らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

ハイドン 弦楽四重奏曲 ニ長調 Op.50-6「蛙」つづき

2009年01月20日 22時50分46秒 | クァルテット
 ハイドンが弦楽四重奏曲集 作品33「ロシア四重奏曲集」を書き上げたのは、1781年~彼が49歳の頃と言われている。モーツァルトがその作品33に刺激を受けて「ハイドンセット」の6曲を書いたのが、26~29歳の頃。

 このロシア四重奏曲集を書くまでにハイドンは既に28曲もの弦楽四重奏曲を作曲していた。もちろん交響曲や別のジャンルの曲も作曲する中で、様々な実験をして行き着いたロシア四重奏曲を、自分より20歳以上若くて、大司教に首になった浪人作曲家モーツァルトに参考にされて自分より魅力的な作品を書かれてしまったのである。

 ウィーンで既に大作曲家として地位を気づいていたハイドンのショックは計り知れない物だっただろう。昔、映画「アマデウス」の中で、サリエリがモーツァルトにされた事に似ているかもしれない。モーツァルトは他人の語法を自分の中で完全に租借して、盗んできた(表現が悪いが)語法の元々の作品より魅力的に作品を書く天才だったのだ。

 ところがハイドンは映画の中のサリエリのようにモーツァルトに恨みを持つどころか、彼が死ぬまで友情関係を持ったのである。ハイドンは、包容力のある人間である。

 ハイドンはそこで腐ったりせずに作品42(1曲を残して現在紛失)、そして作品50を書き上げる。

 モーツァルトは真似の名人だったのだが、ハイドンはそこでモーツァルト風の作品にはしなかった。彼が広げた表現力を意識しながらも自分の音楽作品の熟成を駆使して書いたのだ。

 この後も、ハイドンは作品103まで全68曲を書き上げる。頂点作品76はまだまだ先だ。

 20歳そこそこで作曲家して認められて、晩年になるにつれて良い作品を書いていく大器晩成形の作曲家ハイドンは珍しいタイプかもしれない。

 つづく・・・。なかなか「蛙」について書けないなぁ・・・。

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