MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2567 マウンティングからの解放

2024年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 ここ数年、私の周囲でも「マウントをとられて嫌な思いをした」といった文脈において、「マウント」とか「マウンティング」という言葉を(かなり頻繁に)耳にするようになりました。

 これは、相手に対して自分の方が「優位に立っている」ことをアピールされた…簡単に言うと「自慢された」ことで傷ついた、不愉快な気分を味わった際に使われる言葉と聞きます。

 良く知られた「マウンティング」とは霊長類などの動物の個体間で、緊張が高まるととられる(上下関係確認のための)「馬乗り」的な行動や擬似的な交尾行動のこと。転じて、人間などの間で自己の優位性を態度や言葉で主張し上下関係を格付けしあう行為を指しているようです。

 地位や資産、学歴や暮らしぶりなど、社会生活を営む以上マウンティングの種には事欠きませんが、近年それが特に注目されるようになったのは、SNSなどで誰もが私生活を投稿できるようになったことが切っ掛けなのでしょう。それに「いいね」を押しつつも、「羨ましい」もしくは「嫌味だ」と思う人が(飛躍的に)増えたことで、結果として「マウントをとられた」と(SNSなどに)吐き出す人が増えたということなのかもしれません。

 「ハラスメント」同様、このマウンティングも(多分に)「受け取り手」の心持ち次第というところがありますが、ネットの書き込みなどを見る限り、多くの場合(例えば「自己顕示欲が強い」とか)「マウントをとる側に問題がある」という論調の中で語られることが多いようです。

 まあ、私自身はこうした自慢話は全く気にならない…というか(たぶん)気も付かない鈍感な人間だという自覚は強くあって、(単純に「すごいな」とか「よかったね」とか思うだけで)ちょっとした話になぜ「マウントをとられた」と騒ぐのかは(はっきり言って)よく分かりません。しかし、ネット上だけでもこれだけの書き込みがある以上、この「マウント」というキーワードは、現代社会を読み解く上で重要な位置を占めていると言えるのかもしれません。

 そもそも、この「マウンティング」なる言葉は一体いつごろから一般的になったのか?改めてネットを手繰っていたところ、今からおよそ10年前、2014年10月14日の経済情報サイト「NIKKEI STYLE」に、『女性同士のイヤな感じ、正体は「マウンティング」格付けし合う女性達』と題する漫画家の瀧波ユカリ氏へのインタビュー記事が掲載されているのを見つけたので、参考までにその概要の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 実はこの「マウンティング」なる言葉、2014年2月に発行された瀧波ユカリ氏の著書「女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態」(ちくま文庫)で広く知られるようになったということです。

 記事によれば、社会的な地位や収入で単純に格付けが決まる男性と違い、女性の人生には、結婚や出産、彼氏や仕事、美しさなどいろいろな"幸せ軸"が入り混じりっている。なので、コミュニケーションの際にも、自分の立ち位置を常に確認しようと他人を格付けしたり、マウンティングで自分の幸せを確認したりする作業が必要になるのではないかということです。

 なるほど、確かにかに価値基準の少ない男性の場合、立場の上下関係はあまりにあからさますぎて、(マウントを取る前に)「すげーなー」「参りました」としっぽを巻いて逃げかえることも多いのかもしれません。

 因みに、この言葉の発案者の瀧波氏によれば、(マウントを取る方もマウントと感じる方も)その根底には「自分への自信のなさがある」のではないかとのこと。「見下されたくない」という焦りから勝てそうなカードを強引に出してきたり、劣等感を感じそうになった時に「私は不幸せじゃない」と自分に言い聞かせるための心の声だったりするということです。

 それ自体は、小さな見栄やライバル心からなんとなく張り合ってしまうというつい陥りがちな行動だが、度が過ぎると人付き合いがつらくなる原因にもなると瀧波はしています。特に女性の場合、純粋な会話が楽しめなくなったり、人付き合いが億劫になったり、最悪の場合、相手との関係が修復できないほどこじれてしまう場合もあるとのこと。マウンティングをした側も、罪悪感から後悔したり自分のことが嫌いになったりして、結局、誰もトクをしないということです。

 思い起こせば子供の頃、〇〇ちゃんちの生活と比べて文句を言うたびに、母親から「人は人、ウチはウチ」と諭されたのを懐かしく思い出します。

 若くして没した詩人の石川啄木は、「友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」と読んでいます。たとえ小さくても、自分自身の最も大切とする幸せを嚙みしめることが、そんな嫌な気分の「逃げ道」となるということなのでしょう。

 人生とは、(当然ですが)事程左様に全てが思い通りにはいかないもの。心を乱す格付けモードに振り回されないためには、「曖昧な"幸せ"のカタチにこだわりすぎないこと」「自分にとって"楽しい"という感情を大切に生きること」「自分自身を肯定できるようになること」と綴られた記事の指摘を、私も「なるほどな…」と頷きながら読んだところです。



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