徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:奥田英朗著、『空中ブランコ』(文春文庫)~第131回直木賞受賞作品

2016年06月19日 | 書評ー小説:作者ア行

第131回直木賞受賞作品である『空中ブランコ』にはちょっぴり苦い思い出があります。伊良部シリーズは10年ほど前に友達から借りて読んだものですが、この『空中ブランコ』だけは返却されることなく私の手元に残ってしまったのです。なぜか。水をこぼしてしまい、一部ふにゃふにゃに変形してしまったから。友達には新しく買ってお返ししたので、変形した本はそのまま私の本棚に残った次第です。

さて、私にとってはちょっといわくつきの『空中ブランコ』ですが、シリーズ第1・3弾同様短編集で、表題作の他4編の短編が収録されています。

直木賞受賞作品である表題作がやはり秀逸で、かなり笑えます。患者さんは新日本サーカスに属する空中ブランコ乗りの山下公平。東京公演が始まってからキャッチャーとの連携がうまくいかず、何度も落下する、という失態を晒しており、昔からの仲間や奥さんから少し休むように諭され、またよく眠れなくなっているので興行地の近くにある伊良部総合病院の神経科にかかることになります。伊良部センセは例によって例のごとく取りあえず注射。その後は空中ブランコに興味を示して、自分もやると言ってきかない。ちゃっかり次の日からサーカスで空中ブランコの練習をさせてもらってる。患者の公平には注射と睡眠導入剤だけ。サーカスの団員たちはすんなり伊良部を受け入れ、彼が空中を飛ぶのをまるで空飛ぶクジラのごとく見物に来るようになります。「デブは絵になる」と公平も感心する始末。いいのか、医者がそれで?!と突っ込みたくなるのが常識人の思うところでしょうが、そんなジョーシキがこのトンデモ精神科医に通用するわけもなく。。。それでもなぜか結果的に患者がいい方に転がるから不思議なもので、藪なのか名医なのか。

『ハリネズミ』に登場するのはなんと先端恐怖症のやくざ。その設定だけで可笑しさがこみ上げてきますが、この御仁はお箸の先端にすら腰が引けて脂汗をかく始末。これではやくざを廃業するしかあるまいという状態で同棲中の女性に勧められて伊良部総合病院の神経科へ。伊良部センセは患者の先端恐怖症にかまわず、「逆療法」とか屁理屈をこねて、とにかく注射。それでも一応「サングラスをかけてみれば」とか「どの合わない眼鏡をすればあまり怖くないかも」などと実践向きのアドバイスをしたりして、やくざ屋さんにちょっと希望を与えます。このお話では伊良部センセは親身で付き合いのいい医者という役割で、とんでもないのは注射だけに留まっています。可笑しさはやくざ屋さんたちだけで醸し出している感じです。

『義父のズラ』では伊良部センセの同期たちが登場します。その中の一人で現在大学講師で附属病院勤務の池山達郎は、外科の元主任教授で現在は学部長の娘と結婚し、将来安泰の道を歩んでいる筈だったが、いつごろからか、義父のカツラを人前で引っぺがしたい衝動や何か人前でバカなことをしたい、ぶち壊したい衝動に駆られて自己コントロールに難儀するようになっていた。そこで同窓会で再会し、彼の強迫症を見破った伊良部に相談を持ち掛けます。伊良部センセが「代償行為」を提案し、大の大人が二人して歩道橋や信号機に書かれた地名をいじって(点を加えて)遊ぶというもの。『イン・ザ・プール』同様、伊良部の暴走に患者が引きずられ振り回される話。「全く大の大人が何やってんだか。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」と笑うしかないような。

『ホットコーナー』に登場するのは一塁送球がなぜか暴投になってしまうプロ入り10年のベテラン三塁手坂東真一。伊良部センセの診断は「イップス」。プロ野球選手が来たということで急に野球に興味を示し出す伊良部。あろうことかプロにキャッチボールの相手をさせます。ちょっと展開が『空中ブランコ』的ですが、違うのは伊良部が患者に「コントロールって何だろう」など基礎的でかつ普段は無意識的なことを質問して考えさせてしまい、そのせいで症状がどんどん悪化してしまうこと。終いには歩き方まで忘れました、みたいな。

『女流作家』ではまさしく女流作家が主人公。売れっ子の恋愛小説家星山愛子は執筆中に「これは前に書いたことのある職業ではないか?」「以前書いたネタじゃないか?」と気になり出して、自作の総点検をせずにはいられなくなる強迫神経症で嘔吐症も併発。患者の悩みもそっちのけで「小説ってどう書くの?」とあくまでもマイペースの自分の欲望に正直な伊良部。
実はこの星山さんは以前に身を削るようにして書いた小説が「名作」と玄人受けしていたのにもかかわらずあまり売れなかったことがトラウマになっていて、売れるものしか書けなくなっていたのです。結末はちょっとぐっとくるお話です。 小説家の≪産みの苦しみ≫と売れるものしか求めない出版社、軽いものしか求めない大衆の乖離を切なく抉り取っている感じです。もしかしたら作者奥田英朗氏自身の苦悩もここに反映されているのかも。その作家の悲哀と、人の評価をまるっきり意に介さず、適当に小説を書いて患者である星山氏の編集担当者に読ませて、「ねえ、いつ本になるの?」と無邪気に聞く伊良部との対比が絶妙なバランス感覚で提示されて、全体として悲喜劇となり、やっぱり笑うしかないような…

世の中の大抵の人は自分の矜持・プライドや地位、立場あるいは自分自身で作り上げてきたイメージや見栄などに縛られています。それを時として息苦しく感じたり、プレッシャーの方が勝ってしまう人も少なくないことでしょう。そうした中で、伊良部シリーズを読むと、「ああ、世の中勝手に生きたもの勝ちなのだ」と改めて考える次第です。作中で伊良部が同期の≪池ちゃん≫に「性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ」と語っていますが、まさにその通りだな、と思います。

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