職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

自己の輪郭のルーツ。卑屈さがない。下品でない。狡猾さがない。高慢な口調がない。豪傑じみた高笑いしない

2010-03-22 11:12:51 | Weblog

10.03.22 「自己の輪郭」のルーツ


◆わたしは、よく「自己の輪郭」ということばを使用します。

 たとえば、1学期始業式の式辞で……。
 「自分とつながっていたものから離れ、ひとりになることによって、自分の今の姿・形というのものが鮮明に見えるようになる。ぽつんとひとりいる、この(←校章のうみねこを指す)、うみねこのように」とか……。

 あるいは、日々のDiaryで……。
 「自己の輪郭線を常にピリピリさせる高校生だったわたしが、高安山から、砂漠の砂の、一粒一粒が輝いているような大阪の夜景を眺め、……ああ、自分もこの一粒の光にすぎないのだ……これから何十年か、この一粒として、寒いときはコートの襟を立て、暑いときはシャツ一枚になり、団扇であおぎあおぎ、生きていくのだ……と、少し涙ぐんだ場所です」とか……。

 また、わたしは、人の好き嫌いは、ほとんどない人間ですが(ま、好き嫌いを声高にいう人間は大キライですが)、どちらかというと、自分というものの輪郭が(輪郭を意識的に鮮明にしようというのではなく)無意識のうちに、あっと気がついたら、鮮明になってしまっている……ま、なんといったらいいのか、他人との輪郭をぼかすのが苦手、甘えるのがキライ、あるいは、苦手というようなタイプの人が好きです^^;。




◆けさ、目が覚めて、ふと、わたしにとっての、この「自己の輪郭」のルーツは、どこか?……と。
 もちろん、これは、簡単ではありません。
 無意識領域と意識領域が、かさなって、かさなって、融合しつつ、形成されているものですから、とてもつきとめられるようなものではありません。

◆ただ、いくつか、自己の輪郭が鮮明な生きざまの具体例として、強く意識に焼きつけているイメージがあります。

 わたしが高等学校時代に接した、加藤周一(←思想的には真逆&怒逆だが、人間的には敬愛できる人物)の『羊の歌』のどこかにあったはず……。
 もうひとつは、同じく高等学校時代に接した、江藤淳が自身の少年時代を語った文章のどこかにあったはず……。

 加藤周一の『羊の歌』のどこか……江藤淳の文章のどこか……と、対象がしぼりきれていないので、特に後者は時間がかかるかと思いましたが、一発で、すなわち、『羊の歌』は、パラパラとページをめくった段階で、江藤の場合は、きっとこれだろうと、最初に見当をつけた『日本とわたし』の中に、発見。
 こうして、まったく迷わず、ムダな行程も歩まず、直線的に発見できるところに、わたしの人生の強烈な純粋さを感じます。
 ウソ^^;^^;。




◆まず、加藤周一の記述。

 ……次男、つまり私の父は、浦和の中学校へ入ったときから村を離れ、東京で医を業としていたので、農業を継ぐことは問題にならなかった。
 長男は高等商業高校を卒業した後、何の仕事もしていなかったが、冠婚葬祭のどうしてもやむをえない場合を除いて、決して生家へ帰ろうとはしなかった。
 強いてもとめられれば、女房を送って、自分は行かなかった。
 そのうちに老人の世話がいよいよ必要になり、農家の仕事も誰かが肩代わりせざるをえないようになると、女房は大勢の子供をつれて、田舎の家に住みつき、東京の家へはたまに戻ってくるだけになった。
 東京を動かない伯父は、ひとりで、女中をおき、外出もせず、ほとんど人とも交わらず、朝からどてらを着て酒を飲んでいた。


◆この「伯父」の生きざまが、わたしの脳裏に鮮明に刻まれています。
 この「伯父」の生きざまが、わたしのいう「自己の輪郭」の鮮明さと関係があるのか? あるいは、ないのか?

 私は今もこの奇妙な人物を忘れることができない。
 その若い頃、当時珍しかった写真術に凝り、写真の撮影技術をしばらく教えていたことがある他には、学校を卒業してから死ぬまで四十余年の間、どんな職業にも就かなかった。
 書面にも親しまず、焼き物にも凝らず、美食をも追わず、おそらく女房の他には女も知らなかっただろうし、またおそらく親しい有人はひとりもいなかったろう。
 「いやねえ、男のくせに、丈夫なからだで、なんにもしないなんて……」と私の母はいっていた。
 しかし、私はその人物を「いやだ」と思ったことはない。
 向こうからは決して訪ねてこなかったが、稀に私たちの方から訪ねていったときには、必ず上機嫌で、「おお、よく来たな」といった。
 そのいい方に、私は一種のあたたかさを感じた。
 しかし、そのために、それ以上のどういう感情や、理解が発展するというわけでもなかった。
 伯父のおころで私は退屈をし、その家を出ると、いつも東京の下町の活気を、あらためて強く、身の廻りに感じたものである。


◆伯父と自分との関係の考察。

 「人間嫌い」の語を冠するのにふさわしいほどの哲学が、この伯父にあったわけではないだろう。
 まして「諸行無常」の悟りが、酒と煙草以外のすべてを、その人に捨てさせていたというわけでもなさそうである。
 要するに、怠けていても楽に暮らしてゆける人間が、一生怠けていたということであったにちがいない。
 さればこそ、その人物には卑屈なところがなかったし、出世を望んで出世できなかった大阪商人の息子のように下品なところがなかった。
 働き者で小利口な女房のように、人の背後で立ち回る狡猾さもなかった。
 役人になった東京帝国大学の秀才のように高慢な口調がなく、子分を従えた代議士のように豪傑じみた高笑いをすることもなかった。
 ――要するに、子供のわたしにとって「いやな」ところが、少しもなかったのである。
 私はこの伯父が社会にとって何の役にもたたぬ人間だろうとは、その頃考えてもみなかったし、ましてその役にたたなさと人柄のいや味のなさとの間におそらくはあり得たであろう密接な関係を、想像してみることもできなかった。
 しかし、私がこの伯父と将来無縁ですごすほかなかろうということだけは、子供心にもはっきりと予感していた。
 人はその生涯に、知り得たかも知れない人物を、実際にはすべて知ることはできない。
 伯父を通して、私はそのとき、そういうことを悟りはじめていたのかもしれない。


◆ 末尾の記述は、「私は、こうありたいと願う自分像とは、死ぬまで無縁で生きるほかないだろう。伯父を通して、私はそのとき……」と読むべきなのでしょう。

◆江藤の『日本文学とわたし』は、次回に。
 画像は、根城城址公園の表門付近の風景。


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