪くないと言える理由』と題する論考を寄せているので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 介護が必要で自宅で世話をし切れないケースについては、1990年代半ばまでは入院が当たり前。「社会的入院」などと呼ばれたように、それほど重い病気がなくても(当時位は)亡くなるまでの入院が可能で、実質的な介護は病院が担ってくれていたと和田氏はこの論考に綴っています。

 しかし、そんな状況に、①高齢化の進展や②医療財政の逼迫、③不要な治療で高齢者を食い物にする悪徳病院の摘発…等々が重なって、社会的入院は医療費の無駄遣いと非難の対象になった。長期入院は保険点数が削減され、入院はなるべく短期化。さらに、「介護療養型医療施設」と呼ばれた従来型の老人病院なども、今年度末には完全廃止が決まっているということです。

 一般に、高齢者を介護施設で介護するより自宅での介護の方が医療費や介護費用は安くて済むため、公的な財政の負担は軽くなる。そこで政府は、在宅介護と在宅看取りを混同させるような「在宅死」という(曖昧な)言葉を生み出し、財政負担の軽い在宅介護の流れをつくっているというのが、現在の状況に対する氏の認識です。

 実際、そんな思惑もあって、自宅での看取りを望む人は近年の調査では約8割に上っている。そして一部では、親を介護施設に預けることが悪いことのようなムードすら醸し出されているということです。

 しかし、本当にそれでよいのか。育ててもらったことへの責任感や義理で介護を引き受けて在宅介護に向かうことは、避けるべきだと氏はここで指摘しています。

 認知症などの症状が軽いうちは何とかなっても、重症化すると責任感や感情では親を支え切れないことが多い。親の介護は、子どもひとりで抱え込めるほど甘くなく、介護離職や介護うつ、虐待、ときには殺人という最悪の結末さえも生む要因となっているということです。

 一般論で言えば、介護が大好きで、なおかつ兄弟や姉妹もいて、介護の負担を分散できるケースならまだしも、そうでなければ介護施設を利用することは決して悪くない選択だと氏はこの論考に記しています。

 配偶者や子どもを含め、家族でしっかりと話し合った上で、終の棲家としての介護施設の利用を検討すること。そしてそれが決まったら、なるべく元気なうちに、認知症なら症状が軽いうちに情報収集を丁寧に行い、体験入居をしておくことが大切だと氏はしています。

 一口に介護施設といっても、運営主体や入居条件、介護の中身、そして費用など全て異なるもの。病院で最期を迎えるのが嫌で施設を選択したのに、その中には入居者の状態が悪くなるとほぼ問答無用に精神科病院に送るケースもある。これでは本末転倒、介護施設は玉石混交なので、入所前に入念なチェックが不可欠だということです。

 本人だって、家族に迷惑をかけたり気を使ったりする位なら、プロに身を任せ、設備の整った施設で暮らす方が(どれほどか)気が休まろうというもの。現代社会における「在宅死」「自宅で看取り」は、よほど恵まれた人でなければ望みえないものと考える和田氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2526 日本の医療を巡る構造的な問題

2024年01月08日 | 医療

 財務省と日本医師会の間で様々な議論が繰り返されていた2024年度の診療報酬を巡る問題。(鈴木俊一財務相と武見敬三厚生労働相の閣僚折衝を経て)医療従事者の人件費などに充てられる「本体」を0.88%引き上げる一方で医薬品の公定価格の「薬価」を引き下げ、全体で0.12%のマイナス改定で決着を見たようです。

 引き上げの内訳は、医療従事者の賃上げに0.89%程度、医療の質の向上などに0.18%、さらに入院患者の食費の引き上げに0.06%をあてる一方で、生活習慣病への加算を見直すなど報酬の適正化で0.25%引き下げるとのこと。賃上げについては、看護師などの「コメディカル」にほか、40歳未満の勤務医なども対象となるとされています。

 結果、5%以上の引き下げ余地があるとして議論に望んだ財務省に対し、医師会側がその政治力で一方的に寄り切る形で終りましたが、積みあがる医療費と国民の保険料負担を考えれば、診療報酬の在り方自体「これでよかった」とはなかなか言えない現状も見えてきます。

 12月21日の経済情報サイト「PRESIDENT Online」に、南日本ヘルスリサーチラボ代表で医師の森田洋之氏が、『やっぱり日本の医療は「儲けすぎ」である…現役医師が「医療はもっと身を切る改革に挑むべき」というワケ』と題する(結構)ストレートな内容の論考を寄せていたので、参考までに一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「儲けすぎ」などと揶揄されることの多い医療だが、実はほとんどの医療行為の対価(診療報酬)は医療機関が自由に決めることが出来ない。それは、それぞれの医療行為ごとに一定の診療報酬価格が国で定められているからだと、森田氏はこの論考の冒頭に記しています。

 その診療報酬は2年に一度改定されることになっており、来年がその改定時期なのだが、今回はなんと(医療機関は儲けすぎだとして)財務省が5.5%もの引き下げを要請した。勿論、これを受けて医師会や医療業界は猛反発。「コロナ診療で踏ん張ってきた医療業界にムチを打つのか?」「現在でも医療機関は限界。つぶれる病院も出てくる」など、批判が相次いだということです。

 一方、(皆が知るように)国の医療費はうなぎ上り。それを支えるのは国民が負担する社会保険料や税金なのだが、当然ながらそちらも増額の一途をたどっている。しかしそれでも、個人としては、少なくとも診療報酬改定にはそんなに大きな意味はないと考えていると氏はこの論考で話しています。

 あまり知られていないが、日本は人口あたりの病床数も、病院受診数も世界のトップである。日本人は、人口あたりアメリカ人の5倍入院し、3倍外来受診している。簡単に言えば、入院でも外来でも、日本人は先進国の数倍、すなわち「世界一の量」の医療を受けていると氏は言います。

 勿論、日本人はそんなに大量の医療に頼らなければならないほど不健康なのかと言えば、そんなことがあるはずもない。日本人は肥満率も低いし、食事も健康的。平均寿命も世界トップレベルを維持し続けているが、それにもかかわらず必要以上の医療を受けているのが現実だということです。

 それでは、なぜこんな事になっているのか?そこには医療の世界ならではの2つの理由があると氏は説明しています。

 入院や外来受診頻度の決定権は多くの場合「医師の側」にある。つまり、医療というサービス商品は、どれだけ売るか、を「売る側」が決めている商品だというのが氏の認識です。

 一般的な商品であれば、そこで経済的要因がブレーキになる。いくら売り手にすすめられても、価格が高ければ消費者側は躊躇するのが普通だが、医療の世界ではその機能はほぼ役に立たないと氏は言います。

 なぜならそこには、「健康保険」という大きな補助があるから。特に高齢者の場合、自己負担は(たったの)1割しかない。例えて言うなら、これは5000円のフランス料理を500円で食べられるようなもの。しかも、そのフランス料理を食べる頻度は、あろうことかフランス料理店が決めているようなものだということです。

 特に、今の日本で行われている医療の大半は、高齢者を対象とした「慢性期医療」によって占められている。血圧・糖尿・コレステロールの管理が本当にそこまで必要なのか疑問だが、現状、多くの患者がこれを理由に毎月受診するよう指示されていると氏は話しています。言うなれば、これぞまさに「サブスク医療」そのもの。そこでは「売りたい放題」の世界観が蔓延しているというのが氏の指摘するところです。

 世界から見ると、日本人の外来受診数と入院数は異常なほどに多い。あまりに多すぎて、OECDの統計担当がにわかには信じられず、一時OECDの統計から外されたほどの「異常値」だと氏は話しています。

 これほどまでにガラパゴス化してしまった日本の医療の実態があるのに、日本人のほとんどがそれを認識していない。日本人は病院が経営のために広告まで使って患者を集めることに何の違和感も感じていないが、それは世界標準ではありえない話だということです。

 留置場を満員にしないと経営が成り立たないから…と言って犯罪者を作り出す警察があったら恐ろしい話だが、医療では同じようなことが何の疑問もなく続けられている。それも(あたかも)市民のためと言わんばかりの善人面で行われていると、氏は厳しく指摘しています。

 必要なのは、このガラパゴスの実態を知り、国民全体で問題意識を共有すること。診療報酬の上下や、それに対する医師会などの各業界団体の反応といった、表面的なニュースが世間をにぎわしているが、こうした医療システムの根本的課題をしっかり捉えてゆくことこそが、本当の課題解決に向かう道だと話す森田氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2509 「医師不足」は本当か?②

2023年12月08日 | 医療

 「朝から少し具合が悪い」「ちょっと気になるところがある」と思っても、長い待ち時間を考えると躊躇してしまうのが病院の外来受診です。「3時間待ちの3分診療」という言葉が示すように、具合が悪い状態で長時間待たされるのはホント勘弁してほしいと感じたことがあるのは私だけではないでしょう。

 (少し前のデータですが)厚生労働省が実施した「平成29年度受療行動調査」によれば、外来患者の診察等までの待ち時間は「15分未満」が26.1%で最も多く、次いで「15分~30分未満」が23.1%、「30分~1時間未満」が20.4%とのこと。一方、1時間以上は残りの約3割となり、「案外待たされていないな」という気がしないでもありません。

 しかし、このデータが病院側の報告に基づくことや、病床数100~499床の中規模病院では1時間以上の待ち時間となる場合が32.5%、500床以上の大規模病院では33.5%と病院の規模が大きいほど待ち時間が長くなる傾向があることなどを考えれば、病院がそんなに患者フレンドリーになっているわけでもないようです。

 そうした病院に行って感じるのは、やはり医師の皆さんが皆忙しそうなこと。大学医学部入学定員の拡大が続き医師の数は増え続けていると言われますが、どこの病院に行っても若い勤務医の皆さんに総じて余裕は感じられません。

 高齢化が進む中、地域医療のひっ迫を踏まえ医師不足が言われることの多い昨今ですが、本当に医師は不足しているのか。不足しているなら、その原因はどこにあるのか。9月4日の日本経済新聞に社会保障エディターの前村聡氏が「『医師不足』は本当なの? 増えても地域・診療科に偏り」と題する一文を寄せていたので、参考までの本稿に残しておきたいと思います。

 2020年末時点で医療施設で働く医師数は32万3700人。10年前から約4万人増え、人口10万人当たりで見れば40年前の約2倍、経済協力開発機構(OECD)の加盟国とほぼ肩を並べたと前村氏はこの論考に記しています。

 それでも医師不足が叫ばれるのは、増えた医師の勤務地が偏っているから。特に、患者数が多い都市部と入院ベッド(病床)が多い西日本に医師が集まっており、例えば最多の徳島県と最少の埼玉県では2倍近い差があるというのが氏の指摘するところです。

 政府は、地方の医師を増やそうと1973年に全都道府県に医学部を置く構想を閣議決定し定員を増やした。しかし、競争の激化を恐れる日本医師会の声に押され、82年以降は抑制に転じたと前村氏はしています。

 これにより地域差は深刻となり、2006年に政府は不足県の医学部に対して、同じ県内で一定期間働けば奨学金の返還を免除する「地域枠」を拡大した。これには一定の効果があったが、いまだ偏りの是正には至っていないというのが氏の認識です。

 一方、ここ10年では東京23区内で美容外科、皮膚科、精神科の診療所が急増しているとのこと。これらの診療科では入院患者や急患に対応する勤務医や在宅患者を担当する訪問診療医に比べ労働時間が短く、さらに自由診療を手掛ければ利益を大きくしやすいと前村氏は話しています。

 氏によれば、医師は医師免許さえあれば好きな場所に開業でき、掲げる診療科も原則自由とされているとのこと。そしてこれが原因となり、地域や診療科の偏在を生む主因になっているというのが氏の指摘するところです。医師養成や保険診療には高額な税金を投入している。であれば、職業の選択は自由だとしても、一定の制限を設けない限り偏りはなかなか解消しないというのがこの論考における氏の見解です。

 一方、医師が足りなければ増やせばよいというものでもない。医師が多くなりすぎると、全体の医療費が増える可能性があると前村氏はここで説明しています。本来(自由競争下)であれば、供給が増えれば価格は下がるもの。しかし、現状は保険診療制度の下で政府が価格(診療報酬)を決めており、単純な市場原理は働かないということです。

 さらに、長時間労働を規制する「働き方改革」にも(偏在是正の)効果が期待できるが、そもそも人材が適切に配置されないと競争が激化し、不要な医療の提供などで医療の質を低下させる恐れもあると氏はしています。

 そうした中、入院患者を診ることを主務とする病院は、病床数が増えすぎないよう(自治体が策定する地域医療計画などで)地域ごとに規制がある。しかし、主に外来患者を診る診療所なら(コンビニや喫茶店と同じで)自由に開業できると氏は説明しています。

 診療所はビルの一室でも営業できる。掲げる診療科も厚生労働省が認める診療科名であれば規制はなく、治療内容も患者に柔軟に対応できるよう医師の裁量が大きく認められているということです。

 医療資源は公共のもので、医師個人の自由な営業に任せていては住民の福祉に繋がらないと前村氏は考えています。

 英国では税金を財源とした国営システムで医療機関を地域の偏りが生じないよう計画的に整備しており、患者は登録した診療所で受診する制限があるとのこと。一方、ドイツやフランスでは社会保険によって医療を提供しているが、開業や患者の受診は自由だということです。

 医師の持つスキルは個人の財産として市場に任せるべきものか、それとも国民全治に共有される社会的な存在なのか。世の中の人々がすべからく健康で暮らしやすい世の中をつくるために、医療の在り方全体を見直す時期がきているのかなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。

 


#2508 「医師不足」は本当か?①

2023年12月06日 | 医療

 ここ数年のコロナ禍の下、様々な形でその限界が顕在化したのが日本の地域医療体制と言えるでしょう。発熱外来の設置の遅れ、重症化に対応できる病床の確保、医療従事者の疲弊など、(「高額」とされる国民医療費や「過多」とされてきた病床数にもかかわらず)各地で機能不全が露見したのは記憶に新しいところです。
 中でも、緊急時に対応できる医師の確保については、苦労した医療機関や自治体が多かったのは事実です。日本の医師不足の原因としてしばしば問題視されているのが、そもそも医師の数(絶対数)が不足しているという指摘です。
 確かに、各国の「人口当たり医師数(2019年)」を見ると、OECD加盟国の人口1000人当たり医師数が平均3.6人であるのに対し、日本は2.5人とかなり少なめです。国によって医療制度は違うため比較は難しいですが、この数値を見る限り、厳しい状態と言えるかもしれません。
 さらに、高度に専門化・分科化した現在の医療体制の下、診療科による偏在や地域による偏在も拡大し続けているとされ、訴訟リスクや労働環境の悪化などとも相まって現場の医師の負担の増大が指摘されている事態となっています。
 折しも人口構成の高齢化の急激な進展により入院患者の増大が顕著になる中、病院内で少ない数の医師が入院患者の対応に追われる一方で、人口の減り始めた地方部に次々と診療所が新設されている現状があると、10月26日の日本経済新聞は伝えています。
 新型コロナウイルス感染症への対応を巡り、多くの病院で医師や看護師が足りず、入院が必要な患者を受け入れきれなかった。それは一体なぜなのか?
 実のところ、効率よく治療を行うためには、一定規模以上の大病院に人材を集める必要があると記事は説明しています。日本では小規模な病院が乱立し、医療従事者が薄く広く配置されている。こうした体制が、日本の医療の非効率化を招いているというのが記事の認識です。
 この状況は、コロナ禍が一定の落ち着きを見せた現在も続いている。人口減によって既に各地で患者は減り始めており、医療資源の偏在は一層の医療費のムダを招きかねない。そしてこの問題を象徴するのが、「余るベッド」と「足りない医師」だということです。
 急な病気やケガの入院患者を治療する「急性期病床」は2022年時点で全国に69.1万床。厚生労働省が16年度末時点で推計した25年の必要数は53.1万床だったので、2割強の15万床ほどが過剰になる恐れがあると記事はしています。病院は病床が減ると、手厚い診療報酬を得られなくなる。そのため経営の厳しい病院ほど、病床の削減に消極的にならざるを得ないということです。
 一方、医師数に関しては、経済協力開発機構(OECD)のデータで見ると、日本のいびつさが浮かぶと記事は言います。2020年時点の人口1000人あたりの医師数は日本が2.6人で米国の2.6人、英国の3.0人、フランスの3.2人とほぼ同水準にある。しかし、これを(病院の)病床100床あたりに直すと、日本は20.5人で125.1人いる英国の6分の1、病院1施設あたりでは39.7人で、ドイツの3分の1しかいないということです。
 日本は急性期医療の入院日数が欧米の2~3倍と長く、多くの病床に患者が長くとどまり、少数の医師が診療に追われるという構図にある。他の先進国並みにいる医師がこうして大病院で足りないのは、(ただでさえ)小さな病院の数が多いのに、その上多数の勤務医が独立し、診療所を開業しているためだというのが記事の指摘するところです。
 実際、診療所は2022年に(全国で)10万5182カ所。2012年から10年間で5%も増えていると記事はしています。新規の開設数を見ると、12年と13年は5000カ所程度で、その後は7000カ所程度で推移。21年は1995年以降で最多の9500カ所まで増えたということです。
 病院の勤務医が自由に独立開業することで、集約すべき人材が拡散していると記事は話しています。診療所にかかる患者は減少傾向にある。外来の患者数を示す受診延べ日数(歯科を除く)は22年度に11.9億日。コロナ禍での受診控えが響いた20年度の10.9億日からは増えたものの、19年度の12.2億日からは減り、人口減でさらに減少傾向が続く可能性が高いということです。
 こうした状況の中、増加が続くのが国民医療費。2022年度は46兆円でと21年度から4%増え、コロナ禍で受診控えなどがあった20年度は前年度から3.1%減ったものの、その後はコロナ禍前を上回る伸びが続いていると記事は指摘しています。
 2024年度に診療報酬改定に当たり、財務省は必要性の低い急性期病床を減らすため患者の重症度などをより反映した報酬体系にすべきと主張。医師の開業も抑制への「踏み込んだ対応が必要だ」と訴えるが、一方の当事者である(主に開業医の利害を代表する)日本医師会は依然慎重な立場だということです。
 政府は2028年度にかけ、医療や介護といった社会保障費の伸びを抑え、少子化対策の拡充に向けた財源の一部を捻出する考えを示している。このまま進めば、医療提供体制のあり方は歳出改革の論点になる見通しで、切り込めなければ少子化対策にしわ寄せが及びかねないと結ばれた記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2507 診療報酬をどうすべきか?

2023年12月04日 | 医療

 弁護士、公認会計士など一般に「ゴールドライセンス」と呼ばれるような資格の中でも、現在、最も人気があるのが「医師免許」と言えるでしょう。婚活中の友人などの話でも、ドクターと聞けばどんな親たちも目を細めるまさに「敵なし」の職業と聞きます。

 とはいえ、そんな彼らの医大卒業後のキャリアパスはあまり知られていません。医学部には開業医の子弟が多いという話はよく聞きますが、いずれ親の後を継ぐにしても、研修医や勤務医でキャリアを積んだり、一旦は大学病院で専門を極めたりといった道もあるのでしょう。

 厚生労働省の調査によると、病院勤務医の平均年収は約1500万円であるのに対し、開業医の平均年収はおよそ2500万円ほど(平成21年度「医療経済実態調査」)。近年、勤務医の労働環境の過酷さがよく指摘されていますが、(はた目にも)ゆったりしているように見える街場の診療所のお医者さんの方が病院勤務医の1.7倍も稼ぐと聞けば、その矛盾に(何やらきな臭い)政治の臭いを感じないわけではありません。

 もちろん、サラリーマンと経営者では、初期投資の回収やリスクマネジメントの必要性など、責任の度合いが違うのは言うまでもありません。なので、「開業医になれば楽に稼げる」というわけでもないのでしょうが、それでも一般の経営者に比べれば、様々な点、特に公定価格に守られ高報酬が期待できるという意味で「恵まれている」と感じる向きも多いでしょう。

 折しも、来年度(2024年度)の国の当初予算編成で目玉となっているのが2年に一度の診療報酬改定とのこと。そこでは、市井の診療所の経営状態などへの評価における(財務省と日本医師会の認識の)大きな乖離などの話も聞こえてきます。

 果たして開業医は儲かっているのか、それとも諸物価高騰の中で厳しい状況に追い込まれているのか。12月1日の日本経済新聞の経済コラム『大機小機』に、「診療報酬改定は実態把握から」と題する一文が掲載されていたので、参考までに小欄に一部を残しておきたいと思います。

 医療の値段は市場で決まるのではなく、われわれが支払う保険料や税金を基に決められる(いわば)「公定価格」のようなもの。医療行為や薬の価格は公定の報酬単価として決められており、例えて言うなら全容は、分厚い「電話帳」のようなものだと筆者はコラムに綴っています。

 改定は、「引き上げ」を主張する医師会と、「引き下げ」を主張する財務省の綱引きとして報道されがちだが、日本の経済社会に大きな影響を与えることなのだから、(「かけひき」のような形で)議論を矮小化してはならない。公定価格の変更は、医療を提供する病院・診療所(開業医)の経営実態、それを支払う国民を取り巻く経済環境を考え、決めなければならないというのが筆者の指摘するところです。

 ひと口に医療機関といっても、病院と診療所では実態が大きく異なる。病院では医師の過労死が問題になり、数多くいる看護師の処遇も不十分とされる。コロナ禍の下、奮闘する看護師のボーナスカットをした病院で大量退職問題が発生したこともあったと筆者は言います。その一方で、開業医が経営する診療所における院長の平均年俸は、実に約3000万円に達するという推計がある。これは世の中の常識からするとかなり高い水準だというのが筆者の認識です。

 財務省が全国の財務局を通して実施した調査では、2022年度の診療所の経常利益率は8.8%で、全産業ないしサービス産業の平均3.1~3.4%を大きく上回っているとのこと。2019年度から22年度にかけての消費者物価の上昇率3%(年平均1%)に対し、診療所の診療報酬は14%(年平均4.3%)程度上昇したとするデータもあるようです。

 直近では光熱費高騰の影響が指摘されるが、医療機関の経費に占める光熱費は約2%にすぎない。こうした実情を踏まえ、財政制度等審議会の建議は、診療所の報酬単価を5.5%程度引き下げるよう求めたと筆者は話しています。

 これが実現されれば、現役世代の保険料負担は年2400億円ほども軽減される(年収500万円の場合、5000円相当の軽減)。政府はインフレに苦しむ国民の負担を少しでも下げようとしているのだから、平仄(ひょうそく)が合うというのが筆者の見解です。

 確かに、開業医の年収が勤務医を大幅に上回るのは(医師でなくとも)誰もが知るところです。こうした状況から、自己資金を貯めて待遇の悪い勤務医を「卒業」し、開業を目指す若い医師は多い。また、そうした医師の背中を押す「開業コンサルタント」なる仕事も盛況だという話も耳にします。

 「医は算術」といったネガティブな言葉がありますが、一方で日本の医療は、医療従事者の「献身」だけで守れるものではないのは事実でしょう。そこで必要なのは、どこにどのようなお金を使うかという話。

 ある意味開業医の利益集団ともいえる医師会の主張は主張として、まずは病院経営への資源投入が「待ったなし」の状況にあることは誰もが認めるところ。国民の負担と病院の実情を考えれば、今回診療所の報酬の単価引き下げは(総合的な観点から見て)十分に合理的だろうと話すコラムの指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2506 血液型と健康リスク

2023年12月03日 | 医療

 普段の生活の中ではほとんど気にする必要がないのに、いざ輸血の必要などが生じると急に重要になるのが「血液型」の存在。実際は広く知られたAOB血液型やRh血液型などのほかにも、合わせて41種類もの血液型があるのだそうです。

 中でも最も一般的なAOB型血液型とは、赤血球上などの糖鎖の末端にある糖の違いによりA,B,AB,Oの4つのタイプに分類されるもの。抗原抗体反応を避けるため、原則として同じABO血液型間でしか輸血することが出来ないとされています。

 ちなみに日本人ではおよそ10人に4人がA型,3人がO型,2人がB型,1人がAB型とされていますが、基本的に遺伝により継承されるため、国や地域によってその割合は大きく変わるとのこと。世界的に見るとO型が多い国が一番多く、A型、B型がそれに続く割合で、中南米は特にO型の比率が高いとのことで、驚くことにコロンビアやベネズエラではO型が(ほぼ)100%を占めているのだそうです。

 さて、私たち日本人が日常で血液型を意識させられるのは、輸血や手術といった(深刻な)場面よりも、むしろ「血液型占い」や「血液型性格診断」のような、あまり科学的とは言えない場面の方が多いかもしれません。

 因みにA型の人は、真面目で几帳面、責任感が強く心配性などといわれることが多いようです。一方、B型の人は対照的にマイペース。気分野で飽きっぽいなどとともされており、「あなたB型でしょ?」などといわれるのは決して誉め言葉ではないかもしれません。

 日本人に2番目に多いO型は、楽観的で細かいことを気にしない温和な人が多いとの話も。社交的でロマンチストなど、こちらは誉め言葉がいっぱいです。他方、日本人では一番少ないAB型は、ドライで天才肌の合理主義者。無駄なことを嫌い他人にはあまり興味がないなど、一匹狼の人を指して「あの人、きっとAB型だわ」などと噂されたりするのでしょう。

 まあ、ドナルド・トランプがA型、岸田文雄現首相がAB型などと聞くと、こうした枠組みが本当に当てになるかどうかは眉唾ですが、様々な統計によれば、人の健康と血液型との間には、かなり大きな関連があることも分かっているということです。

 9月27日の経済情報サイト「PRESIDENT ONLINE」によれば、血液型によってかかる病気のリスクが大きく違うとのこと(「血液型で病気リスクがこんなに違う」2023.9.23)。血液型は「血液」だけではなく、個人を血清学的に識別する方法のひとつであり、どんな病気になりやすいかなどの特徴があるのは、ある意味当然のことだということです。

 特にここ数十年の研究の数々から判ってきたことは、血液型によって病気のリスクが異なるということ。例えば、2010年にスウェーデンの大学が発表した研究結果によると、A型の人の胃がんのリスクは最もリスクの低いO型の人と比べて1.2倍高く、2009年にアメリカ国立がん研究所が発表した論文では、B型の人は最もリスクの低かったO型に比べて、膵臓がんのリスクが1.72倍高いことが報告されているということです。

 さらにB型の人は、O型に比べ2型糖尿病になる頻度が1.21倍。一方、脳卒中のリスクでは、AB型の人は最もリスクの低かったO型の人と比べて1.83倍高く、さらにAB型の人は、認知症になる可能性も、O型に比べ約1.82倍高いという研究結果もあるようです。

 なんか、やっぱり楽観的なO型の人は(ストレスが少ないせいか)病気にかかりにくく、一方、孤立しがちなAB型は脳卒中や認知症など踏んだり蹴ったりの印象ですが、まあO型の人は「蚊に刺されやすい」といったデメリットもあるようなので許してあげましょう。

 さらに言えば、O型の人は、大量出血するような大怪我をした場合の死亡率が他の血液型の倍以上になるとのこと。重症外傷の患者901人の分析から、O型の患者さんの死亡率が28%、そのほかの血液型は11%とのデータもあるようです。

 記事によればそこには理由があって、O型の人は健常者であっても、血を止めるための大切な因子の一部が他の血液型に比べて25〜30%しかないため。止血能力や血液を凝固させる能力がO型は弱いということなので、十分に気を付けた方がよさそうです。

 まあ、それ自体は悪いことではなくて、O型の人はそれだけ血液が「さらさら」だということにもなる。これによりO型以外の人は、O型の人と比べ、心筋梗塞のリスクが1.25倍、エコノミークラス症候群(静脈血栓塞栓症)のリスクが1.79倍との報告があると記事は説明しています。

 血液型による性格診断も、社会の中での自分の生き方を考えるのに役立つかもしれないが、血液型の科学的な特徴を知り食事や運動など日常生活を見直せば、健康被害のリスクを確実に減らすことができる。例えば、O型の人は、(蚊に刺されないように気を付けることはもちろん)大怪我をしたときに自分の血がほかの血液型よりは止まりにくい可能性についてより気をつけることが大切だと語る記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2472 高齢になると薬の量が増えるワケ

2023年09月27日 | 医療

 厚生労働省のデータによると、令和2年度の国民医療費は42兆9,665億円、国民一人当たりに直すと34万600円とのことです。前年度の国民医療費44兆3,895億円に比べ1兆4,230億円の減少、一人当たりでは35万1,800円に比べ1万1,200円減ったとされています。

 減少率は3.2%で、統計開始の1954年度以来最大とのこと。実はこの数字、2020年からの新型コロナウイルス感染拡大による受診控えが影響しているとされ、厚労省は2021年度は受診控えの反動もあって大幅に増えると予想しています。

 医療費の状況を年代別に見ると、65歳以上が26兆4315億円で全体の61.5%を占め、1人当たりに直すと73万3700円になる計算です。さらにこの金額は75歳以上では90万2,000円に跳ね上がり、高齢者になればなるほどかかる医療費も高くなる状況が見て取れます。

 そう言えば、齢90歳を超え未だ矍鑠(かくしゃく)としている私の母も、定期的に通院するクリニックで処方される薬の量には毎回辟易としている様子。胃腸薬や湿布薬、血圧のクスリから睡眠薬、目薬に至るまで、これだけでお腹一杯になってしまうのではないかという量を(ほぼ毎食後)服用させられている様子です。

 本人も主治医には「いつお迎えが来ても…」と言っているようですが、主治医としても患者から「あそこが痛い」「なかなか眠れない」などといわれれば、症状を緩和するための薬を(何か)処方しないわけにはいかないのでしょう。

 そして、そうした結果、国民医療費はどんどん増えてく。「団塊の世代」(1947~1949年生まれ)が後期高齢者(75歳以上)となる2025年には、国民の実に5人に1人が後期高齢者という超高齢化社会を迎える日本で、積みあがる医療費の削減は待ったなしの課題と言えるでしょう。

 そんなことを考えていた折、8月28日の「PRESIDENT Online」が、医師で作家の和田秀樹氏の近著『65歳から始める和田式心の若返り』(幻冬舎)の一部を紹介していたので、参考までに小欄にもその概要を残しておきたいと思います。(「この質問をしないと病院で薬漬けにされる…和田秀樹「患者が医師に聞くべき"キラークエスチョン"」2023.8.28)

 65歳を過ぎると、誰だって調子の悪いところが1つ2つと増えてくる。それが「老いる」ということであり、生きている証だと和田氏はこの著書に綴っています。

 ところが、医療では病気を薬の力で抑え込もうとする。オーストラリアでの調査では、全入院患者の3%前後が薬の服用に起因した入院で、高年の患者ではその比率がさらに高くなり15~20%に達していると氏は言います。つまり、いわゆる「薬の飲みすぎ」で、(入院を要す)重篤な状態になる人がこんなにもいるということです。

 薬を処方しすぎる薬大国・日本では、その比率はもっと(はるかに)高いと見て間違いないというのが氏の見解です。実際、それによって患者さんの健康を害することが起こっている。薬の数が増えれば、必然的に副作用も多くなるのは当然のこと。ちなみに高年者の場合、薬の数が6種類以上になると副作用が増えるということです。

 「最近、頭がボーッとするし、寝込むことが多い」と思っていたら、多剤服用による副作用だったケースも珍しくないと氏は言います。認知症と間違われたり、足元がふらついて転倒し、寝たきりになったりすることも(しばしば)起こっているということです。

 では、なぜ、日本の医師は薬を多く出しすぎるのか。その最大の理由は、「医療の専門分化」にあると氏はここで指摘しています。

 日本の医療界では、ある時期から医学教育の専門化が急激に進んだ。たとえば、現在の大学病院には内科という診療科はなく、呼吸器内科、内分泌器内科、消化器内科、循環器内科というように、臓器別の診療科が並んでいると氏は言います。

 日本の医学教育には、オールマイティに患者さんを診られる総合医を育てる教育システムがほとんどなく、専門医はほかの領域に関して詳しい知識がほぼないと言ってよい。このため、大学病院などの大きな病院を受診すると、1つ調子が悪いところが現れると、各診療科でそれぞれ薬が処方されるというのが氏の認識です。

 調子の悪い箇所が1つ、2つと増えていけば、そのたびに新たな薬が追加されていく。このため、大病院にかかると、高年者は薬漬けになりやすいということです。

 では、開業医のところに行けば「多剤服用」の問題は避けられるのか。例えば内科クリニックの医師の場合も、もともとは大学病院や大きな病院で特定の臓器だけを診てきた医師がほとんどだと、氏は内情を話しています。

 医学部で基本的な知識は学んでいるため、(普通の医師であれば)専門外の患者さんを診ることはできる。ただし、こうした医師は専門外の疾患に対して、医療マニュアルに頼らざるを得ないと氏はしています。

 標準治療を示すマニュアルには、1つの疾患に対して2~3種類の薬が推奨されている。そのため、薬についてしっかりと勉強していない医師を受診すると、不調の数とともに、薬の数も増えやすくなるということです。

 「毒を以(も)って毒を制す」…これは薬の本質を示す言葉だと氏は話しています。薬物治療とは、病気という毒を、薬という名の毒を使って抑え込むもの。もちろん薬は、(毒であるがゆえに)病気以外の場所にも作用すると氏は言います。たとえ1つの病気を抑えられても作用は他所にも及び、意図する反応とは異なる症状を生み出す。これが「副作用」だということです。

 なので、自分が何か薬を飲むとしたら、必ず副作用を確認しておきたいと氏はしています。薬が処方される際、効能の話はあっても、副作用の説明はされないことが大半だろう。その場合は、患者自身が(自分の身を守るため)「この薬にはどんな副作用がありますか?」と尋ねる必要があるということです。

 患者が尋ねれば、信頼に足る医師ならきちんと答えてくれるはず。無論、薬を飲み始めて体調が悪くなったと感じたときには、頑張って飲み続ける必要はないと氏は言います。

 (自分の体のことなのだから)すぐに体調の悪化を医師に相談して、服用をいったんやめればいい。一般的な薬だって、自分の体に合う・合わないは当然ある。医師としっかり相談して、(必要に応じ)別の薬に替えることが自身の健康のために必要だと話す現役臨床医としての和田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。