留守先生の講演會が無事終了。遠くは千葉縣からも來場し、時間を延長しての御講演に聽衆の一人として私も感動して歸路についた。それから、拙ブログを御覽になつて來てくださつた方もいらつしやり、この場を借りて厚く御禮申し上げます。
以下は、講演の要約ではありません。講演内容や話題の順序など正確なものではありません(私の感想も含まれてゐます)ので、これを根據に何かを論じることは御辭めください。
最初に話されたのは、ジョージ・スタイナーの言葉だつた。出典は言はれなかつたが、ロレンスの「自分の感情でないものを無理に自分に押付けることをセンチメンタリズムといふのだ」を引かれて、この感傷的な言葉が、言ひ換へれば、きはめて觀念的な、嘘の言葉が、いまは多過ぎる、といふことを話された。嘘の情緒に溺れてゐるといふ意味では保革の差はないのである。
用意されたレジュメには、さういふ「感傷的な言葉」とは隔絶された二六の言葉が記されてゐて、それを讀むだけで、日常を自省するには十分であつた。
その一つ目は、ジョージ・スタイナーの言葉。「偉大な作品は全て永遠を求める根強い慾望から生れる。死と鬪ふ精神の嚴しい努力から、創造によつて時間を超越しようといふ希望から生れる」。かういふ精神の構へからうまれた文學こそ、文學なのである。さう言ひ切られた。
講演に先立つて、私の親しい批評家の論についての意見を交したときには、ばつさり「それは文學ではない」と言はれた。頷けるところもあり沈默するしかなかつた。西洋の思想家や藝術家を立派だと思つて崇めても、彼らと「私」とは違ふと言ふことを心底で知らなければ、單なるセンチメンタリズムである。「自ら行ふを勤めず、好んで無當の大言をなし、聖人となるも、善國となすも、茶漬を食ふが如くに言ふ者多し」(松陰)とは、まさしくさうであらう。さう「書け」ば、さう「なつてゐる」と思ひ込んでしまふのは、文筆家の嚴に戒むべきことである。
また、保守の思想家の對米論にかかはつて色色なことが言はれるが、アメリカニズムの弊害だけをとらへて反米を口にする人も、日米同盟を米英同盟まで高めよと言つて親米を口にする人も、いづれも「西人は機知の民たるを知りて、徳義の民たるを知らず」(鴎外)であり、日本人と「西人」との違ひを知らな過ぎると兩斷する。彼らには、アテナイとエルサレムといふ精神の二源流が明確にある。私たちには、それがない。その「ない」といふことを知ることが肝心なのに、今日の言論人にはそれがない。しかし、少なくとも士魂をもつた過去の人物には、「西人」の中にある「徳義」を見ることができたのだ(徳義を重んじる人にしか、相手の徳義は理解できないといふことなのだらう)。
されど、私たちは西洋化して行かざるを得ない。露伴の言葉が印象的に引かれた。「牛肉を食はなかつた昔には戻れない」のである。
もちろん、「西人」と私たちとの間に逕庭の差があるやうに、士魂の民と私たちの間にもそれはある。そのことの自覺なくして、單なる「偉人傳」を書いても意味はない。留守先生の栗林論が絶えず自省的であるのは、さういふ意識があるからだらう。
最後の四〇分ほどは、林子平について語られた。『海國兵談』はいまは絶版であるが、何とか手にして一讀をと勸められた。その合理的な精神、嘘を排して、もつぱら實用に徹する言は、士魂の民に共通するものであるやうだ。ただ、愚直の言には悲哀もあつて、「中々に世の行末をおもはずば今日のうきめにあはまじものを」の歌も引いてゐられた。「直情徑行の獨夫なる」子平は、しかしながらそれでも自ら版木を彫り、後の時代に向かつて直言を言ひ續けた。さういふ子平を子平たらしめたのはなにか。調べれば、子平の父がさういふ生き方をしてゐたのであるといふ。また、士族であつたといふことも重要な條件でもあらう。士魂の民の復活は、いますぐにありえまいが、無魂の「私」であることを知ることはできよう。その意味で、士魂の民の書を讀むことは必要なのである。
なほ、松原正氏の『夏目漱石 下卷』はすでに書き上がつたとのこと。そして、松原先生の文章をまとめる計畫を御持ちであるとのことでした。
餘談――福田恆存は、「日本は國ではなく島だよ」と言はれたと言ふことをうかゞつた。海に圍まれて他國と接してゐないだけであつて、國の體をなしてゐないといふことである。さうであるか。