徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

五来重著、『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)2016/09/24

2023年11月27日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

『石の宗教』に続き、今度は『山の宗教』です。重なる部分もありますが、こちらは特に修験道に焦点を当て、世界遺産に登録された熊野や日光をはじめ、古来崇められてきた全国九箇所の代表的な霊地を巡って、それぞれの縁起や信仰・祭の他、各地に共通する信仰の根底にあるものについて考察します。

平易な言葉で書き下ろされたものらしいですが、固有名詞だから仕方がないとはいえ、やはり漢字が多いですね。特殊な読みにはフリガナがふってありますが、それ以外にもちょっと私には読めないものがありました。

目次
第一講 熊野信仰と熊野詣
第二講 羽黒修験の十界修行
第三講 日光修験の入峰修行
第四講 富士・箱根の修験道
第五講 越中立山の時刻と布橋
第六講 白山の泰澄と延年芸能
第七講 伯耆大山と地獄信仰と妙法経
第八講 四国の石鎚山と室戸岬
第九講 九州の彦山修験道と洞窟信仰

まず、熊野修験道が一番有名なのではないかと思います。少なくとも私が前から知っていたのはこれだけで、他の修験道修行場は全く未知で、修験道の全国的な広がりに驚きました。

また、狭い洞窟を通って一度死に、出てきて生まれ変わったことになる「胎内めぐり」も何かの怪談ミステリーで読んだことがありましたが、それが修験道の洞窟信仰に繋がるとは想像もしていませんでした。

それはともかく、修験道の根底には日本古来の死生観、すなわち、「死後に霊は山に帰る」というもの、異界・黄泉の世界としての山があると著者は考察します。
しかし、罪を犯した者の霊はきちんと山に帰れず、彷徨いながら苦しむので、それを子孫が供養して山へ送ろうとする。これに伴うしきたりがさまざまある。洞窟籠であったり、供花であったり、仏教化して以降は納経であったり。
山で修行して、他人の分の罪まで一緒に滅罪する行者のように、修験道というと山伏・行者のイメージが強いですが、それだけではないということをこの本から学びました。


書評:五来重著、『石の宗教』(講談社学術文庫)2017/03/03

2023年11月08日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

『石の宗教』は3年ちょっと積読本になっていましたが、ようやく手を付けて完読しました。
賽の河原の積石やお地蔵さん、墓石に卒塔婆など仏教とは何の関係もないはずのものが日本では仏教の顔をして広く親しまれていますが、それがどこから来たのか、本書を読むことでその謎が解けます。


目次
謎の石—序にかえて
第一章 医師の崇拝
第二章 行道岩
第三章 積石信仰
第四章 列石信仰
第五章 道祖神信仰
第六章 庚申塔と青面金剛
第七章 馬頭観音石塔と庶民信仰
第八章 石造如意輪観音と女人講
第九章 地蔵石仏の諸信仰
第十章 磨崖仏と修験道

全て、元は石に神霊が宿ると考えた古来からの庶民信仰に由来するのですね。
辻に立つお地蔵さんは、実は元は道祖神で、その道祖神は元は祖霊が宿る石棒で、子孫を守ると信じられていたので、村の入り口などに立てて、悪いものが入って来ないように魔除けにしたことに由来するとか。

石を積むのも、死んでまだ浄化されていない荒魂を鎮めると同時に、現世に戻って来ないように閉じ込める意味合いもあったそうです。だから「賽の河原」の「賽」は本来は「塞」の意味があったのだそうです。この意味では、やはり道祖神に通じるものがありますね。

馬道観音と蚕の関係も実に興味深いです。

ヨーロッパでも、キリスト教の祭日に行われる様々な習俗はほとんどキリスト教徒は関係がなく、ケルトやゲルマン民族の土着信仰に文化宗教であるキリスト教の皮を被せたものだったりします。
日本でも仏教はもちろん、記紀を掲げる神道もキリスト教のように「文化宗教」の側面が強く、民間信仰はもっと泥臭いアニミズムと先祖崇拝であり、それが神道や仏教の文化的枠にはめられたようですね。その際に重要な役割を果たしたのが修験道の行者たちだったようです。

修験道も私にとっては謎な宗教でしたが、こちらは山岳信仰をベースとしており、巨岩や奇岩を磐座(いわくら)または磐境(いわさか)として崇拝する土着信仰から発展し、時と共に仏教的要素を採り入れて、絶妙な混合宗教を作り出し、悩める庶民たちの助けとなったみたいです。

明治政府が〈廃仏毀釈〉とか〈淫祠邪教の禁〉とか言ってそのような土着信仰の産物を破壊しなかったら、日本人は正しく「日本の伝統」を認識できたのではないでしょうか?