2日ほど前だったか何も事件が起こらなかった日のようで、NHKのニュースが中学受験の塾の様子を映していた。塾の先生が子供たちに語った指導内容は、「70点で合格できるのだから、難しい問題には手を付けないで、出来る問題で点を取れ。」というものだった。
いつだったか、京大理学部の先生が、近年の入試の数学の答案で、中間点ばかりで点を稼ごうとするものが増え、新傾向の出題にチャレンジしない答案が増えた、と嘆いて書いていた。
私は同じことだと思う。
今の子供たちの学力が低下している要因の中でかなりを占めるのが、私はこの思考法、「難題にはチャレンジしない」、言い換えて、「自分の限界に挑戦しない」だと思っている。この思考法は、思念の本番だけに限らない。
私が関与する定期テストにおいても同様なことが言える。試験勉強においても、生徒は最初から「自分に出来そうなこと」と「出来そうにないこと」を区別して「出来そうなこと」の勉強しかやろうとしない。試験勉強の準備においてすらこうだから、ちょっと難しそうな問題を出すと、とたんに白紙答案が増える。
他の先生たちがどのように感じているのか私は知らない。しかし、二十数年にわたって似たような学力レベルの生徒を教えてきた、その意味で「定点観測」をしてきた人間から見ると、明白な違いを感じる。
生徒たちは見込みのなさそうなことや効果があるかどうかわからないことには決して頑張らない。彼らが頑張るのは、確実に手に入る物に対してである。労力をムダにかけることをひどく嫌う。だから、解けるかどうか保証のない難題にチャレンジしないし、労力の掛かる仕事は見返りが保証されないから試みない。
「70点での合格は作戦の立て方として当然だ」とおっしゃる方はお見えだろう。(というか、ほとんど皆が同意されるだろう。)
「現状は試験が目前に迫っているのだから、70点で合格を勝ち取ることは全く問題ない。定期試験であっても、自分に有利な結果を得るに当然の行為である」とおっしゃるだろう。
しかし、子供たちが何のために勉強をするのかと言えば、最大の目的が決して「試験のため」でないのではないか。
子供たちがさまざまな努力を重ねるのは、同年齢層の限られた集団内で優位な位置を占めるためではない。(試験の目的はこれである。)そうではなく、自分自身の能力を高めることそのものが子供がさまざまなことを学ぶ目的ではなかろうか。
もっと吟味して言えば、「自分に有利になるように」の「有利」は、いかなるものか。相対的にとるか、絶対的な有利さにとるかで意味は変わろう。「試験の点数」は数値で表れるからうっかり勘違いしやすいが、実は、「他人との比較」という「相対的な位置関係」で表わされた「有利さ」である。しかし、私は、もっと大切な「有利さ」がることを主張したいのである。「自分の能力を高めた方が何事も有利に運ばれるだろう」というものだ。これは、今日の自分が昨日の自分より優位に立つという、いわば、絶対性に基づく有利さである。
それに、子供自身、本能的に「できるかできないかわからないこと」であろうと「できそうなこと」であろうと、区別しないものだろう。とにかく、自分の好奇心や興味関心に従って、「やりたがる」ものだ。だから、子供がやりたがっている難問に挑戦させない教育は、子供の生きる本能を損なうと思うのである。これが一番いけないのではないか。子供は二度とと言って良いくらい、自分の能力を高めるための挑戦をしなくなるだろう。
今の時代、子供の能力を高めることに関心を持たない考え方が増えているように思う。「70点で合格できるなら、それで良い。満点なんて取れっこないし、取る必要もない。」を当然だとする思考法である。現実は、この思考法が、日常に深く入り込んでいることなのだ。
この「勘違い」の罪は深い。子供は「今のまま」、つまり、知識も乏しく、思考力も乏しい状態で、身体だけ大きくなって、それだけで大人になって良いはずがないだろう。子供が教育を受けなければならないのは、様々な知識を獲得する過程で、記憶力や思考力を基盤とする様々な能力を高めること、その行為そのものが、彼らにとって必要なことなのである。この意味で大人が受ける教育と子供が受ける教育の意味は異なる。
「学校で習ったことは役に立たない。もっと役に立つことを教えるべきだ。」批判の声は様々あるのが現実だろう。しかし、役に立つか立たないかわからない知識であろうと、知識を獲得しようとするまさにその過程で、子供の能力は高く伸びるのではないか。この限りにおいて「習い覚えた知識が役に立つ、立たない」は、さしたる問題ではないといって構わない。ただ、覚えるという行為そのものが記憶力を高めるからすばらしいのである。(海馬の脳細胞は増える。)これが、彼らが成長した際に最も「役に立つ」のである。子供たちの外遊びを考えよう。「鬼ごっこ」と言う遊びそのものが「役に立つ」からではない。そのように体を動かすことが、身体、体力作りに役に立つのだ。学校の勉強も同じである。違うのは、その行為そのものが、一般的に面白いと見なされているかどうかの違いでだけだ。算数の計算や漢字の書き取りなどは、一般に「面白くない」。ならば、他に利点を求めなければ割が合わないではないか、将来役に立つか立たないかという物の見方の真実はそんなところではないか。
子供の中には、難題にチャレンジしたがる子供と、最初から逃げる子供がいるだろう。しかし、今は、難題に挑もうとする子供に対しても、「止めろ」と指導をしているのである。おそらく、昔だったらほおっておかれ、意のままに難題に挑戦していた子供までもが、大人の入れ知恵で足踏みすることを覚えさせられるのである。この罪は深い。
さてここで、少し視野を広げて考えよう。
我々が作る共同体は、個々の構成員からなる。そのメンバーの能力は、いかなるものである方が、住み心地の良い社会になるだろうか? 問うてみるまでもないだろう。
「70点を目指す教育」は、あくまでも子供同士の優劣を競うことしか求めない、目先の有利さしか生まない教育である。極めて少人数の集団内での行為なら何の問題もない。しかし、私が危惧するのは、こうした考え方が、今の日本の社会では、ほとんどすべての子供の教育に掛かっているいることである。
「我が子」「我が生徒」だけを目にかけていたら、気がつくまい。しかし、社会全体を見回せば、やがて必ず「なぜ、今までうまくいっていたことが失敗するんだ?」という形で、徐々に社会に「亀裂」が入ってくるのではないかと思う。人々の仕事が雑になり、不良品が増えるだろう。(私の実感では、日本製の衣料品に関して、仕立てや品質が確実に悪くなっている。)
「個」という観点では、逆も言える。こんな教育がはびこっているからこそ、難題にチャレンジするように自分の限界に挑戦する子供を育てれば、圧倒的な強さで勝利を得るだろう。何しろ「底力」をつけているのだから。
ついつい生徒に言ってしまった。
「あなたたちは、お父さん、お母さんが高校生の時と比べると勉強では負けているよ。」
いつだったか、京大理学部の先生が、近年の入試の数学の答案で、中間点ばかりで点を稼ごうとするものが増え、新傾向の出題にチャレンジしない答案が増えた、と嘆いて書いていた。
私は同じことだと思う。
今の子供たちの学力が低下している要因の中でかなりを占めるのが、私はこの思考法、「難題にはチャレンジしない」、言い換えて、「自分の限界に挑戦しない」だと思っている。この思考法は、思念の本番だけに限らない。
私が関与する定期テストにおいても同様なことが言える。試験勉強においても、生徒は最初から「自分に出来そうなこと」と「出来そうにないこと」を区別して「出来そうなこと」の勉強しかやろうとしない。試験勉強の準備においてすらこうだから、ちょっと難しそうな問題を出すと、とたんに白紙答案が増える。
他の先生たちがどのように感じているのか私は知らない。しかし、二十数年にわたって似たような学力レベルの生徒を教えてきた、その意味で「定点観測」をしてきた人間から見ると、明白な違いを感じる。
生徒たちは見込みのなさそうなことや効果があるかどうかわからないことには決して頑張らない。彼らが頑張るのは、確実に手に入る物に対してである。労力をムダにかけることをひどく嫌う。だから、解けるかどうか保証のない難題にチャレンジしないし、労力の掛かる仕事は見返りが保証されないから試みない。
「70点での合格は作戦の立て方として当然だ」とおっしゃる方はお見えだろう。(というか、ほとんど皆が同意されるだろう。)
「現状は試験が目前に迫っているのだから、70点で合格を勝ち取ることは全く問題ない。定期試験であっても、自分に有利な結果を得るに当然の行為である」とおっしゃるだろう。
しかし、子供たちが何のために勉強をするのかと言えば、最大の目的が決して「試験のため」でないのではないか。
子供たちがさまざまな努力を重ねるのは、同年齢層の限られた集団内で優位な位置を占めるためではない。(試験の目的はこれである。)そうではなく、自分自身の能力を高めることそのものが子供がさまざまなことを学ぶ目的ではなかろうか。
もっと吟味して言えば、「自分に有利になるように」の「有利」は、いかなるものか。相対的にとるか、絶対的な有利さにとるかで意味は変わろう。「試験の点数」は数値で表れるからうっかり勘違いしやすいが、実は、「他人との比較」という「相対的な位置関係」で表わされた「有利さ」である。しかし、私は、もっと大切な「有利さ」がることを主張したいのである。「自分の能力を高めた方が何事も有利に運ばれるだろう」というものだ。これは、今日の自分が昨日の自分より優位に立つという、いわば、絶対性に基づく有利さである。
それに、子供自身、本能的に「できるかできないかわからないこと」であろうと「できそうなこと」であろうと、区別しないものだろう。とにかく、自分の好奇心や興味関心に従って、「やりたがる」ものだ。だから、子供がやりたがっている難問に挑戦させない教育は、子供の生きる本能を損なうと思うのである。これが一番いけないのではないか。子供は二度とと言って良いくらい、自分の能力を高めるための挑戦をしなくなるだろう。
今の時代、子供の能力を高めることに関心を持たない考え方が増えているように思う。「70点で合格できるなら、それで良い。満点なんて取れっこないし、取る必要もない。」を当然だとする思考法である。現実は、この思考法が、日常に深く入り込んでいることなのだ。
この「勘違い」の罪は深い。子供は「今のまま」、つまり、知識も乏しく、思考力も乏しい状態で、身体だけ大きくなって、それだけで大人になって良いはずがないだろう。子供が教育を受けなければならないのは、様々な知識を獲得する過程で、記憶力や思考力を基盤とする様々な能力を高めること、その行為そのものが、彼らにとって必要なことなのである。この意味で大人が受ける教育と子供が受ける教育の意味は異なる。
「学校で習ったことは役に立たない。もっと役に立つことを教えるべきだ。」批判の声は様々あるのが現実だろう。しかし、役に立つか立たないかわからない知識であろうと、知識を獲得しようとするまさにその過程で、子供の能力は高く伸びるのではないか。この限りにおいて「習い覚えた知識が役に立つ、立たない」は、さしたる問題ではないといって構わない。ただ、覚えるという行為そのものが記憶力を高めるからすばらしいのである。(海馬の脳細胞は増える。)これが、彼らが成長した際に最も「役に立つ」のである。子供たちの外遊びを考えよう。「鬼ごっこ」と言う遊びそのものが「役に立つ」からではない。そのように体を動かすことが、身体、体力作りに役に立つのだ。学校の勉強も同じである。違うのは、その行為そのものが、一般的に面白いと見なされているかどうかの違いでだけだ。算数の計算や漢字の書き取りなどは、一般に「面白くない」。ならば、他に利点を求めなければ割が合わないではないか、将来役に立つか立たないかという物の見方の真実はそんなところではないか。
子供の中には、難題にチャレンジしたがる子供と、最初から逃げる子供がいるだろう。しかし、今は、難題に挑もうとする子供に対しても、「止めろ」と指導をしているのである。おそらく、昔だったらほおっておかれ、意のままに難題に挑戦していた子供までもが、大人の入れ知恵で足踏みすることを覚えさせられるのである。この罪は深い。
さてここで、少し視野を広げて考えよう。
我々が作る共同体は、個々の構成員からなる。そのメンバーの能力は、いかなるものである方が、住み心地の良い社会になるだろうか? 問うてみるまでもないだろう。
「70点を目指す教育」は、あくまでも子供同士の優劣を競うことしか求めない、目先の有利さしか生まない教育である。極めて少人数の集団内での行為なら何の問題もない。しかし、私が危惧するのは、こうした考え方が、今の日本の社会では、ほとんどすべての子供の教育に掛かっているいることである。
「我が子」「我が生徒」だけを目にかけていたら、気がつくまい。しかし、社会全体を見回せば、やがて必ず「なぜ、今までうまくいっていたことが失敗するんだ?」という形で、徐々に社会に「亀裂」が入ってくるのではないかと思う。人々の仕事が雑になり、不良品が増えるだろう。(私の実感では、日本製の衣料品に関して、仕立てや品質が確実に悪くなっている。)
「個」という観点では、逆も言える。こんな教育がはびこっているからこそ、難題にチャレンジするように自分の限界に挑戦する子供を育てれば、圧倒的な強さで勝利を得るだろう。何しろ「底力」をつけているのだから。
ついつい生徒に言ってしまった。
「あなたたちは、お父さん、お母さんが高校生の時と比べると勉強では負けているよ。」
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