職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

紙とペンでやっている、僕のグネグネ、鬱屈した「思考」を、twitter上の光にさらそうということか?

2011-01-11 12:00:06 | Weblog
2011
01.11
僕は自分の位置を「奈良市精図」上に置き換えている



◆春日大社からを二月堂に向かって春日野町界隈を歩いているときだった。
 僕は、自分の位置を、頭の中で、高校時代の「奈良市精図」上に置き換えていることに気がついた。
 精図は、橙(市街)、緑(奈良公園)、ピンク(若草山&春日山の麓)等と色分けされている。
 開けては閉じ、閉じては開け、折り目が破れ、貼ったセロテープもやがて干からびてしまった「奈良市精図」。

 「今、僕が歩いている場所は、あの緑に塗られたエリアの、東大寺と手向山八幡宮の間のポイントだ」


◆この折り目が破れた地図上の僕と、現実の春日野町界隈の僕の姿にギャップがある。
 地図上の僕が大きくて、実際の僕が小さい……のではない。
 その逆だ。
 地図上の僕は砂粒のように小さい。
 しかし、実際の僕は、見過ぎ世過ぎでがさつになり、奈良公園の小道からはみ出るほどに目立っている。


◆昨夜、twitterで乱氏と意見交換しているうちに僕の気持ちに変化があって(どういう変化なのかくわしくはまだ分析していないが)ブログのサイドに取り付けていたtwitterの窓を、乱氏と同じようにブログのセンターに移動した。

 サイドだとオシャレな感じがしていいのだ(←結構、こういうことにはこだわる^^;)が、幅が狭いし、小さいので、実際に読むのには向いていない。
 単なる飾りに過ぎない。
 もちろん、サイドに設置する背後に、わたしの「twitterは飾りでいい」という判断があったわけだ。

 それをセンターに移動したのは、あるひとつところに隠って思考するというスタイルではなく、いつでもどこでも、あそこでもここでも「思考」するスタイルに変更したいという気持ちがあった(のだろうか?)。

 もちろん、これまで「いつでもどこでも思考」をやっていなかったわけではない。
 胸ポケットに硬質の紙が入れてあって、列車の中でも、コーヒー店でも、病院の待合室でも、メモを取っている。
 硬質の紙と同時に、胸ポケットには赤ペン、青ペン、青蛍光ペン、修正ペン、万年筆が入っている。

 なら、それでいいではないか?
 何もtwitterをブログセンターに移動して、twitter上で思考しなくてもいいではないか?……ということなのだ。
 「いやぁ~、ホンマやなぁ~、僕には硬質の紙とペンがあればいいわけで、twitterなんか必要ないかも……」というところで昨夜は眠った。

 あらためて仕切り直し。
 「僕には硬質の紙とペンがあればいい」VS.「twitterの窓をブログのセンターに移動する行為」。
 これまで僕は「自分の言語を日にさらす」という言い方をときどきしている。
 たとえば、自分のグネグネした文体を、サラッとした翻訳文体にぶっつけて(「さらし」)、グネグネを修正する。

 その伝でいくと、硬質の紙とペンで、ひそやかに行われている、僕のグネグネ、鬱屈した「思考」を、日の光、すなわち、twitter上の光にさらそうということなのか?
 昨夜の乱氏との意見交換では、僕は「twitter上で修業したい」と口ばしっている^^;。
 「さらす」=「修業」ということか?

 僕の鬱屈し、行き詰まった「思考」をtwitter上にさらす。
 フォローがあれば最高だが、たとえなくても、twitter上の他の目にはさらすことになる。
 ……というところで、中途半端だが、この話は、いったん、やめる。
 結論なし、オチなし、自己批判なし……が、今年のモットーだ(^_^)v。


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