デカルトの「我思ふゆゑに我あり」は、近代の出發を高らかに宣言する産聲であると同時に、個といふものに執着する近代人の方向性を決定附けた聲明でもあるやうで、後期近代の今日ではあまり良い意味では使はれないのであるが、前囘紹介した『ぼく、牧水』の中で、堺さんはかう發言してゐた。
「デカルトの『われ思う。ゆえにわれあり』というのは、ずいぶんと肯定的、樂觀的なんだ」
これを讀んで、驚いた。デカルトのあの言葉を自己肯定の意味で捉へるのか、と。かういふ捉へ方は簡單に出來さうで、實は出來ないのではないか。
人は一人でゐることに寂しさを感じる。特に、思春期の頃は一人でゐたいといふ思ひと同時に友人のゐないことを異常に寂しく感じるものだ。ましてやもたれかゝつて生きて行くことに喜びを見出し易い私たち日本人は、一人でゐることの充實感よりも孤獨に耐えられないことの辛さを感じてしまふ。いじめや惡口に過剩な反應をしやすいのも、自己の信念よりも他者の視線に敏感になり重視してしまふからである。その結果、結果的に自分が分からなくなり自信を喪失し、殼に閉じ籠つてしまふことにもなる。「俺はいつたいなぜゐるのだらう」「僕はどうして生れたのだらう」。
そんなときに、他者の一切介在しない空間で「我思ふゆゑに我あり」といふ言葉を噛みしめれば、きつと心は支へられるに違ひない。ずゐぶんロマンティックな解釋であるが、「デカルトの救ひ」とも言へる、言葉の救ひをそこに見出すことが出來よう。
近代とはずゐぶんと悲慘な時代であつた。思想も、戰爭も、そして人間破壞も、家庭破壞も、環境破壞も世界的なものとなつた。しかし、それでも個人といふものの誕生なしには、個の否定や全體への覺醒も起きないのだとすれば、必要な時代でもあつた。悲痛な時代であるが、その近代の産聲である「我思ふゆゑに我あり」は、實はあたたかい肉聲でもあつたのである。「考へてゐるだけで、君には生きてゐる意味がある」――デカルトがさうささやいてゐるやうに聴こえた。