言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

大江健三郎と呉善花の共通点

2010年05月25日 20時24分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私は、大江健三郎と呉善花の兩氏を評價しない。私ごときがこんなことを書いても何にもならないが、一つの物の見方を提示することには若干の意味はあるだらう。

   兩氏に共通することは何か。外國で、母國の惡口を語る破廉恥である。母國の惡口を言ふのは良い。しかし、それを外國で外國人に語ることを恥ぢる感覺がないことは問題だ。私はそこに違和感を抱く。しかも、保守派の一部の人間は、反韓感情の代辯者として呉氏をかつぎ出すが、そこにも違和感を持つ。これもまた破廉恥であるからである。その人の主張が母國愛に根ざしてゐるかどうか、その言動から判斷する感覺が保守の精神の大事な核にあるはずである。

   大江氏については、言ふことはない。この人が日本語で小説やら評論やらを書いてゐる意味が分からない。日本人であることを恥ぢてすらゐるやうにさへ思はれる。かういふ人をありがたがる平成の讀書人はどうかしてゐよう。政治的人間が、たまたま知識をたくさん持ち勉強する才能に長けてゐた。さういふことである。精神の根には慾心が渦卷いてゐる。

   こんなことを何故書くのか分からない。ただ何だか危機を感じてゐるのである。私たちにとつて大事なものとは何か、それが分からなくなつてゐる、共有できなくなつてゐるといふことの危機である。

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時事評論石川  最新號

2010年05月24日 10時08分12秒 | 告知

○時事評論石川の5月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 鳩山總理大臣の體たらくは、もはや論評を越えてゐる。誰が何と言つても聞かない人を總理大臣に選んでしまつた私たち國民の體たらくを恥ぢるしかあるまい。「宿命」といふ言葉に逃げる譯ではないが、これが民主主義なのである。

   同じ宿命なら、「くじ引き」か何かで選んだ方が、まだしもの感もある。ずゐぶんニヒリズムが我が心にも滲透してゐるのかもしれないが、いやいや結構眞面目である。

   潮氏の書かれた「ルーピー」とは、ワシントンポストで使はれた鳩山總理への形容句である。その意味は「愚かな」といふ意味だ。かういふ言葉を使ふ、ワシントンポストもまた見識のない「ルーピー」であると私は斷じる。一國の首相をさういふ言葉で呼び捨てるのを一流紙とは呼ばないからである。このことを潮氏は批難しても良いのではないか。

誰にこの國を委ねるか

    ―ならば、參院選はどうなる、どうする―

             拓殖大學大學院教授  花岡信昭

さらば、ルーピー鳩山

      ―一日も早い退陣こそ最後の御奉公です―                                    

                                                 評論家  潮  匡人

奔流            

驚きの「抑止力」發言

  ―國家指導者の責務はどこへ―

              拓殖大學大學院教授 花岡信昭

コラム

        電子書籍は紙媒體を驅逐するか  (菊)

        愚かなのは鳩山首相だけか (柴田裕三)

          井上ひさし氏への兩面感情(星)

        政治の素人集團  民主黨(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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映畫「クロッシング」を觀て

2010年05月10日 17時59分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、心斎橋の映画館で北朝鮮の現状を描いた映画を観た。以下は、その感想である。

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 確かにここには北朝鮮の人人の悲慘な状況が描かれてゐた。容赦なく人人が虐げられてゐる樣子は殘酷そのものであるが、その原因が共産主義であるといふことを批難するプロパガンダの映畫であるといふよりも、何かを信じてしか生きられない、人間の弱さを映してゐるやうに感じられた。

 「共産主義」を信じた人人がそれに疑問を持つ人人を虐待してゐる――確かにさういふ側面もある。しかし、この構圖をよくよく考へれば、「 」の中身を別の言葉に換へると、私たちの周圍にはいくらでもあることだと想像される。「民主主義」「經濟優先」「學歴社會」「能力主義」「フェミニズム」「人權擁護」などなど。もちろん、かういふ構造自體をとらへるといふ發想に目を向けることが、北朝鮮での慘状に免罪符を與へることになりかねないので注意は必要であらう。しかしながら、あまりに輕く何かを信じてしまひ、それを他人に強要することが多い日本の現状も私たちは見た方が良いと映畫を見ながら感じたのである。
 私たちもまた、共に弱いではないか。

 さて、さういふイデオロギーとは別に、劇中の息子がその父親にたいして示す美しいまでの敬意や、息子を心の底から愛する兩親の姿が、北朝鮮においても、いや北朝鮮だからこそ見られるといふことに、更に日本の現状の腑甲斐なさを痛感させられもした。どんな思想を教育されても親子の愛情にはヒビが入らないが、豐かさといふ魔の手は親子の關係を蝕む力を持つてゐる、日本人全體がさうだとは言はないが、今私たちの抱へた慘状は、北朝鮮とは異類のものであるが、それはそれで深刻なのだと思はされた。

 いささか独りよがりの感想であるかもしれないが、この映畫を見てゐてまるで鏡を見てゐるやうで、辛く切なくなつた。

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日本の禍機――その正體は何か 平沼赳夫氏が見てゐるもの

2010年05月09日 19時04分23秒 | 国際・政治

                       

 「時事評論石川」今月號の拙稿を、編輯長の中澤茂和氏の御厚意により掲載することができるやうになりましたので、以下にアップします。是非とも御高覽ください。

 日本の危機はすでに禍機と呼ぶにふさはしい状況を呈してゐる。そのことを知つてゐる政治家を大切にしない庶民は、「民=目をつぶされた人」に留まつてしまふ。肉眼では見えないものを見る眞の「民」となつてこそ眞の國民になるのである。政治論ではあるが、今も必要なのは人間論でもあるので、文藝評論家として書かせてもらつた。

  なほ、時事評論石川の購讀は、次のところまで。

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

●     ●      ●      ●     ●     ●

 かつて日露戰爭に勝つた日本は、その實體を正確に理解しなかつたがゆゑに、支那への權益を擴大することとなり、夜郎自大に振舞ひ統治能力すら失ふ事態となつてしまつた。小村壽太郎の、獻身的な努力の賜物でもあつたポーツマス條約が、米國の仲裁なしにはどうにもならない危機を孕んでゐたといふこともすぐに忘れてしまつたのである。尊大になるばかりの國民と政治家との動きに對し、海の向うから批判したのが比較法制史家の朝河貫一であつた。彼は當時の日本を「不正な手段で自身だけの利益をはかること」つまり「私曲」と斷じ、激しく諫めた。朝河はかう書いてゐる。

  政治家が正道を決斷し國民に示せ

「國の立場を固くするには、國民をして反省思慮せしめざるべからず、否、この善良なる習慣を養成せんことを努力せざるべからず。こは啻(ただ)に教育にて養ひ得べきことにあらず、國家が公平の地位に立ち、天下の正路を歩み、困難と戰ひて伎倆と性格とを練磨しつつ、堂堂として進歩せば、世の進歩を刺戟し幸福を増進して止まざるべく、是のごとくにてこそ國民に無量の實物的教育を與ふるを得るなれ。(中略)日本の國家は實にかくのごとくならざるべからざるなり。」

 これは、明治四十二(一九〇九)年に刊行された『日本の禍機』の一節である。「禍機」(災難が訪れる前兆)とは現在ではあまり聞かれない言葉であるし、本文も讀みにくい。今引用したところも「口語譯」せねばならぬほどに意味は取りにくいだらう。しかし、言葉は内容の傳達のためにのみ給するのではなく、文體を通じて内容を越えたものも十二分に傳達してくれるのであるから、是非とも再讀三讀して欲しい。とは言へ、簡單に要約すれば、「日本國民の良き資質は反省心にある。それを呼びさますのに教育だけでは不十分であるから、國家(政治家)が正しい道を決斷し、國民に示す必要がある」といふことである。當時の歴史的背景に則して言へば、日本は支那への「私曲」を斷念し歐米との協調の道を探れといふことである。

 私は、この朝河の言の妥當性をここで論じるつもりはない。その能力もない。ただ、戰後が戰前にならうとしてゐる現在、國民に「反省思慮」の氣運なく、政治家に「天下の正路を歩み、困難と戰ひて伎倆と性格とを練磨しつつ、堂堂として進歩」する氣概なきを見て、朝河の言を思ひ出してもらひたいのである。

 國運を見ない政治による「政治不信」

 今、私たちの時代に起きてゐる危機は、國家財政の破綻などでも、少子化による將來不安などでも、デフレによる景氣の惡化などでも、總理の指導力不足などでも、民主黨幹事長の權力掌握などでも、ましてや自民黨の崩壞や分裂騷ぎなどでもない。問題の本質は、今この國から國運が去らうとしてゐることであり、そのことを理解してゐない國民や政治家が多すぎるといふことである。はつきりと言へば、歴史の審判に自己の評價を委ね、その歴史の立場から今何をなすべきかといふことを考へる政治や、さういふ人物を選ばうといふ國民がゐないのだ。

 間違ひなく、時代は世界史の中で時を刻んでゐる。そして、嫌が應でも日本はその中にある。その軌道に正しく貢獻していくべきところに國運を見出し、それを知る者でなければ、政策や制度設計に通じてゐても道は開けない。時代の風に吹き飛ばされてしまはう。もちろん、政治には眼前の成果が求められる。動機の正しさだけでその正當性が判斷されるものではない。しかし、さらに深く考へれば、即效性を求めるばかりで理念や理想を失つてしまへば、いつのまにか政治は力を失つていくのである。あり體に言へば、現在の「政治不信」の正體はそれである。政治には成果が必要であるといふことが正論なら、さういふスタイルが國運を逃してゐるといふ逆説もまた正論である。今こそ政治家は、選擧民や國民に政治の理念に目を向けさせる時である。

 そもそも「民」といふ字は、目に矢が當つてゐる状態の象形で、視力を失つてゐるといふ状態を示してゐる。しかもそれが差別意識を生み出してゐたといふのではなく、さういふ人こそが神への奉仕者であるとされた(白川靜)。そして君主に代つて民を支配する「臣」もまた視力を失つた神への奉仕者を意味してゐた。つまりは、「臣」も「民」も共に現實の先にあるものを見てゐてはじめて「臣」「民」になれるのであり、國運を感じ取り天意に耳を傾けなければならないのである。マニフェストなどといふものが意味をなすとすれば、その上のことである。

 今、私の念頭には、平沼赳夫氏といふ一人の政治家のことがある。氏の今囘の行動についての人人の無關心振り、無知、無節操に憤りを感じてゐるのである。  經濟政策その他考へ方の基本が違ふ與謝野馨氏と組むのは單なる政黨要件を滿たすためだけの數合せではないか、あるいは都知事の仕事に暗雲が垂れ込めるなか石原愼太郎氏の起死囘生策に利用されてゐるのではないか、あるいは背後には小沢一郎氏が控へてゐてあの大聯立構想に捲き込まれるのではないか――樣樣なことが言はれる。しかし、いづれも「政局」としてしか見てゐない發言である。キルケゴールが『現代の批判』で批判してゐたやうに、行動する人たちに對する冷やかなおしゃべりだけは十分にして、自身は何も行動しない。行動しないことで優位性を保たうとし、漁父の利を得ることだけに意を盡くしてゐる。さういふ人人が多すぎる。

 自民黨で次の總裁候補として名前があがる人物も、民主黨で當内實力者に胡麻摺ることで次の總理を狙ふ人物も「賢明」ではあるが「至誠」なところは微塵もない。さういふ人が消費税を上げて經濟の再建を果さうとも、憲法を改正して自立國家を作り上げようとも、國運を呼び寄せることはできない。物の理屈だけは分かつてゐるかもしれないが、心の道理が分かつてゐないからである。物と心とが重なり合ふ時を待ちながら、神經の通ふ通路を作り上げるのが政治である。もちろん、政治に出來ることは法律に基づいて人や金や物の通路を作り上げることである。しかし、その道をいかに作り上げるかといふことを國民に示す中で、「國民に無量の實物的教育を與ふる」ことができなければならないのである。ところが、「賢明」な政治家にさういふ「伎倆と性格と」がない。平沼氏にはそれを感じるのである。氏こそは國運を呼び込み、長らく忘れてゐた私たち日本人の良質な國民性を呼びさませてくれる言葉を持つた人物である。

  ここに來て逡巡する”信念の政治家”

 因みに言へば、保守派の氣鋭の政治家に城内實氏がゐる。平沼氏と行動を共にし、郵政民營化に反對し自民黨から刺客を送られ一度は落選したものの昨年八月の選擧で返り咲いた。その平沼氏の身近にゐた人物がここに來て逡巡するといふのは、何とも不可解だ。私には理解ができない。「やるからには天下を取らなければいけません」「小異を捨てて大同團結できるかどうかです」と言つてゐた人物が、「小異」を氣にして「團結」を拒否してしまつた。そんな氏のスローガンが「國家國民のため信念を貫く」と言ふのであるから、何かの冗談かと思つてしまふ。信念の政治家は何を信じてゐるのだらうか 。

  愚直なる使徒が國運を引き寄せる

 一人の人物が生れるには、一つの文化がなければならない。しかもその文化は世界の中で孤立無援のものではなく、世界時代の中心文明から榮養を吸收し現實に息づいてゐなければならない。世界的な核擴散の危機、アジアにおける霸權國家の出現、いま日本を取り卷く状況は深刻である。さうでありながらひとり緊張感のない全く弛緩しきつた政治に國の運命を任せることはできない。今こそ政治家が出て來なければならない。それは一人で良い。政治は數ではない。國運を引き寄せる人物がゐるかゐないかである。今必要なのは賢明なる天才ではなく、愚直なる使徒である。持つてゐるもの(立場・權力・金・知識)によつて價値が決まる存在ではなく、何も持つてゐないが國のさゝやきに耳を傾けそれを從順に實行することによつて價値を生み出す存在である。無私とも言へるその人の心は眞空である。眞空が持つ恐ろしいまでの力だけが、日本の禍機を好機に轉ずる力を持つのである。私は、その人の行動に對して「たそがれ新黨だ」とか「立ち枯れ日本」だとか言つて揶揄する感覺を侮蔑する。「みんなの黨」などといふ腑拔けた命名をした上で、仲良しクラブよろしく無責任なおしゃべりを樂しんでゐればキャスティングボートを握れるとほくそ笑んでゐる「私曲」集團は必要ない。「みんな」はいらないのだ。一人ゐれば良い。

 その一人がついに立つた。この慶事を、私は心から喜び應援する。

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「小林よしのり」では駄目だ――皇室について語ることは不敬か。

2010年05月05日 10時44分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

 小林よしのり氏が『天皇論』といふものを書いてゐるさうだ。私は、以前に『戦争論』は読んだけれども、マンガではない『反米という作法』や西部邁氏との対談などを読んで、この人は勉強は熱心にするが、ヒューマニズムからは逃れられないなと感じて、それ以来読む必要を感じなくなつた。世俗的な人本主義こそが近代日本の問題の本質にあるのに、話題を幾重にも変へながら、いつも視点は人間礼讃にあるこの人の主張は頷けなかつた。

 『天皇論』はついに書店で手にすることすらしてゐない。ただ、用があつて「SAPIO」の4月14日・21日号を買つたので、それを読んだ。相変はらず絵が汚い。いや絵はずゐぶんときれいになつた。しかし相変はらず汚いのは誌面である。美感の問題だらうが、私はかういふ誌面は嫌ひである。

 それはどうでもいい。問題は、皇室自体が「皇室の伝統は男女の別には何も関係ない」とおつしやつてゐるのに、一部保守派思想家の「女性天皇はいいが女系天皇は駄目だ」といふ主張は「陛下のサインを見逃してゐる」と小林氏が言つてゐることにある。そして、「どんなふうにしても国民は真意を分かつてくれない――それは絶対の孤独ではないか」とまで言つてゐることこそが問題なのだ。

 出ました!である。「絶対」などといふことを言つて、勝手に絶対者に仕立て上げる構造は、先の「一部保守派思想家」と同じであらう。天皇がもし人間であるならば、「絶対の孤独」など持ち合はせてゐるはずはない。時代と共に皇室のあり方が変はるのだから、女系天皇でよいといふのが皇太子殿下や小林よしのり氏の主旨であるのなら、それを分かつてくれない保守派の思想家に対する嘆きが「絶対の孤独」であるはずはない。皮肉なことに、絶対でない存在を絶対者として扱ふことにこそ「絶対の孤独」はある。国民の誤解や思想家の反論などに対しては、せいぜい「陛下はさぞ御不満であらう」と書くのがふさはしい。

 絶対でないものを絶対にせざるを得なかつたといふ無理を明治人は承知してゐた。だから、「絶対」者である明治天皇に軍人の格好をさせることができたのである。天皇が大祭祀にも軍人にもなることができたのは、「絶対」者だからではない。人間が元首として君臨してゐたといふことである。大元帥として大いに祭りあげることが可能だつたのは、天皇が人間であることを知つてゐたからである。

 逆説めくが、人間であることを宣言したはずの昭和天皇や今上陛下に対しての戦後の祭り上げやうは、さながら「天皇は人にあらず」といふ様相を呈してゐる。所功氏など、皇太子殿下や妃殿下に対して西尾幹二氏が書いてゐることに「不敬」といふ表現まで使つて退けようとしてゐた。果たして、どちらが今上に対して不敬であらうか。人間だと言つておきながら、人間扱ひしたら不敬だと言ふ。批判をしてはならない存在が皇室なのなら、それは人間ではないとすればいいのである。事実、国民一般とはあまりにも違ふ苛酷な処遇を受けてをられる。それなら憲法も変へませう。天皇は憲法の枠組みの外に置きませう――さういふ論の組み立てなら分かる。しかし、それをしないで、頭の中では絶対者として祭りあげ、論理上は人間として扱ふといふ不誠実なことをすることに私は不快なものを感じる。

 神にされてしまつた天皇。絶対でないものを絶対とする日本人の過ちは戦後もずつと引きずつてゐるのである。

 

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