言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

推進者は、その問題点を指摘すべきである。

2016年10月03日 10時42分21秒 | 日記

 先日の学習会に出ての感想の続き。

 教訓である。

 1 説明は長く、質疑応答は徹底的に。

 2 すべてにおいて完璧なものはないのだから、長所だけでなく問題点も指摘すべき。

 3 誠実にすること。

 今の教育の何が問題なのか、といふことの指摘が不十分であると感じた。グローバル社会に対応するために、応用能力と教科横断型の知識を身につけさせるといふことが大事だと言ふ。総論は賛成である。しかし、たとへさうだとしても、果たして従来型の教育の精度を上げるといふ努力をしてゐるだらうか。その上で、新しい教育が必要だと考へてゐるだらうか。それが不明である。

 有り体に言へば、男女御三家や灘や甲陽や東大寺が、アクティブラーニングや「知の理論」をやつてゐるだらうか。それとも、これまで偏差値で作り上げた「階層社会」を壊すために、今までにない指標を持ち込み、新たな「階層社会」を作らうとでも言ふのであらうか。それも不明である。

 アクティブラーニングや知の理論を運用してゐる先生たちには、あまり知的な興奮を感じない。教養を感じないのである。スマートでニコニコしてゐるが、愛想の良いセールスマンのやうな印象である。それは思ひやりや包容力とも違ふものである。明るくつて人当たりはいいが、何かあると牙をむいてきさうな感じである。

 私たちは日本の教育を考へてゐるのである。排斥的なものではいけないが、異国のものを素直に受け入れろといふだけではたぶん本物にはなり得ないだらう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする