MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2236 「死刑になりたかった」という犯行理由

2022年08月24日 | 社会・経済

 8月20日の夜、東京都渋谷区円山町の路上で母娘が刺された事件で、警視庁少年事件課は21日、殺人未遂容疑で現行犯逮捕されたのは埼玉県戸田市に暮らす15歳の中学3年の少女だと発表しました。

 警視庁によると、容疑者は被害者となった母子とは面識がなく、「死刑になりたくて、たまたま路上で見つけた親子をナイフで刺した」などと供述しているということです。

 関係者によれば、容疑者となった女子生徒は警視庁の調べに対し、「中学1年の3学期ごろから何となく学校に行くのが嫌になり、教室や部活の練習に行けなくなった」と話しているとされ、実際、登校しても校内の保健室や相談室で自習したりしていたとのこと。

 また、今回の事件に関しては、「自分の母親と弟を殺すための練習だった」とも供述。「まず母親を殺そうと思っていた。残される弟もかわいそうなので、一緒に殺そうと考えていた」と話しているということです。

 今回の犯行が、普通の家庭に暮らす中学生の少女の手によるものであることに驚きの声が上がる一方で、平和と言われるこの日本で、同様の事件が時を置かずに起きていることに「またか…」との思いを募らせる人も多いことでしょう。

 振り返るまでもなく、近年の日本では、孤独を抱えた人の手によって引き起こされる無差別殺傷事件が後を絶ちません。そして、こうした「通り魔事件」が起こるたびに、犯人の口から同じような供述が繰り返されるのはなぜなのか。

 数々の無差別殺傷事件を取材してきたノンフィクションライターのインベカヲリ氏が、週刊「AERA」の8月29日号に、『「死刑になりたくて」はなぜ起こる 無差別殺傷犯の聞き役に徹して見えた「生々しい心理」』と題する一文を寄せているので、参考までにその一部を紹介しておきたいと思います。

 今年7月、「秋葉原通り魔事件」の加藤智大の死刑が執行された。犯人の加藤は「懲役刑よりは死刑になった方がましだ」と考えて決行したと報じられていると、インベ氏はこの論考に記しています。

 漠然とした「怒り」の発露としての無差別殺傷は、犯人自身もその目的を言語化できないことが多い。加藤の場合、犯行に至る心理を自ら分析して本にしているが、その中でも、「取り調べや公判の時点では(その動機を)説明しようとはしてきたが、私自身が整理しきれていなかった」と話しているということです。

 2008年に起きた「土浦連続殺傷事件」の犯人金川真大も、「死刑になりたくて」事件を起こし、裁判でも繰り返しそう供述していた。しかし、「なぜ死刑になりたいのか」までは最後まで納得できる説明をしないまま、異例の早さで死刑が執行されたと氏は述べています。

 彼らに対し、「無敵の人」「拡大自殺」などと呼んで理解し、納得したつもりになっている人は多い。しかし人間である以上、意味があって行動するのだろうし、ひたすら聞き役に徹すれば、それ以上のものが見えてくるかもしれないと氏は考えたということです。

 そうした理由から、インベ氏は「東海道新幹線無差別殺傷事件」(2018年)を起こした小島一朗に対し、実に3年間にわたり繰り返しの取材を試みています。

 当時22歳だった小島は、走る新幹線の中で1人を殺害し2人に重軽傷を負わせた。彼は取材に対し、動機について「一生刑務所で暮らしたかったから」と述べ、無期懲役囚になるための犯行だったと話していたということです。

 裁判での供述も、「刑務所に入りたい」の一辺倒だった。しかし長期間の取材を通じてわかったことは、彼が刑務所という場所に「親代わり」を求めていたということと、彼自身、かなり倒錯した「理想の家庭」像を持っていることだったとインベ氏は語っています。

 そして、この事件についてまとめた『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』を出版した後、「死刑になりたい」という犯行動機の無差別刺傷事件が未遂を含め立て続けに起きたと氏はしています。

 2021年10月には、京王線の車内で、映画「ジョーカー」の主人公のコスプレをした服部恭太がサバイバルナイフで1人に重傷を負わせ、車内を放火し「2人以上殺して死刑になりたかった」と供述。11月には「小さな子どもを殺して捕まり、死刑になりたかった」と、包丁を持った男が宮城県内にあるこども園に侵入した。

 そして今年の1月には、東京・代々木の焼き肉店に、刃物を持った荒木秋冬が店長を人質に立てこもり、「その場で射殺されたかった」「死刑にしてくれ」などと供述したということです。

 日本の犯罪、とりわけ殺人事件を語る上において、死刑制度はけっして無視できないファクターだとインベ氏はこの論考に綴っています。

 (誰でもいいので)ただ人を傷つけること、殺すことを目的とした(倒錯した)犯行の背後には、自らの「死」や「罰を受けること」への刹那的な依存や陶酔感が横たわる。人を見事に殺すことで自分の生を際立たせ、さらに死刑囚として国家に命を奪われることで、人生を輝くものにしたいと考えているのかもしれません。

 一方で、皮肉なことに、(私自身)こうした理不尽な犯罪が繰り返されている限り、おそらく今後も日本の死刑制度が無くなることはないのではないかと考える者の一人です。

 被害者やその家族、関係者も、不可解で独善的な(そして特に)反省のない殺人者を決して許すことはできない。また、こうした犯行の再犯性を懸念する大多数の国民も、彼らを社会から排除する必要があると願うに違いありません。

 誰からも見捨てられた存在である自分が、その生において光り輝く瞬間を求めていく。挫折と自暴自棄の中に見出した(ある種の)「光明」としての犯行を、我々はどうすれば止めることができるのか。

 もとよりこうした理不尽な犯行が繰り返されるのは、日本ばかりのことではありません。米国の学校などでしばしば起こる、銃器による大量殺戮のニュースなどを見聞きするにつけ、被害者に思いが至らない、その残念さに心が折れる気持ちにさせられます。



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