言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

手段と目的と

2015年01月18日 09時13分12秒 | 日記
 フランスで起きた三人の青年によるテロに対して、主にヨーロッパの人々が、私には過剰とも思へる反応をしてゐる。非一神教圏に生きる私たちには到底知ることのできない事情があるのかもしれないが、やはり異常と言つて差支へないであらう。

 そもそもフランスは、ジャン・ジャック・ルソー以来、人工的に「人権」なるものを造り出し、それを普遍的価値であるかのやうにして思想的に国民が武装してゐる国家である。私たちも案外さういふ説を信じてしまひがちであるが、人権が天賦されてゐるのであれば、それを保障することも絶対的な正義となつてしまふ。いま保障されてゐない「人権」があれば、ただちに是正せよといふことが絶対的に正しいこととして要求されるのだ。しかし、すべては段階を踏まへていくべきものである。それぞれの国の文化は、人権についてどう考へてきたのか、人格とはどう関係があるのか、さういふ吟味熟考を経て少しづつ変革がされていくといふのが、結局は持続性を獲得していく改変である。

 教育に携はる者としては、人格と人権は絶えず両にらみしてこのことを考へざるを得ない。授業中にトイレに行きたいと申し出る生徒の出現といふ極めて小さな日常の場面でもさういふことは起きてゐるのである。

 さて、今回のテロについてである。果たして襲撃された新聞社の風刺画が「表現の自由」の権利が保障すべきものであらうか。人格の次元で吟味熟考されてゐるとはとても思へなかつた。もちろん、テロ行為自体は全く同情の余地はない。しかし、パリの街頭に立つて多くの国家の代表者や市民がテロへの非難を叫ぶのにも賛同はしかねる。その伝でいけば、テロと言ふ表現の自由を行使しただけだといふ理屈をどう論難するといふのであらうか。法律で許されたことと許されないことといふ線引きは当然ある。しかし、その法律の背景には人間の常識といふものがあるのであつて、人格の陶冶はその次元のことである。表現の自由は言はば手段の次元の話であつて、それには当否の問題があるし、人格の陶冶は目的の次元であり、そこには当否を問ふ必要はない。あのルソーでさへ「自然に帰れ」と叫びつつもそこに踏みとどまれずに「一般意思」を信じて社会契約説へと傾いたのには、「自然」(=自我)への懐疑があつたからではないか。となれば、自我の否定を含まない表現の自由なるものは虚妄であり、それをいくら多数が信じたとしても所詮それは「一般意思」とは似て非なる「全体意思」にすぎない。

 目的と手段といふことのついで言へば、こんなことも思ふ。

 「学生時代を後悔したくないので一生懸命やる」とある大学生が言ふのをさきほどテレビで見た。なるほどそれはいいことだらう。しかし、「後悔したくない」が一番大事なこと(目的)であれば、学生時代の目標を下げればいいだけでないか、といふ疑問を抱く。「留年はしない、いや、一留まではしかたないかな、いやいや卒業だけはする」などと目標をさげれば確かに後悔はしないだらう。しかし、それでは目標とは言へまい。となれば、最も大事なことは「後悔しない」といふことではなく、目標を高くする、人生を豊かにするといふことである。これが目的である。「後悔しない」は手段の次元の話であらう。「後悔してもいいからとにかくやつてみる」、それこそが学生に発言してほしい言葉である。

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遠藤浩一先生 一周忌

2015年01月05日 08時52分10秒 | 日記
昨年の1月4日、55歳といふ年齢で遠藤先生が亡くなられた。その前々日の「正論」にお書きになられてゐたので、今年もまた御健筆を楽しみにしようと思つてゐた矢先のことで、愕然とするばかりであつた。

そして一年。先生の示された政治の理想や文化の再発見はその端緒も見えないが、時間だけは確実に過ぎてしまつた。遺された書物はその秘めた構想や理念からすれば余りにも少ないが、読み返していくしかない。

改めて御冥福をお祈りします。


小澤征爾―日本人と西洋音楽 (PHP新書)
遠藤 浩一
PHP研究所
戦後政治史論―窯変する保守政治 一九四五‐一九五二
遠藤 浩一
勁草書房
福田恆存と三島由紀夫〈下〉―1945‐1970
遠藤 浩一
麗澤大学出版会
福田恆存と三島由紀夫〈上〉―1945~1970
遠藤 浩一
麗澤大学出版会

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嵐山散策

2015年01月03日 10時24分46秒 | 日記
 正月の京都(嵐山)を散策した。用事ができて京都に出向くこととなり、阪急電車に乗つて一路烏丸まで行くつもりでゐたが、桂駅の停車時間にふと思ひ立つて嵐山経由で行つてみることにした。

 以前、国際日本文研究センターの早川先生のところに行つて以来だから、もう五年ぶりにならうか。家内は初めてといふので、では行かうといふことになつた。昨年だつたか、大雨による洪水で嵐山は被害を受けたと道々話題に上つた。雪が残つてゐるものの、ほとんどがとけかけてゐる。しかし、風は冷たい。写真は桂川にかかる渡月橋からのものと、天竜寺の裏の竹林の景色である。

 外国人が多く、さすが京都と思つたが、そのほとんどはやはりアジア人。なかでも韓国人や中国人が多いやうであつたが、彼らが日本の神様にお参りいくことに何も感じないのか不思議であつた。

 以前御馳走になつた廣川といふ鰻屋に寄らうと思つたが、表に値段も書かれてをらず、建物もずゐぶんと大きくなつてしまひ、気後れしてやめた(この辺り、小心者の通弊である。今年も変はらないだらう)。あとで値段を調べたらさうでもなく、後悔した。

 烏丸までは、京福電気鉄道(らんでん・嵐電)に乗つた。路面電車も久しぶり。途中に太秦があるが、その直前に「暴れん坊将軍」の音楽が流れ観光地らしい演出なのかもしれないと思つたが苦笑してしまつた。同じく太秦にある国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像のある広隆寺はどうでもよいのかな。まあ、さういふ私も中学校の修学旅行以来行つてゐないのだから、何も言へないが。

 冷たい空気に触れながら歩いた京都はとても良かつた。
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謹賀新年

2015年01月01日 00時40分33秒 | 日記
明けましておめでたうございます。

皆さんにとつて佳い年でありますやうに。

そして、今年も良い本に出会へますやうお祈りして来ようと思ひます。

まづは芦田宏直氏の『努力する人間になってはいけない』から。間もなく読了。面白かつたです。その真意は読まないと誤解されますね。逆説を弄する嫌ひが多分にありますが、そこが本書とこの著者との魅力です。生まれて初めて紅白歌合戦を最初から最後まで見ましたが、それもこの人のブログに貼り付けられてツイートの面白さからでした。微分された時間を共有する楽しさも、この著者から教へられました。
努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論
芦田宏直
ロゼッタストーン
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