言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

いい加減にしろ、「クリティカルシンキング」。

2016年10月02日 10時07分14秒 | 日記

 昨晩遅くに東京より戻つてきた。「知の理論」の学習会を終へ、再会を楽しみにしてゐた恩人と浅草で夕食を共にしてそのまま界隈を散策して戻つてきた。楽しい一日であつた。

 しかし、前半の学習会は不作であつた。期待値が高かつたからかもしれないが、どうにも食ひ足りないといふ思ひが強い。「知の理論」そのものといふよりも実践例があまりに冴えないのである。

 今日は、同業者への手厳しい批判になるので、気持ちを害されるかもしれない。それでもよければといふ条件付きで以下をお読みいただきたい。

 

 「眼高手低」といつたらいいのか、いやそもそも「知の理論」の理念自体も極めて志が低い。「知の遊戯論」といつた方がいいのではないか。そして、何より実践してゐる教員の理解が低い。

 第一に活動自体に理念がない。「批判的精神を養ふ」といふことを何度も強調されてゐた。それはなぜか。「平和と民主主義」のためである。きつぱりと自信満々に言つてゐた。「本国アメリカでもさうです。」「国家にだまされない国民を作ることなのです」と言つてゐた。冗談を言つてはいけない。学校は国家の支援と保護のもとにあつて、単なる制度でしかない「民主主義」と、政府の無策による「平和」をしか意味しないものを理念として掲げるのであれば、それは制度に寄りかかつた日和見の国民しか生み出さない。批判はポーズでしかなく、それを真面目にやれば、生徒は「さうか、平和と民主主義を守るといふポーズが大事なんだな」と思ひ込むやうになる。それで本当によろしいのか。そのための擁護論として「知の理論」があると思つてゐるのなら、相当のレベルで「批判的精神」が足りない。クリティカルシンキングを大上段に構へて力説する団体としては、致命傷ではないか。

 具体的な例を挙げる。

 講演者の一人が、ある本についてのアマゾンレビューを取り上げてゐた。本と、そのレビューとを引く。

 

トップカスタマーレビュー

 書籍としては、国際バカロレアの程度の低さを教えてくれるので優秀。国際バカロレアの数学の問題を見て驚きました、簡単過ぎます。教科書の例題レベルです。センター試験数学で平均点をとれる子が1カ月対策すれば満点に近い点をとれるでしょう。この程度のレベルで正規分布が得られているなら日本人の学力は世界一です。こんな試験が推薦で高く評価されては他の試験で高得点を取った子がかわいそうです。日本の入試を褒めましょうよ。身内を褒めないのを日本人は美徳と考えますが、外国の試験をほめすぎです。隣の芝生は青い、とよく申しますがバカロレア賛同はまさに、隣の芝生は青く見えている状態でしょう。
 少し脇道にそれます。では日本の東大をはじめとする大学で教育を受けた場合、バカロレアで平均点を取った程度の学生では講義についていけないか?といえば、そんなことはないです。十分についていけます。日本は入学試験が極端に難しい。もう職人芸を要求しています。今の狭い教育課程を深く深く学ぶよりは、大学の数学科の学部の教科書の優しい例題くらいまでを高校三年間で浅く学んだ方がいいです。(難易度が逸脱しないようしっかり監督して)。今の受験の特異な職人芸は不要です。浅く広くやれば同じ労力でそのくらいにまで到達します。特異な職人芸を上達させるために費やされた高校生の努力は研究における国際的な競争力にほとんど寄与していません。むしろ疲れ果てさせて大学をゴール後の休憩所みたいにさせてしまっています。
 
 これを読み上げた後に、前段と後段とが「自家撞着」を起こしてゐることにこの筆者は気付いてゐません。さういふことを気付くやうにさせるのが「クリティカルシンキング」です、と言つた。
 この文章のどこに「自家撞着」があるだらうか。前段は、バカロレアの数学は易しすぎて日本の大学入試の方が優れてゐると言ひ、後段は、それに引きかへ入学してくる生徒を教へる大学の数学教育の質が問題であると言つてゐるだけで、至つてまともな主張である。つまりは、日本の数学教育の問題は中等教育にあるのではなく高等教育にあるのだ、もつと言へば、国際バカロレアなどといふ植民地主義を擁護しその正体を隠蔽しようとする理論をありがたくも押し戴いて中等教育を改革しようなどとくれぐれも思ひなさんな、問題は大学ですよといふことである。
 それをこの講演者(関西の私立学校の教員である)は、どうも自分たちが取り組まうとしてゐることを「批判」されたやうに誤読して、あらうことか自ら称揚する「クリティカルシンキング」で馬脚を表してしまつたのである。可哀相であつた。その後二時間講演は続いたが、もう白けて聞く気になれなかつた。著作権は無視の資料作り。英語の翻訳をグーグルでしたものを読ませて採点させて「知の理論」の評価方法について力説する始末。まさにお粗末であつた。
 かういふレベルで学習会をしてゐるかぎりでは、「知の理論」は気の毒である。「知の理論」の欠点の第二は、真剣さがないといふことである。新しいものを作り出していくには、研ぎ澄まされた知性のきらめきと、その背後にどれぐらゐ深いものがあるだらうと暗示させる迫力がなければならない。講演者自身がいみじくも言つてゐたが、ああいふ「教育漫談」では学校の変革はできない。ユーモアはあつてもいい。いやユーモアはなければならない。しかし、弛緩した精神とユーモアとは違ふ。
 
 東京まで出かけて、怒りを抱いて帰つてくるとは我ながら情けないが、「TOK(知の理論)」の実態を見たといふ意味では有意義であつた。
コメント
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