MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2390 メディアはなぜ沈黙してきたのか

2023年04月03日 | テレビ番組

 2019年に亡くなった少年アイドルプロダクション・ジャニーズ事務所の創業者で、芸能界のカリスマでもあったジャニー喜多川氏(故人)。そのジャニー氏に関し、少年グループ「ジャニーズJr.」メンバーへの長年にわたる性的虐待の実態をイギリスの公共放送「BBC Two」のドキュメンタリー番組『Predator:The Secret Scandal of J‐Pop(J‐POPの捕食者 秘められたスキャンダル)』が取り上げ、話題となっています。

 このジャニー氏による所属タレンへの性加害はかつて日本の週刊誌に取り上げられ、真偽を巡ってジャニーズ事務所とジャニー氏が名誉毀損で同誌を提訴していましたが、最終的に東京高裁で事実認定されています。しかし、それでも日本の大手メディアが大きく報じることはありませんでした。

 今回、BBCによる(世界に向けた)報道を受け、日本エンターテイメント界の巨人であるジャニーズ事務所がどのような対応をとるのか、そして何よりも、国内の大手報道機関がこの問題をどのように報じるかに内外の注目が集まっている状況です。

 日本のメディアの間で(これまで)タブー視されてきた今回の大手芸能プロダクションの闇の部分に関連し、3月22日の総合ニュースサイト『AERAdot.』に作家の北原みのり氏が「BBCのジャーナリストが混乱しながらも日本社会に一石を投じた問題」と題する一文を寄せているので、その一部を小欄に残しておきたいと思います。

 故ジャニー喜多川氏による子供への性虐待疑惑を報じたBBCドキュメンタリーは、世界の人々に衝撃をもって受け止められた。そして、「なぜイギリスのメディアが…」と思いつつ目の離せない重たい約1時間の番組を見終えた後に気が付かされるのは、BBCの関心は日本の一芸能事務所のスキャンダルなどではなく、「なぜ日本社会は沈黙しているのか」という一点にあるということだと、北原氏はこの論考に記しています。

 そもそもジャニー氏による所属事務所の少年たちへの性加害の問題は、1999年に「週刊文春」が14週にわたって掲載し時の芸能界を大きく揺さぶった。しかし、ジャニーズ事務所はこれを全面否定。ジャニー氏と事務所は1億700万円の名誉毀損の損害賠償を文藝春秋に求めたが、4年にもわたる長い裁判の結果、裁判所は性被害の信憑性を認め、記事の重要な部分のほとんどを真実と認定している。

 そして、約20年の歳月を経て、今回のBBCのドキュメンタリーは、この裁判結果をもってしても、警察も、メディアも、世間も完全無風であったことに強く疑問を投げかけているということです。

 実際に被害を受けた少年たちがいるのに、なぜ事件化されなかったのか? メディアはなぜ報道しなかったのか? なぜジャニー氏はその地位も名誉も奪われることなく芸能界に君臨し続けられたのか。

 実際、BBCのジャーナリストが追った被害者の大半は、自分を被害者とは考えていなかったと、氏はこの論考に綴っています。街中でのインタビューでも、(日本人の間に)この問題を大きく批判する声は聞かれなかった。(あなたの受け止めは)「失礼ですが私には理解できません」と、ジャーナリストが本気で頭を抱えるシーンが何度も出てくると氏は話しています。

 虐待のうわさは、(街頭を行く)多くの日本人が知っている。それなのになぜ、誰も声をあげないのか?なぜ、社会はここまで無関心なのか?…ジャーナリズムの使命に基づき、真実を追いかけ、不正義を告発し、大企業に責任を問い、社会への問題提起を目指していたはずのドキュメンタリー。しかし、次第にジャーナリスト自身が日本の無気力と無関心にのまれていくような、不穏で不気味な空気に支配されていくというのが氏の感想です。

 大人が、その地位と権力を利用し、圧倒的に弱い立場の子供を性的に利用する。その大人は怒鳴るわけでも、暴力を振るうわけでもない。ただ優しい言葉で、マッサージをしてあげる、と多数の中から一人を選ぶ。自分の運命を握る大人から「選ばれた」ことは、複雑な混乱を子供にもたらすだろうと氏は言います。

 だからこそ、「あれは被害だった」「あれは暴力だった」と言語化ができない。たとえ被害を訴えたとしても、訴えたことで得るよりも失うもののほうが圧倒的に多いとしたら…というより、そもそも誰もそんな話を聞きたがらないとしたらどうなのか。

 ここに生まれる何よりも大きな問題は、私たち日本人の多くが性虐待の疑惑を知りながら、目を背けて「なかったこと」にし、アイドルたちが見せる美しい夢の世界をただ享受し続けてきたことだろうと北原氏はこの論考の最後に綴っています。

 結局のところ、BBCの「外圧」に頬っぺたを引っ叩かれるまで、普段は饒舌な民放各局の情報番組も、権力に厳しいはずの大新聞も、公共放送を標榜する「皆さまのNHK」も、誰もが「知らんぷり」を決め込んでいた。

 BBCのジャーナリストが(混乱しながらも)日本社会に一石を投じたこの問題。これからどの程度の波紋を日本社会にもたらすのか、それが今、問われていると話す北原氏の指摘を、私も改めて重く受け止めたところです。


#2160 問われる報道姿勢

2022年05月19日 | テレビ番組

 厚生労働省は5月11日、芸能人の自殺報道が相次いだことを受け、「著名人の自殺及びその手段や場所等の詳細に触れる報道は、報じ方によっては『子供や若者、自殺念慮を抱えている人の自殺を誘発する可能性』がある」とし、各メディアにWHO(世界保健機関)が定めた「自殺報道ガイドライン」を踏まえた報道を求める文書を通知しました。

 文書では、「亡くなった方の自宅前等から中継を行う」「街頭インタビューで、市民のリアクションを伝える」といった“過剰報道”の例を挙げ、自殺の手段を明確に表現したり、報道を過度に繰り返したりしないよう注意喚起を行っています。また、報道を見て苦しくなったときは、SNSのミュート機能を使ったり、ネット・テレビから距離を置いたりするよう案内するとともに、不安を感じた人は厚労省やその他関連団体が設ける窓口への相談を促すよう求めているということです。

 とはいうものの、視聴者に身近な人気芸能人が突然亡くなるという事態を追いかけるのは、テレビのワイドショーの宿命のようなもの。実際、5月11日の朝以降、テレビの情報番組では、大半の時間が割かれ関連するニュースを報じています。

 親交のあった芸能人の声を追いかけたり、過去の映像を何度も繰り返し流したり、「専門家」を名乗る人のコメントを集めたりと、そこはそれお手のもの。そうした中、ガイドラインがあるせいでしょうか。沈痛な面持ちの司会者が 「なぜ、死を選ばなければならなかったのか…」とまとめた後に、とってつけたように「いのちの電話」や「こころの健康相談室」の電話番号などがテロップで流されるのを見て、これは何かの冗談ではないかと感じているのは私だけではないでしょう。 

 そんな折、5月12日の「東洋経済オンライン」にコラムニストの木村隆志氏が「芸能人の自死関連報道は絶対に見てはいけない訳」と題する一文を掲載していたので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 今回の芸能人による自殺報道に関し、メディアの報道姿勢として疑問を呈しておきたいのが「相談窓口」の添付という「免罪符」だと木村氏はこのコラムに記しています。

 媒体を問わず自死関連の報道には、最後に「いのちの電話」「こころの健康相談」「生きづらびっと」などの連絡先を添えることがお決まりのようになっている。しかし、当然「これを添えれば、どんな内容でも許される」というものではなく、そもそも相談窓口は「悩みが解決できる」のを前提したものではないというのが氏の認識です。

 精神状態には個人差があり、たとえば相談員に心を開いて悩みを打ち明けられるかどうかが未知数なのは自明のこと。相談員にも対処能力に個人差や相性があり、必ずしも万能とは言えないと氏はしています。

 加えて、そこで連絡がつながらなければ「ここも私を見捨てるのか」と絶望してしまうリスクもある。それが故に、「自死報道でショックや悲しさを増したうえで、相談窓口に誘導する」という現在の流れは看過できないというのが氏の指摘するところです。

 さらに怖いのは、幾度となく報道されることで、「本来自分とは縁遠いものだったはずの自死が少しずつ身近なものになってしまう」こと。好き嫌いを問わず知っている人の自死には少なからず自分への影響力があり、有名人であればなおのことだと氏は言います。

 たとえば、「自分は自死なんてしない」と思っている人の心にも、「自分もそういう可能性はあるのか?」という小さな疑問が芽生えてしまう。あるいは、「自分たち一般人と同じような悩みがあったのかな」などと親近感を抱いてしまうことで、自死の連鎖につながるリスクが高まるということです。

 いずれにしても、怖いのは、自死報道を見れば見るほど、縁遠かったはずの自死が、自分にも起こりえる可能性がある生々しいリアルなものとして心の奥に認識されてしまうこと。自分にとって「ありえないもの」が知らぬうちに「あるかもしれないもの」に変わり、「もともとすべての人間が自死という選択肢を持っている」と自認してしまうというのが氏の懸念するところです。

 氏によれば、カウンセラーとして日ごろ相談を受けていると、悩みの程度が軽い相談者の中にも、「『死んだら楽になれるかな』と思ったことがある」という人が少なくないということです。

 「死んでしまいたい」とまでは思わないけれど、「死んだら楽になれるかな」くらいの思いが頭をよぎる人たちは大勢いる。実は、それくらい自死は身近なもので、それだけに、できるだけ遠ざけておかなければならないのではないかとこのコラムを結ぶ木村氏の指摘を、私も改めて重く受け止めたところです。

 


#2071 紅白歌合戦が目指す先

2022年01月23日 | テレビ番組


 新型コロナ・オミクロン株の感染拡大への懸念から、今年の年末年始もまた(「ステイホーム」の掛け声とともに)自宅で過ごす人が多かったようです。

 LINEリサーチが全国の男女約55万人を対象に行った(相当大掛かりな)調査でも、「年街年始の過ごし方」の第1位は「年越し蕎麦を食べる」で半数以上が挙げています。そして、2位は「お雑煮 を食べる」、3位は「『紅白歌合戦』を見る」と、日本の年越しのルーチンはコロナ下でも大きくは変わっていないようです。

 やはり、大晦日と言えば、おせちの余りものを肴に一杯やりながら炬燵で紅白歌合戦を見て、年越しそばなんかを食べて「ゆく年くる年」を見て寝るというのが(いまだ)日本人の定番だということでしょうか。しかし、今年の紅白に関しては、翌日(元日)のネットニュースから厳しい意見に晒されているのも事実です。

 ビデオリサーチ社(関東)による(昨年の)紅白歌合戦の世帯視聴率は前半が31.5%、後半34.3%と振るわず、無観客開催だった一昨年(2020年)紅白の前半34.2%、後半40.3%をさらに下回るものでした。特に後半に関しては、これまで歴代最低だった2019年37.3%をも下回り、2部制となった1989年以降、最低の水準だったということです。

 実際、毎年大晦日の紅白を楽しみにし、この70年間視聴を欠かしたことのない私の母親なども、今年の紅白ほどつまらないものはなかったと話しています。もっとも、近年は毎年そのように話しているので、(その原因は)彼女の中にある「紅白」のイメージと現在の「紅白」のギャップが徐々に広がっているということなのかもしれません。

 私自身は、(全部をしっかり見たわけではありませんが)エンターテイメントとしてそれなりに楽しめたのですが、ニュースサイトやSNS上にはかなりの「酷評」ともいうべき感想が並んでいるのも事実です。

 そうした中、正月三が日が明けた1月4日の総合経済サイト「東洋経済オンライン」に、音楽評論家のスージー鈴木氏が「紅白視聴率「歴代最低」を嘆く人に欠けている視点」と題する論考を寄せているのが目に留まりました。

 昨年、これまでよりも大きく視聴率を落としたNHKの看板番組「紅白歌合戦」だが、実は「占有率」(テレビをつけている家庭の中で紅白を見ている割合)で見ると一昨年よりも上がっていて、それどころか、2016年以降で最高値だったという話があると鈴木氏はこのコラムに記しています。

 つまり、昨年暮れの紅白は、実はテレビをつけている世帯の中での(他番組との)競争には「勝利」していたということ。もちろん、特に強力なライバルだった日本テレビ系『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』が休止したことの影響も大きいのでしょうが、それでも紅白は孤軍奮闘していたと言ってよいかもしれません。

 では、何が昨年紅白の視聴率低下の原因となったのか。既にお気づきのように、そもそも紅白の時間帯に、テレビを視聴している人自体が減った、それも激減したことが影響していると鈴木氏はこの論考で指摘しています。

 昨年は、大晦日における総個人視聴率(≒テレビ視聴者総数)が大きく低下。とりわけ紅白後半のピークを迎える23時には、一昨年に比べて、なんと2割近くも減少しており、視聴率の下げ幅(40.3%→34.3%≒1.5割)を上回る状況だった氏は言います。

 強力なライバル番組の不在が、紅白の視聴率アップにはつながらず、むしろテレビ視聴者をネットに流出させた。総じていえば、昨年紅白の視聴率低下には、番組内容うんぬん以上の、より構造的で大きな問題が潜んでいたというのが氏の認識です。

 さて、テレビというメディアを取り巻く環境が大きく変化する中、それでは歴史ある「紅白歌合戦」は、これから先どのような道を歩んでいけばよいのか。そもそも、「公共放送」としてのNHKの存在理由、最近流行のビジネス用語でいうところの「パーパス」は何なのか、氏はこの論考で改めて問い直しています。

 いち視聴者として思うことは、(もちろん視聴率向上は重要だろうが)それだけに拘泥すると民放と同じになり、「公共放送」としての存在理由が薄まってしまうということ。そこでお願いしたいのは、視聴率に縛られ(すぎ)ないことを逆手に取った、視聴満足度の高い番組作りだというのが氏の見解です。

 視聴率のベースとなるテレビ視聴者自体の減少が、紅白の視聴率をも低下させる圧力と化している。(先に述べたように)この状態は構造的なもので、圧力からの回避は極めて難しいと氏は言います。で、あれば、まずできることは、内的環境としての番組内容に目を向け、視聴満足度向上に資源・施策を集中することに尽きる。結果として、高い満足度が視聴率低下のスピードを遅らせ、さらには新しい視聴者を誘引するという構造への再構築を促すはずだということです。

 では、具体的にどうすればよいのか。これまであまり省みられることはなかったようだが、これからの紅白のターゲットは、ずばり「音楽ファン」ではないかと氏はここで指摘しています。

 強烈に好きなミュージシャンや歌手がいて、他の音楽家や最近のヒット曲にも関心を持ち、ずっとサブスクを聴いていて、コロナが明けたらカラオケに行きたい、ライブに行きたいとウズウズしている(歌好きの)人たちは多いはず。そして、そんなターゲットに対し約束するべき紅白のパーパスは、「日本最高最強の音楽フェスになること」だと氏はしています。

 大みそかの慌ただしい時間、それでもあえてテレビをつけて、生で見るべき意味・見なければならない意義のある、音楽ファン必見の「ライブフェス」になること。「ライブフェス」なのだから、生放送・生歌、そして生演奏だからこそ価値があるということです。

 平成時代の紅白で推し進められた「バラエティー番組化」はもう要らない。そして、(勘のいい方ならもうお気づきのように)昨年の紅白がこの方向へ向けた第一歩だったとのではないかというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 視聴率話が、必要以上に賑やかにかつ無責任に語られているが、「音楽ファン」の1人として、制作スタッフにはあの(←現在の)方向で迷わず進んでほしいと強く思うと氏は言います。

 「夢の紅白」では、藤井風に始まり、米津玄師、宇多田ヒカル、島津亜矢を経由して、中島みゆき、浜田省吾、竹内まりや(バックに山下達郎)、そしてトリが沢田研二という奇跡の4時間超のライブが続いていく。もちろんすべて、生放送、生歌、生演奏だと氏は妄想を広げています。

 男性対女性の「合戦」という茶番から、純粋な音楽番組に生まれ変わろうとしている「紅白歌合戦」。確かに、時代の変遷とともに(比較的大画面の)テレビに求められる視聴者のニーズも大きく変わっているのでしょう。誰彼構わず受信料をとるのであれば、それに見合った(民放とは違う)クオリティで存在価値を見せつけてほしいと、私もこの論考を読んで改めて感じたところです。

#2017 突然ですが、あなたは占いを信じますか?

2021年11月15日 | テレビ番組


 今、巷では「突占(とつうら)」が話題になっているという話を聞きました。

 「突占」とは、フジテレビ系列の地上波で放送されている『突然ですが占ってもいいですか?』という、占いをテーマとしたバラエティ番組のこと。その世界では有名な占い師の面々が、街行く人に突然占いを持ちかけたり、芸能人の過去をズバズバと言い当てたりして、視聴者はそのリアクションを楽しむという(これまでになかった)企画です。

 居酒屋で占い師に真実を言い当てられて泣き出す人がいたり、有名芸能人が「嘘、当たってる!」と仰天する反応を見ていると、たまにチャンネルを合わせるだけの(占いに興味のない)私のような人間でさえ、思わず引き込まれてしまう時があります。

 夜10時からという遅い時間帯にもかかわらず世帯視聴率は好調で、この夏のオリンピックの開催期間中でも7%台をキープしていたのは立派と言えば立派です。特にこの番組に関しては、F1,F2と呼ばれる比較的若い年代の女性の視聴者が(固定層として)付いているということですので、そうしたベースが安定した視聴率につながっているのかもしれません。

 もっとも、このようなテレビ番組ばかりでなく、ブログやYouTubeといったネットコンテンツから占いやスピリチュアル界のスターが生まれるなど、スピリチュアルビジネスは、アンダーコロナの一大成長産業だという指摘もあると聞きます。

 誰もがスマホを持つようになり、「今日のお天気」のように「今日の運勢」を覗く人が増えている。毎日のラッキーカラーや、ラッキーアイテムを気にする若い女性も多いということです。

 こうした「占いブーム」の背景には、昨今の社会情勢などの影響もあるのでしょう。新型コロナの感染拡大による自粛生活の長期化が人々からコミュニケーションの機会を奪い、心理状態を内省的にさせている可能性もあります。

 将来の見えない不透明な社会状況が人の心を不安にさせ、すがるものへのニーズが高まっているという状況もあるでしょう。(「親ガチャ」などという言葉に代表される)所得格差の拡大と階層の固定化なども、運命論としての「占い」の普及に一役買っているかもしれません。

 いずれにしても、社会の不安が「人知を超えた存在」を誘うのは世の常というもの。運の良し悪しともかくとして、経験を積んだ第三者のアドヴァイスは、(それなりに)ポジティブに受け止めたいと思うころです。

 昨今のこうした占いブームについて、10月7日のYahoo newsに博報堂「キャリジョ研」代表の松井博代氏が、「占いブームから垣間見える 若年女性たちの自己分析欲求」と題するレポートを寄せているので、参考までに(この機会に)紹介しておきたいと思います。

 データで見る限り、「占い・おみくじを信じる」人はここ6年くらいでずっと増加傾向にあると、松井氏はこのレポートに記しています。

 中でも20代女性は常にスコアが高く、2018年から2020年での高まりが他の性別・年代の方よりも顕著となっている。ここには、特に何か理由があるのではないかと氏はしています。

 氏によれば、女性の20代は、ライフコースや働き方が分岐しやすいという特徴があるということです。確かに多くの若い女性にとって、20代は、就職、結婚、出産など、大きく生活の様子が変わる(怒涛のような)時期と言えるでしょう。

 この時期は、以前から付き合いのある友達でも環境や状況が変わることで相談しづらくなってくることも多い。(そんな彼女たちが)新たな相談相手を求める気持ちが高まりやすい年代でもあるということです。

 そうした中、近年増えてきた「前向きに寄り添い、自分を肯定してくれる占い師」は、相談相手が身近にいない彼女たちにとって、(ある意味)心強い存在に映るのかもしれないと松井氏は指摘しています。

 SNSは、20代女性の目を、身近なコミュニティから世界へと向けさせた。比較や参考の対象が友達だけでなく、インフルエンサーや芸能人、海外セレブまで広がっている。こうした「見ている世界」の広がりとともに、「みんなと同じようにしていても同じにならない」という個性や多様性に気づく「超俯瞰思考」が、2010年代後半から若者中心に起こっているというのが氏の認識です。

 ありのままの自分でいてよい、そうありたいと思う反面、そもそも「ありのままの自分とは何か?」ということについての疑問も生まれる。そして、そこから、自分をより知りたいという「自己分析欲求」が出てきているように思うと、氏はこのレポートに綴っています。

 今から少し前、女性たちがパーソナルカラーや骨格メイクなどを学びに行き、きちんとお金をかけて自分の特徴を客観的に把握し、うまく活かす方法を知ろうとする事象が見られた。占いについても、そうした自己分析欲求に合致しているところを感じるというのが氏の見解です。

 もともと、占いにはその人の特徴を分類した「基本性格」というものがある。近年人気のある占いは、基本的にこの性格をベースとしてタイプごとの運勢を示してくれるということです。

 このため、(占いは)「自分のことを分かってくれた上で語りかけてくれている」と感じやすく、こうした“他者から示された自分”に触れることは自分を顧みる機会になる。いわゆる「メタ認知」と言うのでしょうか、こうした自分にきちんと向き合えば、新たな自分を知るきかっけなるというのが氏の指摘するところです。

 実際、定期的に占いに通っているような占い愛好者の中には、そういった目的で使っている人も多くいるようだと松井氏は話しています。特に、最近人気の占いでは、「今と未来」だけでなく、子どものころのターニングポイントまで戻って、長いスパンで人生を振り返得させてくれるものが多いということです。

 思えば、時間と運命に流されていくだけの人生でよければ、占いは必要ありません。そうした流れに抗うためにも、まずは自分来し方をよく知り、行く末を案じていくことが重要だということでしょう。

 人生を前向きにとらえる人こそが、占いに素直に向き合える。占いの意味や価値を、自分の原点にまで立ち戻り、自己の振り返りや把握に納得感を高めてくれる点に見出すこのレポートにおける松井氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。