考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

課題ノートと試験の出来

2008年09月18日 | 教育
聞いた話。なかなか興味深い。
「課題ノートと夏休み明け試験の答案を、横に並べて順番に比べていったんですよ。そしたら、きれーいに書いてあるノートと試験の点数に全く相関がないことがわかりましたよ。」

だからぁ、ノート点の平常点なんて、止めればいいの。
と、私は思うが、世の中には、「せっかくきれいに書いた努力を評価してやらないのは可哀想」と思う人が多いようです。
きれいに書くより、自分の理解が深まるように書く術を生徒は学ぶべきなのです。


2 コメント

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賞をもらえない人は気の毒な人? (heisan)
2008-09-19 03:46:54

> 「課題ノートと夏休み明け試験の答案を、横に並べて順番に比べていったんですよ。そしたら、きれーいに書いてあるノートと試験の点数に全く相関がないことがわかりましたよ。」

これは興味深いですね。

教科・科目による違いがあるのかどうかも知りたいところです。


> 世の中には、「せっかくきれいに書いた努力を評価してやらないのは可哀想」と思う人が多いようです。

私たちは昔から「努力賞」という言葉に馴染んでいるが、根幹には、こういう発想を断ち切れない文化的な何かがあると考えざるを得ない。

でも一方で思う。「努力賞」とか「がんばったで賞」とか言うのは、他の賞との比較で言うと、たいていの場合、最も劣位に位置づけられる賞だったりするんだよね。

ほとんどの人が何某かの賞をもらっている状況の中で、何の賞ももらってない人がいると気の毒な気がする。そこで「努力賞」だ。

しかし、考えても見よう、努力賞以外の賞をもらった人は、努力賞をもらう資格がないのかというと、そうではないと思う。
努力賞をもらう人は、たいていの場合、努力賞をもらわない人よりたくさん努力したから努力賞をもらうわけではないという点に、我々は着眼するべきであろう。
ここに、努力賞の本音と建前がある。

「努力賞をもらう人は、努力賞をもらわない人よりたくさん努力している」というのが建前。
「何も賞をもらえない人が気の毒だから」というのが本音。

努力を評価するのは、非常に難しい。
それが本質的に難しい、というかほとんど無理であるということが、上述の建前を通用させる根拠になっている。

つまり、「努力賞をもらう人は、努力賞をもらわない人よりたくさん努力しているのかどうか」ということは、常に闇の中なのである。

そこで、私たちは、私たちみんなが「努力賞をもらう人は、努力賞をもらわない人よりたくさん努力している は ず だ 」という幻想を共有すれば、全員が何某かの賞に与ることができ、気の毒な人が出現しなくなるということを発見した。

それが今日の努力賞の起源であろう、おそらくは。

「人間力」「人間性」などという言葉も、今日では、努力賞と似たような建前の使われ方をしている。


こんな状況を続けていれば、すぐに努力賞には負のイメージがつきまとい、「もらうことすら不名誉」という風に、転落してしまいそうな気がするが、つまり、賞としての意味をなさなくなっていきそうな気がするが、現状をみる限りでは、なぜか、そういう風にはなっていない。不思議である。


ほりさんは、努力賞の存在を嫌っているようだが、ほんとうにこの賞を私たちの心の中から根絶させようとするならば、「何も賞をもらえない人は気の毒だ」と思う心そのものを絶たなければならないだろう。

果たして、何も賞をもらえない人は気の毒な人なのだろうか。
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承認欲求 (ほり(管理人))
2008-09-19 23:52:30
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>つまり、賞としての意味をなさなくなっていきそうな気がするが、現状をみる限りでは、なぜか、そういう風にはなっていない。不思議である。

「カタチ」になっているものを貰うから、それだけで承認欲求が満たされるんですよ。

>果たして、何も賞をもらえない人は気の毒な人なのだろうか。

幼稚化しているとの見方も出来る。

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