(承前)
歴史的假名遣ひの文字のやうに發音をしてゐないのだから、例へば「帽子」を「ばうし」と書く必要はなく「ぼうし」で良い、これが「発音が歴史的に区別が無くなって来たら、それに応じて区別無しに書くべきだ」といふことである。ただし、この邊りの金田一の論旨は、大變に讀み取りにくい。現在の散文のスタイルから言へば惡文と言へるほどで、理解しにくいことは確かである。
そこで私なりに要約すれば、現代の發音通りに書けといふことである。しかし、金田一が擧げてゐる例は、字音假名遣ひ(漢字の讀みの表記)ばかりである。ここに誤魔化しがある。字音の根據は、支那のそれも移入當時の發音に根據をおくもので、現在まで墨守することに意味があるとは思へない。そもそもが異國の發音なので、それを現代の發音に合せて表記しても、これまでの國語の體系が崩れることがない。かうしたことについては、丸谷才一氏の『桜もさよならも日本語』に收められた「言葉と文字と精神と」に完結に述べられてゐる。今も新潮文庫に入つてゐるだらうから、御一讀を御薦めする。そして、この點においては福田恆存ほどの保守性を私は持つてゐない。福田は字音についても歴史的假名遣ひを主張してゐるからである。
金田一はどうして字音を例に、自身の「現代仮名遣い」論を展開したのであらうか、疑問である。そもそも金田一が批判した小泉信三は、字音假名遣いについて言つたのではなく、歴史的假名遣ひについて言つたものなのにである。「論點ずらし」としてもどうにも稚拙で、論爭にならない。
今日から見ると、どちらが「国語の歴史的観念」を持つてゐたのかは明らかである。國語の傳統にどちらが則つてゐたのかは、あらうことか京助の息子である金田一春彦が、福田恆存の追悼文で次のやうに記してゐる。
「福田君は、漢字制限も新仮名遣いも反対だった。それをはっきり書いたのは『私の國語教室』という著書だった。私は賛成できなかったので、いつかは『読売新聞』紙上で対決をしたことがあった。当時は福田君がいくら叫んでも仮名遣いがもとに戻ったり、漢字が無制限に増えることはなさそうだと思っていた。(中略)が、戦後三十余年たってみると、驚いた。ワープロという機械が発明され、普及し、机の上でチョコチョコと指を動かすと、活字の三千や四千は簡単に打ち出してくれる。そうした普及につれて値段も安くなり、性能がよくなった。新聞ぐらいは、机の上のワープロ一つで簡単に印刷できる。これなら当用漢字の制限はしなくてもよかったし、字体でも仮名遣いでも昔のままでもよかったのだ」
(『This is 読売』平成七年十二月号)
福田恆存が亡くなつてから、かうした「反省」をそれも隨想欄で書いて事足れりとする感覺は、肯んずることができないが、それでもあつさり過ちを認めるのだから潔い。父君とはまつたく違ふ精神性の持ち主である。
が、やはりその言語觀は淺薄である。ワープロといふ便利な機械が發明されたから、漢字の制限も假名遣ひも字體の變更もしなくて良いといふ考へは、まつたく「国語の歴史的観念」を持つてゐない證據である。この點は血は爭えない。