言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

尾崎豊論 2

2012年12月29日 20時24分22秒 | 文学

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お墓参りのことから、書くことになろうとは思わなかった。ほかのことから書き起こすことも、考えていたのに、いま自然と筆は尾崎豊の墓について書いている。<o:p></o:p>

 

あっさりと白状してしまえば、私はこの書きはじめに思案して二年ほどが経ってしまったのである。そして色々なことが頭に浮かび、実際書きはじめてもみたのであるが、いずれも十枚を満たずして、筆がぱたりと止まってしまうのである。それはちょうど、ピラミッドの秘宝を掘りあてるべく探検していきながら、あと一歩のところで行き止まりになってしまうといった感じであった。確かにそこに尾崎豊はいるのであるが、そのときの私ではどうにもそれ以上は迫れないという限界であった。死後のファンである私には、どうしてもひけめがあったのかもしれないのである。<o:p></o:p>

 

しかし、尾崎豊に対する私の接近が彼の死であったとしたら、やはりそのことについて書いたほうがいいだろうと思った時、意識は自由になった。まさにお墓から私と尾崎豊との関係は始まったのである。<o:p></o:p>

 

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はじめにお墓を訪れたのは、平成六年の十月である。日曜日の昼下がり、友人の車で行った。当時私は、尾崎豊が中学時代を過ごした練馬区の春日町の近くに住んでいた。これはまったくの偶然であったから本当に驚いた。<o:p></o:p>

 

彼の墓がある所沢には、関越道で行くのが一番早いから、それに乗るのだが、関越は練馬が始点である。私の家から、というより尾崎豊の幼少の頃の家からも、関越には十分ほどで入れる。しばらく行くと途中には、かれが高校時代を過ごした埼玉県の朝霞市が右手にあって、何やら彼の生涯をたどっているような気さえしてくる。<o:p></o:p>

 

そして目的地は墓地だ。誰かが意図的に仕組んだのかと思われるほど、それは出来すぎた巡礼の道であった。<o:p></o:p>

 

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はじめて行くところなのに、まったく道に迷わなかった。西部球場の手前の道を左に曲がって、小高い山なりに道を登ると霊園がある。車が十分通れる道沿いに、尾崎豊のお墓がある。一番手前にあって、花に覆われた彼のお墓は一目でそれとわかる華やかさがある。ファンの人たちが置いていったノートや手紙がたくさんあった。掃除をしている女性もいた。たたずんでいる青年もいた。<o:p></o:p>

 

彼らは一様に物静かで、一人尾崎豊と対話しているような姿であった。孤独を知り、そして自分だけの孤独を知ってくれる一人の人物に出会い、はじめて心を開いて話せる存在をつかみながら、その存在が勝手に消えていってしまった。だから、その別れにはある種の儀式が必要である。墓前にたって、一人一人が別れの挨拶を交わしている様は、まさしく孤独な彼らの儀式であるように思われた。<o:p></o:p>

 

そういえば、尾崎豊が亡くなったときもそうであった。葬儀が行われた東京の護国寺には、四万人という参列者が訪れていた。列の長さが二キロにもなった。中には地下鉄の護国寺駅では降りられないと知るや一つ前の駅で降りて歩いて来た人もいたという。<o:p></o:p>

 

冷たい雨の降る平成四年(一九九二年)四月三十日のことである。<o:p></o:p>

 

歌を歌い、あるいはそれを聴いている若者が多くいた。嘆きの心情をどうにかして抑えようと必死にあがいている人間の姿であった。<o:p></o:p>

 

「受け止めよう」<o:p></o:p>

 

しかし、彼らは静かだった。<o:p></o:p>

 

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『新日本学』に寄稿

2012年12月23日 22時37分52秒 | 告知

拓殖大学日本文化研究所が発行してゐる『新日本学』の27号に論文を書かせていただいた。タイトルは、「福田恆存と『絶対』」である。

従前より、私は「絶対」といふ言葉の人々の使ひ方が間違つてゐると思つてゐた。西洋には絶対者がゐるが、日本にはゐない、さういふ言ひ方がされることが多い。私の論文にも「神のゐない国のハムレット」といふ尾崎豊論もあるが、それはあくまでも「いはゆる」といふ意味である。

しかしながら、絶対者が絶対であるならば、私たち日本人がどう思はうが関係はない。相対的な存在の思惟に関係なく存在するのである。その意味で、絶対者を絶対者として認めたキリスト教は、もはや宗教ですらない。内村鑑三が言ふ通りである。

福田恆存は、そのことに気づき、その存在との関係で自己を意味づけ、日本の近代のあり方を批評した。その点で、日本の伝統や文化を価値基準とする保守思想家とはまつたく違つてゐる。

さういふ点を書いたものである。わづか三〇枚ほどであるが、今の私の精一杯の福田恆存論である。

お読みいただければ幸ひである。

新日本学 第27号(平成25年冬)―季刊
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時事評論 12月号

2012年12月15日 15時33分07秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   12月號が発刊された。

                 ○

  明日は選擧。政權交代の三年前から、別の意味で政權は交代してもらはなければ困る。しかし、それはどこかの政黨にといふのでもない。公明黨と聯立をなどど選擧前から言つてゐる自民黨の安倍氏には期待ができないし、維新の石原氏は大言壯語で奇を衒ひ過ぎてゐる。政治家の當落だけが選擧の關心事であるとは情けないではないか。

    先月も書いたとほり、 政治家の言葉の輕薄は目に餘る。落選することだけを恐れて、次の選擧のことだけを考へて生きてゐるから、さうなるのである。さういふ事態を前にすれば、一票の格差だとか、議員定數の削減だとかは、瑣末なことである。

    政治家を支へる國民の不在、言葉を蔑ろにした國民の爲體、それを論じる言論こそがいま必要である。

    今月の「この世が舞臺」はコルネイユの『オラース』である。高尚な人間を描く小説は私たちの文化にはあまりない。       

              ☆        ☆    ☆

12・16民主黨政治に壞された

      ――「日本を取り戻す」選擧    3年前の轍を踏むな――

       ジャーナリスト  山際澄夫

● 

爭點はあくまで「民主黨政權3年の惡夢の總括だ」

         ジャーナリスト  伊東 要

教育隨想       

      總選擧のまへに考へる――この國の外交と教育 (勝)

民意と政治「決められる政治」の洗濯に向けて

                   國士館大學特任研究員   山本昌弘

この世が舞臺

     「オラース」コルネイユ                              

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        新政權は「公の理」に立て  (菊)

        「專門家」の弊害 (石壁)

        進み出した中東の近代化(星)

        民主主義の虚構(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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長谷川三千子女史が新仮名で「正論」

2012年12月06日 20時42分52秒 | 国語問題

 昨日、職場でコーヒーを飲みながら産経新聞の「正論」を讀んでゐたら、長谷川三千子さんが新仮名遣ひで書いてゐた。あれ、どうしたのだらうか、といふ疑問が浮かんだ。歴史的仮名遣ひを使つて来た人間に新仮名を強制したのだから、仮名遣ひについて説明をする必要があるのは、むしろ新仮名論者の方と言つてゐた方のこの「異変」である。何か事情があるのだらうか。ただ不思議といふことだけは書き留めておかう。

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尾崎豊について

2012年12月05日 21時05分43秒 | インポート

 先日、東京に行つた時に、たまたま尾崎豊のフィルムコンサートをやつてゐるのを知り、これも偶然に空けておいた時間をそれにあてて出かけてみた。

 1991年の横浜アリーナでのコンサートである。birthと名付けられたこのコンサートは生前最後のツアーになつた。もちろんそのことは本人もそこにゐた観客も誰一人として知ることはなかつた。が、今見る私たちは、そのことを知つてゐる。だから、それを意識してしまふ。さうしてみると本当に切ないのである。歌をきちんと歌つてゐた。久しぶりだから歌詞をたくさん間違へてしまつたと照れながら最後に言ふ姿も誠実さに見えた。歌がうまい。それだけで十分である。誰も意味など考へてゐない。聞かせる声があれば、思ひを乗せられる曲があれば十二分に満足なのである。

 大阪でもやつてゐることを知つた。もう一度行つてみたい気さへする。それほどに良かつた。しかし、客は少なかつた。

 以前、「尾崎豊――神のゐない国のハムレット」といふ百五十枚ぐらゐの原稿を書いたのであるが、今探してみても見つからない。ノートに取りながら書いたものであるから、ノートはきつと倉庫にでもあるかもしれないが、原稿はフロッピーに入れたまま、それがどこかに行つてしまつたかもしれない。

 ただ、その草稿は見つかつたので、それをしばらく掲載しようと思ふ。じつは、福田恆存についても書きたいことがあるのだが、なかなか時間を取れないので、それでもあまり更新がないと飽きられてしまふと思ふから、ウメクサ原稿として載せるまでのこと(こんなことを書くと尾崎豊の価値を下げてしまふやうに感じる方もゐるかもしれませんが、そんなことはどうぞ言はないでください。言葉のあやです)。

 以下は、私の二十代の原稿だから、関心も思考も今とは変化があるかもしれない。が、字句の訂正以外はそのまま載せて見ようと思ふ。もちろん、ひどいにも限度があると思へば、当然やめてしまひますが、それはお許しください。また、こんなにひどいのに、お前はこれでも限度をこえたひどさだとは思はないのかなどと突つ込みをお入れになるのもおやめください。大人気ないことはおつしやらないやうに。

 といふことで、第一回は、以下の通り。

十七歳の地図 十七歳の地図
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発売日:1991-05-15

 

尾崎豊の社会学<o:p></o:p>

 

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第一章 「――」 尾崎豊の悲劇とカタルシス<o:p></o:p>

 

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「勝てるかな」<o:p></o:p>

 

尾崎豊の最期の言葉は、この言葉だったと言う。生涯の終わりに語る言葉がその人の本質を証すものであるとしたならば、この言葉はまさに尾崎豊その人の本質を語っていると言っていいだろう。<o:p></o:p>

 

なぜなら、彼こそは闘っていたのだから。<o:p></o:p>

 

では、何と闘っていたのか、私の関心はそのことに尽きる。この四年間、ある時は歌を聴き続けたり書き写したりしたし、ある時はわざと歌を聞かずに忘れようとしてもみた。別の言い方をすれば、それは彼の心中に入るような努力でもあったし、突き放して彼の存在を客観的にみる努力であったということになろうか。<o:p></o:p>

 

いずれにせよ、私の手懸りはただ彼の遺してくれた歌だけである。近づくにしろ遠ざかるにしろ私には「歌」しかない。あえて伝聞には頼ろうとは思わなかった。生前も死後も尾崎豊を題材にした出版物は多くあるが、私はそれを参考にしようとは考えなかった。<o:p></o:p>

 

もちろん、親しい友人や家族達だけが知っている「尾崎豊」というものもあるのだということは十分承知しているが、それにはあえて頼らなかった。私は尾崎豊の歌によって彼に出会ったのであるから、彼の存在自体の魅力や彼がもっている社会的な意味を、「歌」だけを手懸りにしたいと考えたからである。<o:p></o:p>

 

ただ、お墓には三度訪れたことがある。たいへん立派なそれは、尾崎豊に似つかわしくないともいやとても派手好きな彼にはお似合いだとも思いながらも、そこにはなにか引き付けるものがあった。私には特別の霊感があるわけでもなく、そこに行けば何か閃くことがあったわけでもない。ただ線香に火をつけ、花を供えて、祈る、それだけの墓参ではあったが、どうしても行ってみたいとう衝動が今までに三度あったということである。はたしてそれが多いのか少ないのかは判断がつきかねる。そしてその必要もないだろう。<o:p></o:p>

 

生前の彼に一度もあったことのない私には、ただ最低の礼儀として墓参に伺おうとする気持ちがひょっとしたらあったのかもしれないが、それとて衝動にまでは至るまい。ただ私は心がうずいてお墓に行ってみただけである。<o:p></o:p>

 

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