言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

新書三册

2009年09月28日 19時36分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

  昨日の日曜日、新書を三册購入した。先日紹介した『岡本太郎』も新書だつたが、この一ヵ月新書を買ふことが多い。讀みたい本がこの金額で手に入るのはうれしい。

現代思想の断層―「神なき時代」の模索 (岩波新書 新赤版 1205)
価格:¥ 819(税込)
発売日:2009-09

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書 新赤版 1206)
価格:¥ 819(税込)
発売日:2009-09

書く-言葉・文字・書 (中公新書 2020)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2009-09

 三番目の石川氏の著作は、買ふのを躊躇した。最近の作品は、どうも似通つたものが多くて金太郎飴のやうな印象があつたからである。が、前書を讀んでその思ひは吹き飛んだ。「現在の日本に見られる、文化的な頽廃と失調の元凶は、言葉と文字と書(書くこと)についての近代的呪縛=神話を超えられないところにある」で始まるこの文章に何かを感じる人は、ぜひ書店で手にしてほしい。いつたい、言葉と文字と書くこととをどういふふうに考へてしまつたから、現代の日本はをかしくなつてしまつたのであらうか。私もまた假名遣ひに關はつて戰後の社會の歪みを考へて來たから、共感するところ大であつた。

 『神なき時代』は、ニーチェの「神は死んだ」を神を信じたことがない人が軽々に引用することへの違和感があり、それについてどう考へるだらうかと思ひ購入した。『和辻哲郎』は、和辻に對しては以前より關心があつたゆゑの購入である。私の大学時代の乏しい讀書生活において『埋もれた日本』は思ひ出の書であり、日本語で考へるといふことの作法を學んだと思つてゐる。本書はやや表面的な記述のやうな氣がするが、讀んでから感想は書かう。

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先入観

2009年09月18日 09時44分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

アステイオン70 アステイオン70
価格:¥ 1,000(税込)
発売日:2009-04-24
 先日、『アステイオン』の最新号を読んでゐて、なるほどと思ふ文章があつた。山崎正和氏の「神話と舞踊」であるが、本当に山崎氏は正確に人間を観察してゐるなと感じたからである。

 「対象の定式化」(物を見るときに、私たちはありのままに見てゐるといふよりは型にはめてゐると考へた方が正確な認識であらうといふこと)の例として幼児の描く絵画や原始絵画の特徴を挙げてゐる。

「牛や馬や狩猟獣は真横から、人の顔は正面から見ることが約束事になつてゐる」とあつた。まつたくその通りである。もし馬の売買をする雑誌でもあれば、正面の馬の顔を見せても客は納得しないだらう。あるいは、人のお見合ひ写真に横顔を使へば変だなと感じるに違ひない。私たちは、やはり型にはめて物を見て、納得し、安心するのである。

 さて、この定式化から「神話」と「舞踊」が生まれてくると本論は続くのであるが、この論証については、未だ第二回目の連載であることは措いても、私の能力を超えたもので、要約することはできない。しかしながら、内容に対する興味は尽きない。それほどに魅力的である。それにしても、かういふ論文が一般誌に載るといふのは慶賀すべきことである。いつでるか分からないのが難であるが、筆者たちの原稿が書き終はるのを待つぐらゐのことは我慢するのが、読者の礼儀である。さういふ思ひにさせてくれる。

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アクセス數が10萬を越えました。

2009年09月16日 22時46分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ささやかなブログで、實用的なことは何も書いてゐませんが、本日アクセス數が10萬件を越えました。果して早いのか遲いのか分かりませんが、私自身はその數に驚いてゐます。そしてありがたく思つてゐます。有難うございました。

  前囘に引き續き、岡本太郎について書きたいと思ふ。福田恆存は一度、岡本太郎のアトリエを訪問してインタビューをしてゐる。コピーがどこかにあるはずだし、讀んだこともあるが、今はあまり記憶にない。しかしながら、アバンギャルドの新星と近代の保守の文藝評論家との話合ひといふのは興味がつきない。といふよりも、福田恆存や岡本太郎といふ藝術家はやはり器の大きい人物であるといふことが根柢にあるといふことなのだらう。

  大阪萬博で丹下健三といふ權威が作り上げた大屋根をぶち拔いて太陽の塔を作り上げた岡本太郎。戰後間もない「近代文學」派との對立、平和論爭時の進歩的文化人との對決を孤獨にやり拔いた福田恆存。兩者の輝きは今になつて鮮明である。他の建造物は一切破壞されたのに、千里の丘に太陽の塔だけは建つてゐる。平野謙、久野收、清水幾太郎、竹内好などの思想家はいづれも消えてしまつたが、福田恆存の書物だけは續續と刊行され續けてゐる。さういふ傍證は、藝術家の價値を裏書するものではないが、歴史的な評價といふものはかういふものでもあらう。彼らが何を見、何を書き、何を遺したか――そのことを今は見つめることが大切である。

  建築家の磯崎新氏が、岡本太郎の追悼文にかう書いてゐた。

「太郎さんが行き当たったもっとも根本的な困難は、日本の社会が前衛を啓蒙と取り違えていたことだった。本来、啓蒙を解体していくことを任務としていたはずの前衛の運動が、順不同でやってきたため、前衛によって啓蒙せねばならないという奇妙な逆立ち状態が、戦後ずっと継続した。

 太郎さんが前衛と啓蒙をとり違えてしまった日本の社会にたいして、それでもこれをいつくしんで正面から受けこたえたためだと思う。

 対極主義のような矛盾をかかえこんだままで、荒業を演じつづけた。よほど日本が好きでないとやれなかったことだろうと、逝ってしまった太郎さんを私は思いつづけている。」

 かういふ岡本太郎理解を迂闊にも私はこの『岡本太郎』を讀むまで知らなかつた。晩年の岡本太郎の漂流ぶりを正しく見てゐた人の言葉であると思ふ。

   それにしても三、四年前にNHKでやつてゐたカールスモーキー石井の岡本太郎についての教育番組の酷さが思ひ出された。思ひつき、憶測、恣意的な理解のオンパレードであつたが、少なくともかういふ追悼文だけでも引用して欲しかつた。

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何度でも太陽の塔

2009年09月13日 11時03分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

岡本太郎 (PHP新書 617) 岡本太郎 (PHP新書 617)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2009-08-18
 大阪に住んで六年になる。何度となく、來るんぢゃなかつたと思ふ場面があつた。

 地下鐵のホームで電車が入つてくるのを待つと、電車が近づくとどこからかおじさんやおばさんが入つてくる。それも慣れた足取りで、これ以上なといふほどのタイミングと入り方とである。最初は呆れて、あるいはその巧みさに驚いて見守るだけであつたが、それが重なると、嫌な感じだけが殘る。大阪が發展しないのは、かういふ「社會契約」の不備にあるのだらうなと思ふ。また電車に乘れば、女子高生がカップラーメンを食べてゐる姿も見たこともある。六人掛けのシートには、五人で座るのが常識。かういふところにも、大阪といふ都市の特徴がある。

 だが、東京には太陽の塔がない。東京へのノスタルジアは強いが、今もこの地に留まつてゐる理由にはあの塔の魅力がある、といふのは、半分は冗談でもあるが、半分は本氣でもある。

   太陽の塔への憧れは、もちろん小學生の二年生のときのバンパクに始まる。靜岡に住んでゐたので、行けなかつた。父が長男だけを連れて行つて來て、繪葉書を買つてきてくれた。その繪葉書は、今も大事に取つてある。引越しをする度にどこかに紛れてなくさないやうに注意をして運んできたから、今もすぐ手にとどくところに置いてある。中學生のころには岡本太郎の『にらめっこ問答』といふ本を買つて讀んだ。何だか不思議な人だなと思つたが、言葉に魅力があるのを幼心に感じてゐた。

 なぜ惹かれるのか、を考へてみようとも思はない。理由がいらないほど惹かれるからである。

 そして、今囘PHP新書の『岡本太郎』を讀んで、さらにその思ひが深くなつた。書かれてゐることに特に新しいことはなかつたが、あらためて丹下健三の大屋根をぶち拔いて太陽の塔を作り上げた岡本太郎の「ベラボー」さに感嘆した。藝術家になりたくて作品を作つた人ではなく、作りたいものがあるから作つたと素直に言へる人が、結果的に歴史に遺るといふ「藝術の宿命」と言ひたくなるやうな經緯をその生涯から感じた。丹下を含めて權威者たちの建造物はことごとく壞されたが、太陽の塔だけは遺つた。美しい譯でもない。時代の先端を行つてゐたからでもない。何かの機能を持つてゐたからでもない。作りたいと本氣で思つた人が作つたものが遺つたのである。それが信念とも信仰とも言へるやうな精神のかたちであらうと思ふ。

 さういふ心の疼きを持つてゐないから、あの塔に少し學ばうとして今もまだ大阪にゐるのかもしれない。太陽の塔は何度でも訪ねなければならないと思つてゐる。

 

 

エキスポのエキスポ
EXPO×EXPOS ~国際博覧会のあゆみ、そしてこれから~

日程:9月19日(土)~10月18日(日)
時間:9時半~17時 ※入場は16時半まで
場所:自然文化園 鉄鋼館1階ホワイエ
料金:無料 ※別途、自然文化園入園料が必要です。

 「エキスポのエキスポ・EXPO×EXPOS」は、国際博覧会150年の歴史と功績の解説展示と、これから開催される「2010年上海万博」「2012年麗水万博」「2015年ミラノ万博」を紹介する世界巡回展です。
 2008年2月にミラノでスタートし、ヨーロッパの国際博覧会開催地を巡り、今回、日本に上陸。
 また、大阪万博を含め、過去に日本で開催された博覧会についても、コンパニオンユニフォームの展示や、大阪万博当時の鉄鋼館で展示実演されていた「池田フォーン」の復元展示、歴史的価値の高い資料の展示など、見ごたえのある内容となっております。
 世界で開催された博覧会が、時間と空間を越えて一堂に集結します。この機会に是非お越しください。

●“エキスポのエキスポ”ご来場記念 オリジナルピンバッジプレゼント!

鉄鋼館において、9月19日(土)から“エキスポのエキスポ”開催期間中、ご来場記念としまして抽選くじで当たりがでれば、オリジナルピンバッジをプレゼントします。
※ピンバッジは1日お一人様1個です。
※数に限りがありますのでなくなり次第終了します。

○主催:博覧会国際事務局
○共催:(財)地域産業文化研究所
○協力:(独)日本万国博覧会記念機構
○特別出展:(財)日本ユニフォームセンター

※こちらに掲載した展示内容やイベント内容は、予告なく変更される場合があります。あらかじめご了承ください。

<お問合せ先>
事業部 営業推進課 TEL 06-6877-3339

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夏の選擧について

2009年09月08日 21時51分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

  8月23日と9月5日の産經新聞「昭和正論座」に福田恆存の文章が載つてゐた。昭和51年當時の事情が分からないと決して理解しやすい文章ではないし、總じて福田恆存の「正論」の文章は、言ひたいことが字數不足で十二分に述べられてゐないやうに思ふので、この度の二つもあまり分かり易いものではなかつた(9月5日の方はさうでもなかつたが)。

  ただし、遠藤浩一氏は、雜誌『正論』で、23日の内容は「出色」といふ表現で述べられてゐたので、私の讀解力不足はあると思ふ。それでも他の論者の文章はじつに讀み易いので、やはり福田恆存と「正論」とはミスマッチのやうな氣持もする。「正論」はたつた一つのことを言ふのに適した分量であるので、福田恆存のやうに本質を穿ち、それらとからめていろいろなことを述べるのにはどうも字數が足りないやうだ。

  それにしても、福田恆存が生きてゐれば、今囘の選擧どう思はれるかを訊いてみたい。政治家が清潔かどうかといふところで選んでゐた頃よりは「成熟」してゐるのかもしれないが、空氣を讀むばかりの主體性のない日本人の選擧風土は、何も變はつてゐないやうにも思ふ。「政治には絶望してゐる」と一言だけ書いて終りかもしれないが、期待する政治家が一人でもゐれば、何かを書いてくださつたはずである。

  では、福田恆存以外の人で、この人に今囘の選擧について訊いてみたいといふ人はゐるかと言へば、まづは西尾幹二氏、そして遠藤浩一氏。それから長谷川三千子氏、山崎正和氏、寺島實郎氏、田中明彦氏ぐらゐかな。やはり私は文學者に訊いてみたい。人間の行ひとしての政治である。間違つても政治評論家の政局話なんぞを耳にしたいとは思はない。

   生意氣だが、自分の考へも時事評論に書いた。私は政治家に同情的である。政局のダイナミズムはあつたが、政治のダイナミズムはなかつた。何をなさねばならないのかといふ意思表示は何もなく、ただ「變へろ」といふのは目茶苦茶である。自民黨が自滅したのではなく、國民が自滅したのである。このことはジワジワと影響を與へてくるだらう。

   今囘、政治家は、國民の見せ物となつてしまつた。政治の善し惡しも分からない國民によつて飜弄される政治家は氣の毒である。これは政黨に關係がない。この夏の光景はグロテスクであつた。政治家へのテロである。

   福田恆存は何と書いただらう。

  松原正氏が「西歐と日本國」といふ文章を書かれたと言ふ。今囘の政局については觸れてゐるわけではないと思ふが、廣く讀まれる機會があればと思ふ。

 

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