七月大歌舞伎「高野聖」
■日時:2008年7月26日(土)17:00開演
■劇場:歌舞伎座
■作:泉鏡花
■補綴・演出:石川耕士、坂東玉三郎
■出演:坂東玉三郎、市川海老蔵、中村歌六、他
昨日、泉鏡花原作のお芝居を歌舞伎座で観てきました。実は歌舞伎座初体験であったのですが、6月に観た新派公演の「婦系図」といい泉鏡花に関心が湧いてきたゆえの歌舞伎座詣でとなったわけです。(ですから歌舞伎も全く初体験、でも今回観た演目は歌舞伎というより現代劇に近いのかも知れませんが)
まず、本日はメインである「高野聖」についてです。“孤家の婦人”を演じた坂東玉三郎は、予想以上に魅せてくれる役者として舞台上にありました。絶大なるその人気の一旦のほんの僅かですがわかったような気がします。とても男が演じているとは思えないような色気をただよわせながら、人なのか魔物なのか、境界に住んでいるような魔性の女を演じてみせる。(ボクの感覚では、親仁がむしろ境界を行ったり来たりの役回りで、女はすでに彼方側に住んでいると感じるが)
今回は奮発して一等席で観たため舞台は比較的よく見えるのですが、念のためオペラグラスを持っていきました。当然役者の表情をよく観て楽しもうとそれを手にするわけです。玉三郎はどちらかというとスラッとした立たずまいなので、スリムな女性となるのでしょうが、望遠で時折、玉三郎のお尻を見てしまう自分がいたのです。いけねエ、いけねエ、玉三郎は男じゃないか。男が男の尻を見てどうするんだよ。無意識にそんなことをしてしまうほど玉三郎は妖艶な魅力を放っていました。それは立姿や振舞もあるのですが、現代風と言ったらいいのかよく書けないのですが、語尾をあっさりと言い切ってしまうような台詞回しが、また何とも魅力的で全体的にセクシーであったのです。
そして話題となっている?玉三郎と海老蔵の入浴の場面。“孤家の婦人”が積極的に海老蔵演じる僧侶・宗朝を誘惑するなかで、さりげなく言う「誰も見ておりはしませんよ」の台詞に観客席から笑いが生まれる。それは妖艶にかつ積極的に男を惑わす場面であるからこそ、ただごとではない非日常的な性的な魔性をそこで感じさせるのであって、舞台にはエロティシズムの空気か濃厚に漂います。裸になった役者二人(実際はなっていないのだろうが)、年上の男である女形(設定は年上の女)がそこにあり、背後から近づき誘惑する何層にも重なる倒錯性の渦。その緊迫したエロティシズムは観客席にも伝搬する。あるいは観る者が勝手に想像力を働かせるのか…。舞台から連鎖して観客席は過度な緊張感を強いられる。(少なくともボクはそうだった)玉三郎のさりげなく近づく時の台詞はそれを弛緩させる効果があったようにも思えたのでありました。
一方の海老蔵は、以前に彼が主演した去年の9月に観た芝居「ドラクル」の時もそう思ったのですが、派手な顔とは裏腹に悩める男の“恐縮しています”的な演技?いかにも優等生的な感じがしました。若さゆえの破天荒さ(煩悩で苦しむさま)がもっとあってもいい、ちょっとそれが弱いかなと思ったのでありました。もちろん与えられた役柄と演出が、そういった性格を作り上げていったものなのでしょうから何とも言えませんが。
今回の海老蔵は、基本的に姿勢良く立っている、背筋を伸ばして座っているといった要素が多く、動的な部分があまりなかったのでちょっと残念でありました。なぜそんなことを書くかというと、あくまでボクの持つイメージですが、最近の役者の中でもカッコよすぎる彼は、野生というキーワードが似合うような気がするからです。今回の演目がたまたまそうであったと言われてしまうかもしれませんが、清潔で惑わない、目指すべきところがはっきりしている…といった言葉が似合うような僧侶のイメージが強すぎて、もともと女に興味がないのか意志が強すぎる感がありました。やっぱり入浴の場面では、冷静さを装いながらも煩悩の葛藤の中で女に負けて抱きつかないものの、水面下では僧侶は勃起していてほしいのです。
また、この話には様々な動物に変えられてしまった元人間の男たちがでてくるのですが、それを見ていると切ない気持ちにもなってきます。男にとって日常的に一番動物性を感じるのは、やっぱり女性とある状況設定の下におかれて向き合っている時だと思うからです。紳士面して接していても面の皮をひんむくと、そこには本性を剥き出しにした動物的存在として欲情している男がいることが多々あるからです。
「お客さまがきているでしょ」と言われながらも女の足にすがりつくヒキガエル、村に売りに出されるまさにその時に荒れ馬のごとく抵抗するも女の乳房を見せられて落ち着く馬に変身させられた薬売り、それらは男としての自分という存在を、君はどうなんだと突きつけられたような感覚に陥ることとなります。つまりあの馬はあなた自身なんだよと。しかし一方で動物化されてしまい女に纏わり付くさまは、母性的存在としての“お嬢”も感じさせなくもない。もはや、魔界・異界としての孤家辺りでは女は地母神的な存在なのかもしれない。
今回のお芝居において、とても重要であったのが親仁であります。最後の長台詞によって“孤家の婦人”の事情を説明しなくてはならないからです。ここがうまく伝わらないとすべてが台無しになってしまうほど重要な部分。台詞によって女の不思議な力や洪水のこと、あるいは魔性の部分を観客の頭にありありとイメージさせなければならないからです。高野聖が成立するためにはそれを観客席が共有しなくてはなりません。それを演じた中村歌六は相当なプレッシャーであったと思います。歌六は見事演じきっておりました。素晴らしく円熟した芸の凄みを見たような気がしました。MVPものですね。
とにかく玉三郎はよかった!歌六はすごかった!海老蔵はいい男だった!ゴツゴツとした岩肌の舞台装置は目まぐるしく回転していたが、それが生きているかのようにも見えて、蘇生の泉とともに山自体が妖怪、そんな風にも感じたのでありました。
「夜叉ケ池」は明日アップの予定です。
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■日時:2008年7月26日(土)17:00開演
■劇場:歌舞伎座
■作:泉鏡花
■補綴・演出:石川耕士、坂東玉三郎
■出演:坂東玉三郎、市川海老蔵、中村歌六、他
昨日、泉鏡花原作のお芝居を歌舞伎座で観てきました。実は歌舞伎座初体験であったのですが、6月に観た新派公演の「婦系図」といい泉鏡花に関心が湧いてきたゆえの歌舞伎座詣でとなったわけです。(ですから歌舞伎も全く初体験、でも今回観た演目は歌舞伎というより現代劇に近いのかも知れませんが)
まず、本日はメインである「高野聖」についてです。“孤家の婦人”を演じた坂東玉三郎は、予想以上に魅せてくれる役者として舞台上にありました。絶大なるその人気の一旦のほんの僅かですがわかったような気がします。とても男が演じているとは思えないような色気をただよわせながら、人なのか魔物なのか、境界に住んでいるような魔性の女を演じてみせる。(ボクの感覚では、親仁がむしろ境界を行ったり来たりの役回りで、女はすでに彼方側に住んでいると感じるが)
今回は奮発して一等席で観たため舞台は比較的よく見えるのですが、念のためオペラグラスを持っていきました。当然役者の表情をよく観て楽しもうとそれを手にするわけです。玉三郎はどちらかというとスラッとした立たずまいなので、スリムな女性となるのでしょうが、望遠で時折、玉三郎のお尻を見てしまう自分がいたのです。いけねエ、いけねエ、玉三郎は男じゃないか。男が男の尻を見てどうするんだよ。無意識にそんなことをしてしまうほど玉三郎は妖艶な魅力を放っていました。それは立姿や振舞もあるのですが、現代風と言ったらいいのかよく書けないのですが、語尾をあっさりと言い切ってしまうような台詞回しが、また何とも魅力的で全体的にセクシーであったのです。
そして話題となっている?玉三郎と海老蔵の入浴の場面。“孤家の婦人”が積極的に海老蔵演じる僧侶・宗朝を誘惑するなかで、さりげなく言う「誰も見ておりはしませんよ」の台詞に観客席から笑いが生まれる。それは妖艶にかつ積極的に男を惑わす場面であるからこそ、ただごとではない非日常的な性的な魔性をそこで感じさせるのであって、舞台にはエロティシズムの空気か濃厚に漂います。裸になった役者二人(実際はなっていないのだろうが)、年上の男である女形(設定は年上の女)がそこにあり、背後から近づき誘惑する何層にも重なる倒錯性の渦。その緊迫したエロティシズムは観客席にも伝搬する。あるいは観る者が勝手に想像力を働かせるのか…。舞台から連鎖して観客席は過度な緊張感を強いられる。(少なくともボクはそうだった)玉三郎のさりげなく近づく時の台詞はそれを弛緩させる効果があったようにも思えたのでありました。
一方の海老蔵は、以前に彼が主演した去年の9月に観た芝居「ドラクル」の時もそう思ったのですが、派手な顔とは裏腹に悩める男の“恐縮しています”的な演技?いかにも優等生的な感じがしました。若さゆえの破天荒さ(煩悩で苦しむさま)がもっとあってもいい、ちょっとそれが弱いかなと思ったのでありました。もちろん与えられた役柄と演出が、そういった性格を作り上げていったものなのでしょうから何とも言えませんが。
今回の海老蔵は、基本的に姿勢良く立っている、背筋を伸ばして座っているといった要素が多く、動的な部分があまりなかったのでちょっと残念でありました。なぜそんなことを書くかというと、あくまでボクの持つイメージですが、最近の役者の中でもカッコよすぎる彼は、野生というキーワードが似合うような気がするからです。今回の演目がたまたまそうであったと言われてしまうかもしれませんが、清潔で惑わない、目指すべきところがはっきりしている…といった言葉が似合うような僧侶のイメージが強すぎて、もともと女に興味がないのか意志が強すぎる感がありました。やっぱり入浴の場面では、冷静さを装いながらも煩悩の葛藤の中で女に負けて抱きつかないものの、水面下では僧侶は勃起していてほしいのです。
また、この話には様々な動物に変えられてしまった元人間の男たちがでてくるのですが、それを見ていると切ない気持ちにもなってきます。男にとって日常的に一番動物性を感じるのは、やっぱり女性とある状況設定の下におかれて向き合っている時だと思うからです。紳士面して接していても面の皮をひんむくと、そこには本性を剥き出しにした動物的存在として欲情している男がいることが多々あるからです。
「お客さまがきているでしょ」と言われながらも女の足にすがりつくヒキガエル、村に売りに出されるまさにその時に荒れ馬のごとく抵抗するも女の乳房を見せられて落ち着く馬に変身させられた薬売り、それらは男としての自分という存在を、君はどうなんだと突きつけられたような感覚に陥ることとなります。つまりあの馬はあなた自身なんだよと。しかし一方で動物化されてしまい女に纏わり付くさまは、母性的存在としての“お嬢”も感じさせなくもない。もはや、魔界・異界としての孤家辺りでは女は地母神的な存在なのかもしれない。
今回のお芝居において、とても重要であったのが親仁であります。最後の長台詞によって“孤家の婦人”の事情を説明しなくてはならないからです。ここがうまく伝わらないとすべてが台無しになってしまうほど重要な部分。台詞によって女の不思議な力や洪水のこと、あるいは魔性の部分を観客の頭にありありとイメージさせなければならないからです。高野聖が成立するためにはそれを観客席が共有しなくてはなりません。それを演じた中村歌六は相当なプレッシャーであったと思います。歌六は見事演じきっておりました。素晴らしく円熟した芸の凄みを見たような気がしました。MVPものですね。
とにかく玉三郎はよかった!歌六はすごかった!海老蔵はいい男だった!ゴツゴツとした岩肌の舞台装置は目まぐるしく回転していたが、それが生きているかのようにも見えて、蘇生の泉とともに山自体が妖怪、そんな風にも感じたのでありました。
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>魔界・異界としての孤家辺りでは女は地母神的な存在なのかもしれない。
慈母の女神シバと復讐の女神カーリー他,山姥,鬼女,みんなまとめた最強の女神でした。
まっすぐな論考,拝読させていただきありがとうございました。
最強の女神とはなかなか鋭いご意見です。肉体的な強さは男にはあっても精神的な強さというか生命的な強さは圧倒的に女性の方が強い!!です。
やっぱり高野聖は若い設定なので、お色気でちょっと悩み苦しむ方がリアルかなと思いました。また見てやってください。
この度はTBありがとうございました。
初めての歌舞伎座だったのですね。
現代劇の劇場と違う楽しさを感じられたのではと思います。
私も海老蔵が静的な演技に徹したのは役柄ゆえのことだと思います。宗朝は慈悲深い聖として描かれているので精神面が表に出るような演技になったのかと。飾釦さんの想像のように下半身が変化していたら、馬になっていたのでは(#^^#)?
初の歌舞伎(といっても純粋な歌舞伎と云えるのかわかりませんが)は、すばらしくまた観てみたい気持ちになりました。
ところで、宗朝の下半身については、顔は冷静、でも下半身は火の車。行動に移せなかったのは僧になるくらいだから内面的な性格で、ドキドキしてしまい勇気がなかった。馬にならなかったのは自制する力というより、シャイな性格的なものによるという風に理解したいのであります。
そうであれば、最後の親仁の台詞の台詞が生きてくるように思いました。
やさしさだけで女の元に留まろうと思うなら、正体を知っても留まろうと思うのでは。。
女の元に残りたいと思うのも煩悩だし、妖女から逃れようとするのも、生への執着…若い僧らしい迷いが、サラリとした文で、深く表現されているのが鏡花だと思うのだけれど。。
私の感想に賛同いただきありがとうございます。おっしゃるように「サラリとした文で、深く表現されているのが鏡花だ」というのは賛成です。
それがかえって濃厚なエロティシズムを醸し出しているように思います。情報化社会で何もかもが曝け出されてしまう中で、この抑制された感覚が新鮮であります。
また、ブログを見てやってください。