職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

帽子屋敷の隣のわたし&お宮の隣のわたしに会いにいく旅の出発

2009-04-16 16:42:41 | Weblog

★大川橋蔵演じる「橋蔵平次」。一話完結で888回の番組が放映された。毎週毎週、場末の小劇場の座付作者がせっせと書き続けるというイメージだ。あの「親分、てって、てぇへんだァ!」→「万吉親分の妨害」→ラスト「銭が飛ぶ」の型(パターン)に嵌めて、パンパンと押し出す。たえず書く。書くことによって前に進む。書くことだけが人生だ。この感じにずっとあこがれている。野村胡堂は原作者で、せっせと書き続けたのは別人だろうが、そのトータルの象徴としての「胡堂」と競争したい。画像はわたしが訪れた紫波町の胡堂記念館

◆ああ~ッッッッ! 肋間神経痛で苦しんでいるぅ~!
 若い頃からの持病のひとつだ。
 たいていは、バファリンなどの鎮痛薬を、1日、2日と飲んでいるうちに消えてしまうのに、今回は、もう4日もつづいている。
 夜も眠れない。
 散歩もできない。

 10年くらい前に、
 ①その痛みがいつまでも消えない……
 ②痛みの度合いも通常の数倍くらいあって、鎮痛薬も突き破り、イスから転げ落ちるほどの鋭さ……
 とてもがまんできず、あちこちの病院(1つは市民病院)にいったら、3つ目の漆沢皮膚科で「帯状疱疹」と診断されたということがあった。

 今回も、その帯状疱疹を疑ったが、自分の観察と判断では、どうもそれとは違うようだ。
 ひょっとすると、これも自分の判断なのだが、帯状疱疹後神経痛の可能性があり、これは、くわえて、みなみからの「退場」ショックとも密接不離の関係にあるのかもしれない(^_^)v。

(なお、今もバファリンを服用して、休日専用の濃いコーヒー+喜界島の黒糖たっぷり+クリープドバドバ……を飲みながら、PCに向かっている。)

◆現在の肋間神経痛の痛みと密接不離の関係にあると思われる、みなみ「退場」ショックについて少しだけ触れる。

 以前、みなみ在職中のわたしが、①職務上の義務と、②身分上の義務と、③自己の(時間軸上の)アイデンティティへの義務という3つの柱で支えられていて、①②③の3つの中では、圧倒的に③「自己の(時間軸上の)アイデンティティへの義務」が重く、強かったために、日付が3/31から4/1に切り替わる「ポ、ポ、ポ~ン!」の時報で、①&②の2つの義務がふっとんでも、心理的には何の影響も受けなかった……というようなことを書いたことがある。

 今もこの認識に変更はない。
 ①&②が消滅しても、③は③だ。
 仮に①&②が、④&⑤になっていたとしても、③は③だ。
 何十年も、こうして生きてきたし、何十年も、この①と②と③のバランスでやってきたし、他人と接するときも、その人間の①と②と③のバランスの違いで判断してきた。

 しかし、では①と②の消滅が、なんの影響も及ぼさないかというと、もちろんそうではない。
 その「影響」の中味に関する哲学的詳述は、まだ自分の「沈潜」が十分ではないので今は避けるけれども、目に見える現象として、みなみ退場後は、まず、キーボードでカタカタとやる材料がなくなってしまった(>_<)……デジカメでパシャパシャとやる対象もなくなってしまった(>_<)&(^_-)。

 これは、ホンマ、困ったことである。

◆だから、キーボードでカタカタとやる材料をさがす旅に出なければいけないし……デジカメをパシャパシャとやる対象をさがす旅に出なければいけないと思っている。
 よい旅になることを願っている。

 そのひとつの手法が、これまでもときどき話してきた「生き直し」という手法で、もちろん方向は、過去の時間軸上への旅だ。(理論的に、当然、逆に、未来の時間軸上への旅もあるわけだが、ここでは触れないことにする。)

 次は、数年前の記述で、掲示板への、ある人物のカキコミに対する、わたしの返信だ。

 カキコミ、ありがとう。
 3、4年前に観たTVドラマで、記憶喪失に陥った中年の主人公が徐々に回復しかかったとき「もう○○の時代には戻りたくない。(長い沈黙後……)戻るなら☆☆に戻りたい」と語る場面がありました。
 連続ドラマで、わたしは毎回ちゃんと観ていなかったので、「☆☆」が何を意味するのかはよくわかりませんでしたが、学生時代のサークル活動と関係があるようでした。
 その「☆☆」が、わたしにはまばゆく、まばゆく感じられました。
 反射的に、このわたしだったら、いったいどこに戻りたいと言うのだろうか?と考え、……しかし、いくら考えても、わたしには戻りたい時代・場所がありませんでした。
 なんと悲しい人生なのだろうと思いました(T_T)。
 「あまりにもむなしすぎるぞ」と考え……、考えて考えて……、考え抜いたら、唯一、戻りたい場所がありました。
 それは、クラウン英語塾裏の、帽子屋敷の隣の、わたしが住んでいたの家のラッパスイセンが咲いている小さな庭でした。
 あの日、パークホテルの片隅で、あなたと話しているとき、そのラッパスイセンの庭で話をしているような気分になりました。
 キュ~ンと胸がしめつけられました。
 もっともっと、いろいろ話を聞きたかったのですが、以前からの他の約束があり、中座せざるをえませんでした。
 残念です。(カキコミに対する「返信」以上)

◆「帽子屋敷の隣の、わたしが住んでいた家のラッパスイセンが咲いている小さな庭」
 これは、いわば、過去の時間軸上の、わたしの魂の光景のひとつだ。

 カキコミへの返信では、「唯一、戻りたい場所」という書き方をしているが、その後、魂の内側を、冷静に底に向かって沈んでいくと、他にもいくつかあることがわかってきた。
 アトランダムに列挙すると、(あとからまだまだ増えるかもしれないが……)
(1)帽子屋敷の隣のラッパスイセンが咲いている小さな庭
(2)入院中の労災病院の、早朝のガランとした受付ロビー(ここの長いすに座って、新聞自動販売機で買った新聞を読んだ。)
(3)はじめて降り立った、霧雨にけぶるJR八戸線有家駅のプラットホーム
(4)だれもいなくなった根岸小学校の校庭。その片隅にあるソフトボールコートのベンチ(いつもこのベンチにひとりで座っていた。今もひとりで座りたいと思う。)
(5)同じく根岸時代の小田八幡宮境内のわたし住居(ここで「銭形平次」と、その作者・野村胡堂に出会う。)
(6)根城中時代にわたしの精神のうちにあった「方角としての西」
(7)白銀中時代の修学旅行で乗った後楽園の観覧車
(8)大館中時代に書いていた小説の舞台の「地図」(この「地図」の中から毎日、大館中に通勤していた。)

 是川中時代以降は、現存人物が多すぎるのでカットする。

 なお、(1)の「帽子屋敷」というのは地名なのだが、当時、わたしのところに配達される速達の隅に小さく鉛筆書きで「帽子屋敷の隣」と書かれてあった。
 郵便配達員の心覚えだったのだと思う。
 また、(5)の住居に配達される速達には「お宮の隣」と記されていた。
 配達員にとっては、小高という人物の「家」ではなく、「帽子屋敷の隣の小高」であり「お宮の隣の小高」だったのだ。
 こういう存在としての自分がきらいではない。
 すごく「純粋」だから(^_^)v。


★野村胡堂記念館を訪れる前に、紫波町長を表敬訪問。

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