職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

平岡さんは、この頃、とても元気ですね。やっぱり男の子が生まれたからですかね。えらいもんですね

2009-06-07 21:05:02 | Weblog

★根岸時代(1975~1977)、半分ふてくされて、しかし、半分居直って、毎週、野村胡堂『銭形平次』を観ながら、島田ピーナッツを摘み、ビールを飲んでいた。画像をみていると「男だったら 一つにかける かけてもつれた 謎をとく」という主題歌がきこえてきて涙ぐんでしまう。・゜・(*ノД`*)・゜・。。帰りたいと思う、数少ない人生のポイントやね。

◆前々回、ブログの記述終了間際に、これは「今後の自分のための〈書きかけ……書きっぱなしのメモ〉です」というようなことを口走ったがm(_ _"m)、これは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の中によく登場する「この『○○○』は、まだ閲覧者の調べものの参考としては役立たない書きかけ項目です」が頭をかすめたからだ。
 口走ったあと、「役立たない書きかけの内容です」というのは、『ウィキペディア』では単なるただし書きにすぎないが、この「600字の教育学」では、全体をつらぬく、重要なコンセプトになり得る……ということに気がついた。

 きょうは、まず前々回の書きかけのつづきから書くことにする。
 前々回では、まず、加藤典洋氏の分類案を提示した。

(1)「ねじれ」感覚有り=無頼派……太宰治、坂口安吾等
(2)「ねじれ」感覚有り=旧プロレタリア……中野重治等
(3)「ねじれ」感覚無し=戦後文学派……三島由紀夫、島尾敏雄等

 次に、その一部を否定して、わたしの分類案を提示した。

(1)「ほろび」感覚有り=深い挫折感、あるいは一種の解体現象……伊東静雄
(2)「ほろび」感覚有り=(太宰ファンの人、怒らんとしてくださいね)「ホロピ」の歌をうたって、暗く生きて(デカダンス)、どこかに他人が声をかけてくれないかという期待を隠しているタイプ……太宰治
(3)「ほろび」感覚無し=勝者から「精神の武器」を護持しよう……高村光太郎
(4)「ほろび」感覚無し=(加藤氏の「ねじれ」感覚無し)……戦後文学派

 加藤案とわたしの案を組み合わせると、次のようになる。

(1)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し
  =深い挫折感、あるいは一種の解体現象……伊東静雄
(2)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し
  =(太宰ファンの人、怒らんとしてくださいね)「ホロピ」の歌をうたって、暗く生きて(デカダンス)、どこかに他人が声をかけてくれないかという期待を隠しているタイプ……太宰治
(3)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚有り=強制的にやってくる勝者の文化から「精神の武器」を護持しよう……高村光太郎
(4)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚無し=(加藤氏のいう)戦後文学派

 2つの案の合体を可能にするには、加藤案の中核である「ねじれ」感覚有り=太宰治……を否定しなければならなかった。

◆このことについて、3点述べる。
 まず、第1点。
 大学時代のわたしは、(1)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し=伊東静雄:時代思潮の指導者としてでなく、地味な市井の一生活者として、敗戦の痛手で、深い挫折感に打ちひしがれるという詩人像と、(3)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚有り=高村光太郎:時代思潮の指導者として、強制的に占領してくる勝者の文化から「精神の武器」を護持しようする詩人像とを、対比的にとらえ、そのうえで、伊東静雄の哀しみと喪失感を理解することで「諒とする」ことにした。

 見る人が見れば、当時のわたしの精神構造は、図式的に、粗くいえば、伊東静雄が近藤勇的で、高村光太郎が土方歳三的ヾ(@°▽°@)ノあハハ……と言われるかもしれないが、ま、それで大きくははずれていないのかもしれないヾ(@°▽°@)ノあハハ。

◆第2点。
 以前、中期(『富嶽百景』『老ハイデルベルヒ』)から、後期(『斜陽』『人間失格』)への太宰治の変貌が、どうしても解せない……と書いたことがある。
 「解せない」は「許せない」と置き換えてもいい。
 しかし、(これこそ「書きかけ」の「書きかけ」になるかもしれないが……)「変貌」の理由の中核に、大東亜戦争敗戦の痛手 → その対症療法としての「ホロビ」の歌 → 「ホロビ」の歌に追い立てられるように玉川入水自殺……と考えれば、伊東静雄へのわたしの理解の仕方を諒としたように、太宰治の「変貌」に対する理解も諒とできるかもしれない。

◆第3点。
 大学時代、伊東静雄への理解に対して「諒とした」のは、あくまでも、提出期限が迫ってきた卒業論文を終結、決着、落着させるための精神上の操作であって、決してわたしの魂の内側で、そのすべてが完了したというわけではなかった。

 今、手元に(←と軽くいっているが、実際は屋根裏部屋の段ボール箱から、やっとのことで探し当てた)、卒業論文とは別に、『反響』という、わたしが大学時代に書いた、原稿用紙にして100枚くらいの小説がある。
 伊東静雄に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年、『春のいそぎ』(1943年)、『反響』(1947年)という4つの詩集があるが、小説の題は、4番目の詩集からとっている。
 魂の内側で決着させるために、生前「広い庭のある田舎の家の座敷で、毎日の日課に、1枚、2枚と小説……というより、世のさま、家の内、わが感想など書きつぐ仕事がしたい」(1943年)と願いつづけた詩人に代わって、(大学生の)わたしが、伊東静雄の詩、静雄の残した散文・日記、および諸家による伊東静雄論をもとに挑戦した小説だ。
 作調は、静雄が将来の日本語はかくあるべしとした「できるだけ少なく語の種類を使って、こまかいところまであらわせる国語」をイメージした。
 通常、「言う」と表現するときは、状況によって、しゃべる、語る、滑らせる、口にする、口をついてでる、口を開く、触れる、ま、あるいは「○○○」と笑った……等々、いろいろに使いわけるわけだが、小説では極限にまで語の種類を減らすという操作をしたことを覚えている。
 『反響』の一部を抜粋する。

 (前略)「あっちゃんはどうしてる?」
 「あっちゃんはまだ寝てるの」
 「赤ん坊はいいなぁ、寝たいだけ寝られるから」
 と平岡は笑った。
 あっちゃんというのは男の子で、去年の11月25日に王寺の町の病院で生まれた(王寺というのは、東のケーブルカーで下りていったところにある町だ)。
 「もうすぐ生まれる」
 というので、平岡と女の子は、病院に行き、
 「こんどは男の子かな、女の子かな、男の子かもしれないな」
 といっていたら、男の赤ん坊だった。
 「まあちゃん、生まれたよ、男の子だって」
 といったら、女の子も手をたたいてよろこんだ。

 夜は、毎日、女の子と病院へ行った。
 赤ん坊がいつ行っても眠っているものだから、女の子はたよりながって、さかんに起こして抱きたがる。
 それを看護婦に叱られてから、
 「もう、まあ子、病院にいかない」
 といいだした。

 赤ん坊の30日目とは、なるほど、よくいったもので、寝ながら、自由に顔の向きを回転するようになった。
 手もよく動かし、頭や顔に持っていく。
 視線もこちらの顔の移動につれて、動かしていく。
 女の子はたいへんおもしろがって、
 「あっちゃん、あっちゃん」
 といいながら、自分の身体を右から左、左から右へと動かして、よろこんでいる。
 「あっちゃんが見えるようになったんだから、まあちゃんも、いいことをしてみせないと、あっちゃん、悪い子になってしまうよ」
 といったら、
 「うん!」
 と、うなずいている。
 女の子はずいぶんねえさんらしい振るまいをするようになった。
 平岡も、平岡が勤めている学校で、
 「平岡さんは、この頃、とても元気ですね。やっぱり男の子が生まれたからですかね。えらいもんですね」
 などと冷やかされている。(後略)

 静雄の「日記」から忠実にひろいあげながら、20年後の時点(昭和40年代)に静雄空間を創出しようとしている。
 この『反響』の前後の『おかえりのうた』や『くまさんにお聞き~ラストポーズ№9』も連作と考えれば、400枚くらいの作品になる。
 普通の大学生にとっては、シンドイ話だった。
 新聞社からも雑誌社からも同人たちからも、酷評されつづけたけれども、志としてはもっとも高かった時代だ。

 大学生のわたしのこまかなたくらみは、もうほとんど忘れたが、あっちゃんが生まれた日を三島由紀夫の命日に設定したことは覚えている。

 そうだ、この作品を高く評価してくれたヤツがひとりたげいる。
 卒業論文に三島由紀夫をとりあげた友人T(故人)だ。
 Tのことは、また、いつか書きたい。


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