生徒の単語力がない。もう、この間驚いたのは、varietyが出てきたものだから、じゃあ、ついでに、この形容詞形は?と聞いたら、誰も知らないという。理系の小人数の講習だったが、偏差位置が60、70を越えている子がほとんどだったのに。
えっ、ウソ!と叫んでしまった。習ってないはずない。1年か2年の教科書に出ている。うん、必ず出てきた。私は教えた覚えがある。私が教えた学年ではないが、同じ教科書だったはずだ。
英語の先生の集まり?で、「低学年の生徒には、教科書に出てきた単語を全部覚えろと指導すればいい」と発言したら、ビックリされた。そんな無茶な、と言うわけであろう。
でも、リーダーであれ、文法であれ、そこに出てくる単語で、我々の知らない単語はほとんどない。1年で使う文法参考書なんて、3年になれば、「全ての単語を知っていて当たり前」のレベルである。だったら、1年で覚えてしまえばそれに超したことがないではないか。でないと上級生になっての積み上げが出来ない。それなのになぜ覚えさせないようと考えないのだろう。私は不思議でならない。
彼らの語彙が貧困なのは、「重要語」を覚えてきたからであると私は見る。間違いないと思っている。
低レベルで「これは重要、これは不要」とやってきた。だから、いったん「不要」とされた語は、その数ヶ月か1年、2年後に「重要語」として巡り会わない限り、いつまで経っても、覚える機会が訪れないからだ。言い換えれば、生徒はせっかくのチャンスを逃しているのである。
でも、こう言うと、必ず「負担が大変だと結局、大事な単語すら覚えきれないから」と言う返事が「先生」から返ってくるであろう。「でも、固有名詞までは覚えなくて良いでしょう。」3年になれば必ず知っていなければならない語が、なぜ1年次で「大事な語」でないのだろうか。3年になって、そんなにたくさんの語を覚えることができるのだろうか。
単語に「これが大事、これは大事でない」なんてあるわけない。全てが大事なのである。全て覚える努力をして初めて、単語同士の関連性がわかり、体系化という「次」に繋がる。穴ぼこだらけで一体何ができるというのだろうか。我々教員が英語が読めるのは、それらの多くの単語を既に覚えてきたからであろう。なぜその良さを生徒に勧めないのか。なぜ、生徒には不可能だと思うのか。
私が高校時代に英語がそれなりにできたのは、教科書に出てきた単語を全て覚えようと努力したからだ。固有名詞も全て覚えた。だから、ややこしい綴り語であっても、なんとか「読もうとする努力」ができる。(それが正確かどうかが、さして問題でない。)2年生で、模試を受けたとき、「あ、この単語は教科書のあの課に出ていた単語だ」と思ったことは何度もある。定期試験には全く役に立たなかった、「不必要」だった勉強が、極めて役に立っていたわけである。さすがに今はいつ覚えたまで覚えてないが、一部の単語に関しては、かなりの期間、これはいつ覚えた単語だ、と言うことまで覚えていた。
テキストに出てきた単語は人名であろうと何であろうと、全部覚えろ、試験に出そうだから覚えるんじゃない、君たちは、「英語」の勉強をしているのだ。どの単語も「英語」なのである。人の名前でも、たくさん覚えていくことで初めて、アングロサクソンの名前かそうでないかなど、察しが付くようになる。これも重要ではないか。それは今から一つ一つを覚えていくことから始めずに、いつできるようになるというのか。単語とだって、「出会い」がある。この教科書だから出会えた「単語」があるのだ。それを重要だと思わないで、いったい何を重要だといえるのだろうか。
日本語を勉強する学生が「さとうさん」「さいとうさん」という名前を覚える必要があるかないかを考えると良い。「さいとうさん」には、漢字で書くと、斎藤、齋藤、斉藤、齊藤・・まだある。「わたなべさん」は、渡辺、渡部、渡邊、渡邉・・・まだある。知っていてソンすることはないだろう。
キャパの問題があるって? それは仕方がない。誰の脳味噌にだって限界はある。しかし、「限界」は負荷をかけることでどんどん遠ざかっていくものだ。「これは覚えなくて良い」は、「限界」を自ら身近に引き寄せる考え方だと思う。
えっ、ウソ!と叫んでしまった。習ってないはずない。1年か2年の教科書に出ている。うん、必ず出てきた。私は教えた覚えがある。私が教えた学年ではないが、同じ教科書だったはずだ。
英語の先生の集まり?で、「低学年の生徒には、教科書に出てきた単語を全部覚えろと指導すればいい」と発言したら、ビックリされた。そんな無茶な、と言うわけであろう。
でも、リーダーであれ、文法であれ、そこに出てくる単語で、我々の知らない単語はほとんどない。1年で使う文法参考書なんて、3年になれば、「全ての単語を知っていて当たり前」のレベルである。だったら、1年で覚えてしまえばそれに超したことがないではないか。でないと上級生になっての積み上げが出来ない。それなのになぜ覚えさせないようと考えないのだろう。私は不思議でならない。
彼らの語彙が貧困なのは、「重要語」を覚えてきたからであると私は見る。間違いないと思っている。
低レベルで「これは重要、これは不要」とやってきた。だから、いったん「不要」とされた語は、その数ヶ月か1年、2年後に「重要語」として巡り会わない限り、いつまで経っても、覚える機会が訪れないからだ。言い換えれば、生徒はせっかくのチャンスを逃しているのである。
でも、こう言うと、必ず「負担が大変だと結局、大事な単語すら覚えきれないから」と言う返事が「先生」から返ってくるであろう。「でも、固有名詞までは覚えなくて良いでしょう。」3年になれば必ず知っていなければならない語が、なぜ1年次で「大事な語」でないのだろうか。3年になって、そんなにたくさんの語を覚えることができるのだろうか。
単語に「これが大事、これは大事でない」なんてあるわけない。全てが大事なのである。全て覚える努力をして初めて、単語同士の関連性がわかり、体系化という「次」に繋がる。穴ぼこだらけで一体何ができるというのだろうか。我々教員が英語が読めるのは、それらの多くの単語を既に覚えてきたからであろう。なぜその良さを生徒に勧めないのか。なぜ、生徒には不可能だと思うのか。
私が高校時代に英語がそれなりにできたのは、教科書に出てきた単語を全て覚えようと努力したからだ。固有名詞も全て覚えた。だから、ややこしい綴り語であっても、なんとか「読もうとする努力」ができる。(それが正確かどうかが、さして問題でない。)2年生で、模試を受けたとき、「あ、この単語は教科書のあの課に出ていた単語だ」と思ったことは何度もある。定期試験には全く役に立たなかった、「不必要」だった勉強が、極めて役に立っていたわけである。さすがに今はいつ覚えたまで覚えてないが、一部の単語に関しては、かなりの期間、これはいつ覚えた単語だ、と言うことまで覚えていた。
テキストに出てきた単語は人名であろうと何であろうと、全部覚えろ、試験に出そうだから覚えるんじゃない、君たちは、「英語」の勉強をしているのだ。どの単語も「英語」なのである。人の名前でも、たくさん覚えていくことで初めて、アングロサクソンの名前かそうでないかなど、察しが付くようになる。これも重要ではないか。それは今から一つ一つを覚えていくことから始めずに、いつできるようになるというのか。単語とだって、「出会い」がある。この教科書だから出会えた「単語」があるのだ。それを重要だと思わないで、いったい何を重要だといえるのだろうか。
日本語を勉強する学生が「さとうさん」「さいとうさん」という名前を覚える必要があるかないかを考えると良い。「さいとうさん」には、漢字で書くと、斎藤、齋藤、斉藤、齊藤・・まだある。「わたなべさん」は、渡辺、渡部、渡邊、渡邉・・・まだある。知っていてソンすることはないだろう。
キャパの問題があるって? それは仕方がない。誰の脳味噌にだって限界はある。しかし、「限界」は負荷をかけることでどんどん遠ざかっていくものだ。「これは覚えなくて良い」は、「限界」を自ら身近に引き寄せる考え方だと思う。
>今は違うんですね。むしろそのことのほうが驚きです。
ちょうど我々?の頃から、「試験対策」という勉強方法が出てきたのでしょうね。旺文社の傾向と対策、シケ単の類です。
これが時代と共にどんどん蔓延ってきて、生徒は、「勉強=試験対策」と考え、「この単語は頻出だから覚える必要があるが、これは頻出語ではないから覚える必要はない」と考えるようになった。で、現に、「これで試験はなんかなる」のも事実として存在するから説得力がある。(今ではこれが高校入試にまで入り込んでるから、いったいどうなるのでしょうね。)
しかるにこれは、落とし穴。勉強が「手段」でしかない、それも、入試突破の手段でしかなくなることです。
だから、今、社会人にけっこう売れているのが、高校生用の文法書らしいですよ。
まあ、(ちょっと戻るけど)こういった考え方で勉強をして大学に入った世代が、今教員をしている。だから、「疑い」を持たない。だって、それで自分は「成功」し、自分の夢、教員になると言う夢を果たしたのだから。
それに、「試験対策」は、「ゲーム」としての抜群のおもしろさがあるんですよね。試験で何点取らせるか、何人合格させるのかという「数値目標」達成という明確な誰にでも分かるおもしろさですよ。これにはまる教員が多い、と私は思います。世間の耳目も集めるし。
で、またこれらは、「英語を真に身につける」まで勉強したかったら、高校生の時ではなく、それ以降に本を読んで、英語学校に行って勉強をしなさい、と言うことなのでしょうね。経済効果もあるし。「受験用英語」と、「英語の真の習得」が「分業化」すれば、それぞれにお金が落ちる。(ふむ。なるほど。ご時世に即応した方策だなぁ。教える方にも仕事が回ってくるし。)
このように考えると、「効率優先」の考え方は、他に「分業化」という別の意味での「無駄」を生む。(養老先生が書いてたけど、家からゴミ(非効率なモノ)を出せば、外にゴミがたまってくるから、その処理に労力がかかる(英語学校など)のと同じだな。)
基本的に,ほり先生のご意見に賛同します.
ただ,その前提のうえで個人的な「たわごと」を・・・
>模試を受けたとき、「あ、この単語は教科書のあの課に出ていた単語だ」と思ったことは何度もある。(略)一部の単語に関しては、かなりの期間、これはいつ覚えた単語だ、と言うことまで覚えていた。
ボクもまったく同様で特に中学のときは(自分で言うのも変ですが)凄くて,教科書のどこにどうあったというところまで丸暗記していたんです.英語に限らずです.ボクの中学が特殊だったのかもしれませんが(普通の公立中ですけど),中間・期末という定期試験は先生が作成しますから,教科書の章末問題や小テストの問題がそのまま(あるいは数字を少し変えて)何問か出るなんてことも結構ありました.だから,数学の結構長い証明が要るような問題でも,問題を見た途端に答えが分かりました.「あっ!これはあの小テスト第二回目の2-1の問題だ!」って(笑).
さらには音楽なども実技以外にペーパー試験があったのですが,楽器も何も弾けず,超オンチなボクでしたが,とにかく指定範囲を丸暗記して,楽譜の穴埋め問題なんかでも満点を取っていました.その隣でピアノで全国コンクールに行くような女の子が80点だったりするのに(笑).これは中学生ながらに,変なテストだなぁ,と思っていましたよ.
(それこそ自分でいうのは変というか自慢のようになってしまいますが)だから,そういった定期試験で学年トップなってボクの眼中にはなかったですね.1位なのは当たり前なので,いかに全部を満点を取るかしか考えてなかった.もっといえば,保健体育や音楽なども含めて,全てで満点をとることが目標です.それで5教科で,いつも490点くらいで,最高は499点でした.
もう,社会科の歴史でもなんでも教科書や副教材の何ページ目の欄外のどこそこにこう書いてあったということまで覚えていましたから,出題範囲が限られていれば満点を取ることは不可能ではない.それなりに記憶力も良い部類の子供でしたから.テストの最中に見直しのとき自分で採点できるんですね.ほとんど満点ですから,正解かどうか怪しい問題が一つあるかないか・・.絶対,満点だと確信できるときも多かったですが,やはり1問くらいは,どっちだったかなと悩む問題があるんです.だから,大体98点か100点のどちらか.自分で今回は494点かなとかテスト時間中に予想してました.
それで田舎でしたから高校は地元の伝統県立進学校に行ったんです.そこでもそれなりの成績を最初は取っていました,まあ大抵10位以内.1位も何度かありました.当時のボクの高校のレベルだと10位以内なら東大京大が狙えるという感じです.
でも段々成績が落ちてきて3年の最後のほうでは100番以下でしたね.その理由はたくさんあって一言では言えないですが,自己分析するに「さすがに高校の範囲なら全部は覚えきれない」ということですね.英語だけとかならある程度何とかなったのかもしれませんが,ボクは全教科全科目で習ったことは一つたりとももらさず全部覚えようとしましたから,そんなの無理ですよね.超完璧主義の弊害です.しかも,中学での成功体験もあるから・・.そうなるとモチベーションが急転下です.
ボクは効率重視に懐疑的だけど,効率的にやるということに対する憧れというか後悔も持っているわけです.
今も社会人になって,基本的に仕事の仕方がそうなので,ちゃんと反省してないということでしょうか(笑).例えば新しいことをやるなら,そに関係ある本や教科書を一から読み始めるんですよね.今でも.で,教科書を理解したころには,その問題はもう終わっているから,成果なしのダメ社員(笑).もっとも自分自身は新しい知識が増えているので,損はしてないわけですが,会社は慈善事業ではないですから,ボクが稼がなかった分は誰かが稼いで食わしてもらっているわけですね.まあ,長い目で見て会社や社会にお返しできれば良いと思いますが,ムダ勉強だけで終わりそうな気もします(笑).
>ボクは効率重視に懐疑的だけど,効率的にやるということに対する憧れというか後悔も持っているわけです.
「効率」というのは、結果が想定されてのことなんですよね。
ゾウムシさんのすごい記憶力は、「記憶すれば満点が取れる」という結果がわかっててのことだから、その意味では非常に効率的な勉強方法だったのですよ。(しかし、499点はすごいなぁ。。。)
「効率」ってのは、曲者だと思ってます。
かならず、「想定された結果」がすでに存在することを前提にしているから。それで、「無駄を出さない」ことが目的になるから。
でも、世の中の多くのことは、ホントは「結果が想定されない。」 だから、「無駄」が新たな成果を呼ぶ。失敗は成功の元なんて、陳腐だけど、真実。
だから、逆に、諸処で問題が起こって解決を図るたびに新たな問題が浮かび上がる。
目先の問題に対処する「効率」と、長期的な幸せ?に結びつく「効率」が異なる。相反する。そこが難しいところでしょうね。
で、今の時代、「無駄」を極端に排除する傾向があるから、子供がマトモに育たない。
私は教育に関しては、「長期的に見ろ」と思っちゃうから、人間とは何かなど、今日明日の受験結果とは関係のないことを話題にしちゃう。
で、学校では、しばしば「それは関係がない」と思われたりすることが多い。関係ないことなんて、何もないのに。
先に謝っておきますが,いつも長文ですみません.
マナー違反だと承知しているのですが何卒ご容赦を.
話を聞いてくれる人が少ないので(笑).
「教育」では「長期的な視点での幸せ」で良いと思うんです.もっとも今はそういう視点で語られる先生のほうが少数なので,ほり先生はそれを問題提起されているのでしょうけど.
でも実社会を生き抜くときは正直なところ,なかなか難しい.
先のボクのコメントのタイトルで人を見て法を説くしかないと書いたのは,結局,人それぞれという思いからです.
ボク個人に限ればゆとり教育の理念そのものは,とてもいいと思います.このエントリにコメントを書いたのも,単語をたくさん覚えましょうって当たり前なんだけど,個人的にはなんか引っかかったからです.
詰め込み教育の弊害からゆとりになって,やっぱりある程度は無理やりでも覚えさせようという流れに戻っていると素人なりに見ています.
でも,ボクは全部覚えようと頑張って詰め込み型でガンガンやったのですが,今あまり充実しているとは思えなくて複雑です.
それは社会的・職業的な成功という意味でもそうですし,ほり先生が言われる人生の幸せという意味でもそうです.
しかしマクロで見て詰め込みが不要かといえばそうではない.やはり単語をたくさん覚えるしか方法はない.
要はバランスでしょうが,そこは非常に難しいように思います.
上にも書いたように「人それぞれ」ですから.
だから,ある学生には「もっと覚えろ覚えろ」でいいでしょうし,別な学生には覚えろ覚えろ「だけ」ではだめなんでしょうね.
ボクはよく思うのですが,学校の先生のアドバイスって,届かなくてもいい学生には過度に届いて,本来届かないとダメな学生には全く届かないということがよくありますよね.
例えば中学生に帰宅途中の買い食いはダメと言いますよね.でも,大人になって考えれば,夏の暑い日の学校帰りに駄菓子屋で50円のアイスクリームを買って友達といろいろな話をしながら帰宅する程度なんて何の問題もないわけです(現役のほり先生がそれでよしとは言いにくいでしょうけど).むしろ,陳腐な言葉ですが,そういうのが青春の良い思い出ではないかと思います.仮に先生に見つかって怒られても,それはそれで良い思い出だと思います.でも,ボクは頑なに先生の言いつけを守りましたから,そういう思い出は皆無です.そして,そういう小さな経験の積み重ねって実は貴重なんですよね.例え悪いことでも・・・.修学旅行で,枕投げなんて旅館の備品を粗末に扱うな!と言って,明日は早いからといって早々に一人で寝るようなものです.(さすがにそこまでの堅物ではなかったですが(笑),でも,それに近かった子供でした.)
ボクのような絶対に枠からはみ出さない子供には,時には「出ちゃえ!出ちゃえ!」くらいあっても良いと思うんですが,少なくともボクにはそういうことを言う人はいませんでした.
そうすると「想定された結果」しか追い求めないスケールの小さな人間になります.しかし,そこで奇妙な逆説なんですが,そういうスケールの小さな人間にはその想定された結果にすら効率良く行くこともできない.
実社会の想定された結果というのは,ほり先生の言われるとおり実は想定外のことがどうしても含まれている.一見想定された結果に見えても内部を精査するとそうなんです.やはり実社会では正解がないんですね.
いくら脳化社会で「ああすればこうなる」としようとしても,人体という自然が内包されている限り,どうしようもないのと一緒です.
そうすると結局,人間的な大きさのようなものが効いてきますから,ボクみたいな詰め込みだけが得意な人間ではあまり役に立たない.
でも,教育の効果というのは恐ろしいもので(言い訳や責任転嫁のつもりではないのですが),なかなかそのやり方を変えようとはしない自分がいる.もう意地になっているのでしょうか.
だから火事が起こっているのに,消火器の取り扱い説明書を熟読している.いや下手すれば消火器の動作原理の解説本を火事の横で読んでいるような仕事の仕方になっています.
そこで開き直れるくらいなら大物だと思うんです.家は火事で消失したけど,消火器の原理は分かった!,って(笑).そこでしょうかね,難しいのは. 長期的視点の幸せということであれば,消火器の原理が分かったほうが幸せかもしれない.しかし実社会では火事を消さなければならない.普通に現代社会の常識で考えれば,火事だったのに俺って何してたんだろうと思いますよね.丸焼けの家を後から改めて見れば・・・.
だから,単に社会的に成功してお金を儲けるということではなくて,そういう仕事の仕方しかできなければ,そして,普通の生活でもそういう感じのことが多ければ,やはり充実感というのは少ないですよね.現代社会の価値観からはなかなか逃げられないですから.
これは別に丸暗記教育,単語をたくさん覚えよう「だったから」,こういう思考回路ということではないとは思います.暗記とは全く別々のことだとは思うんですが・・・でも,底の方で繋がっているような気もします.
実はボクはアメリカに赴任して1年働いていた経験があるのですが,その間の英語力の向上はさっぱりでした.いわゆる海外生活での失敗日本人の典型例と思ってください.
英語力の向上って突き詰めればシンプルだと思います.「たくさん読む.たくさん書く.たくさん聴く.たくさん話す.」だから単語を片っ端から覚えましょうは大正論だと思います(英語の先生に釈迦に説法ですね(笑)).
でも,ボクはたくさん読みも書きもしなかったし,ネイティブだらけの環境で「たくさん話す」ことをしませんでした.なぜなら完璧に話せないから・・・.499点はすごいなぁとのことでしたが,それだけの成功体験は簡単には抜けませんから,満点の文章じゃないと恥ずかしくて口に出せない.で,そんな満点の文章なんて言える訳がないから,まったく話さない.これじゃあダメなのは当たり前です.
と,まあ長々と自己分析というか愚痴はいくらでも書けるのですが,「ではどう対処する?」という次のステップに行くのはなかなか難しいですね.理屈ではある程度わかるんです.完璧な英語・・・そんなものないだろう.お前の日本語だって意味不明,誤字脱字だらけってのがたくさんあるじゃないか,とね.でも,頭でわかるのと実際の行動というのには乖離がある.「文武両道」の回路がきちんと回ってないんでしょう.
もっとも英語や仕事の仕方のダメな部分は,単語をたくさん覚えるというような方法論というよりも性格的な要因のほうが大きいと思いますので,そこまで学校教育の範疇かといえば違うような気もしますけど.
でも,間違いを恐れて,失敗が許されず,そしてシャイで・・・,日本人の特性だと思いますので,その対策というのは教育の問題でもあると思います.もちろん,そういう国民性を変えてしまう教育というのは功罪両面が当然ある思いますが. あるいは変えられない(変わらない)なら,良い方に伸ばすとか.
とにかく人を育てるというのは難しいですね.自分が育つのも.
上の文章では矛盾している部分も多いと思いますが,ボクの文章力がないためにそうなっているケースと,本当に人間の存在や思考そのものが矛盾を多く含んでいるからなのだろうと思います.
と,まあこんな感じで,変な自分語りをしてしまいましたが,単語をたくさん覚えようなんて正論すぎる正論なんですが,「がむしゃら」にやる部分と,一歩引いて「戦略的」にドライに考えてみる部分が必要だという,こんな当たり前のことにいい歳になるまで気が付かなかったというお粗末な話です.
あと,世の中が戦略(頭の中)的だらけであふれているので,意図的にされているのだと思うのですが,あまりに「単語は全部覚えろ!」を強調されると,当時の学校教育の仕組みに素直に従って,テストは満点,悪い素行は全くなしで先生の言いつけを守って50円のアイスすら買わなかった(そういうはみ出す行動力ゼロが今の仕事の進め方にも現れていると思うので)自分が何か情けなく感じるんですよね.
結局,自分が養老先生の言う典型的な脳化社会の人間で,「ああすれば,こうなる」でカチカチに固まっているというように思います.で,計算に計算を重ねて失敗しない方法は・・・となると「何もしない」になるんです.何もしなければ失敗はありえませんから.アメリカでの英語の失敗もこういうことでしょう.英語を話さなければ間違えることもない.でも何もしなければ成功もないんですよね.だから充実感がない.負のスパイラルです.
こういうのを昔は一言「バカ!」と言ってお仕舞いにしてくれる大人がいたんでしょうけど,今はいないんですよね.そこで養老本にはまったんでしょうね.やっと巡り会えた「バカ!」と叱ってくれた大人(笑).まあ,こちらももうそろそろいいオッサンの年齢ですが(笑).
長々失礼しました.
> 先に謝っておきますが,いつも長文ですみません.
> マナー違反だと承知しているのですが何卒ご容赦を.
> 話を聞いてくれる人が少ないので(笑).
ゾウムシさん、こんにちは。
こっそり(?)話を聴いています(笑)。
興味深く読ませていただいています。
こういう「具体的で個人的な体験」は、教育においてはしばしば決定的に重要だと思いますので、非常に参考になります。
(まだリードオンリーの段階です。すみません^^;)
こういう勢い系(?心情吐露系?)の長文は読ませていただいている最中に非常に満足感があります。ありがとうございます。
長文コメントは、一向にかまいませんし、掲示板使用も、OKです。どんどんやってください。一応、間に入ると思うけど。(笑)
>もっとも今はそういう視点で語られる先生のほうが少数なので,ほり先生はそれを問題提起されているのでしょうけど.
そうです。私みたいなことを言う人、少ない。だから、言ってると思う。
>要はバランスでしょうが,そこは非常に難しいように思います.
>だから,ある学生には「もっと覚えろ覚えろ」でいいでしょうし,別な学生には覚えろ覚えろ「だけ」ではだめなんでしょうね.
>ボクはよく思うのですが,学校の先生のアドバイスって,届かなくてもいい学生には過度に届いて,本来届かないとダメな学生には全く届かないということがよくありますよね.
ホント、おっしゃるとおりです。
>届かなくてもいい学生には過度に届いて,本来届かないとダメな学生には全く届かないということがよくありますよね.
これなんて、ホントそうです、その通りなんです。
だから、先生は生徒に矛盾したことを言っても、良いと思ってます。でも、今は悪平等の時代で、「常に同じことを言わなければならない」ことが要求されてるようだから、間違ってるなと思う。
グレイゾーンとか、一見ひいき目に見えることも、ホントは有り、なんですよね。それが生徒を成長させることになる。でも、表面的なことだけで、教員も生徒も親も解釈するようになって、生徒は成長しなくなった。教育目標の達成という観点では最悪です。
それから、矛盾するようだけれど、でも、私は、長期的には、ダメな学生にもそのうち届くように見えることがありますから、その意味では、私はしつこい。(笑)諦めない。
>でも,ボクは頑なに先生の言いつけを守りましたから,そういう思い出は皆無です.
私も皆無です。(笑)でも、最近?は、開き直ってます。だから、私はお天道様のもとを堂々と歩けるんだな、と。閻魔様も(ほとんど)恐くなーーーい。
悪いことをして、それで、「良い思い出」として多く持ってる人はたくさんいると思うし、大人になって、自分では「ちゃんとやってる」と言う人は確かに多いと思うけど、果たしてホントにちゃんとやっているのかどうかはアヤシイものだと思いますよ。「もっとちゃんとやっている」人が、多いんですよね。
学校時代にちゃんとやってなくって何とかなった人は、「他の真面目な人」に助けられてたんですよ。でも、その事実に気が付かないで、「自分の力だけでちゃんとやれるようになった」と思っている人が多い。(全く良い迷惑です。)予習をせずに授業を受ける生徒と同じです。他の真面目な人が予習をしてきているから授業が成立しているわけで。
まあ、だから、僭越ながら、ゾウムシさんも、もっと堂々と開き直れば良いんですよ。うん。ホント。
学生時代に不真面目だった奴らは、もっと稼げ、君たちは火事の火を消せ、オレは消火器の基本原理の勉強をする、って。
私はそう思って、開き直ってる(けど、それは自分が「おばさん」だからなのかなぁ?)。(笑)
充実感って、そんなに良いモノだろうか。(あ、すごい反抗的かも。苦笑)
生徒を見てると、ちっぽけな充実感に縛られているのをよく見かけます。まあ、充実感と言うより達成感と言った方が良いかもしれないけど。
目標を低くして、「達成感」を得ている。教える側も、そうさせているのが、今の教育のような。
だから、真の達成感を得られない。達成感は、「部活動」で「得ることになっている」。それも、時には、「負けたけど、弱いチームだったけれど、買い食いをしたから高校生活は充実していた」とかのちっぽけな思い出作りの自己満足。で、かつ、学習活動は「付け足し」。そんなので大人になってからの人生、ホントの意味で楽しいのだろうか。私なんて、大人になってからの方がずっと楽しいぞ。イヤなこともいっぱいあるけど。
まあ、というわけで、こう言う生徒を見ているから、私は中学高校時代に、ものすごく真面目に勉強をして、大人になって、今ブログに書いてるようなことをそれなりに自分で考えることができるようになったのも、まあ、そんなに悪くないんじゃないのかな、と肯定的に思ってます。
養老先生の面白さも分かるし♪♪(あの面白さは誰にでも分かるものじゃないですよね♪)
多分、ゾウムシさんは、私よりお若いのだと思いますよ。もうしばらくすると、私のように達観(!?)できますよ。
単語は、今の生徒は、ホントに、知らない。だから、言ってる。もー、偏差値70でvariousも知らんなんて、信じられない。だから、全部覚えろ、とも言いたくなる。(そんなに難しい単語なんてでてないんです。今日やったテキストだと、distributionくらいかな。でも、私は高校生の時、知ってたよ。)
この私が、単語テストをやろうか、と思いたくなるほどの生徒の単語力ですよぉ。でも、しないでおく。自分でやるべきものだとと思ってるから。まあ、刺激のために、たまには抜き打ちでテストをしようとも思うけど。成績には入れないけど。
授業は徹底的に「読解」に拘ってる。筆者はなぜここで、こんな表現をしたのか。書いてない前提や真意は何か、とか。(試験にはそこまで出ない。)
段落ごとに要約させるとか。(これは試験に出るな。)でも、私は「正解」を言わない。(めんどーだし・笑)
私の駄文で少しでもお役に立てたなら幸いです.
人様のブログですが(笑).
ほり先生
そうですね.
おっさんと言われても文句言えない年齢ではありますが(笑),まだ若いのでしょうね.精神的には幼いのでしょう.
上に書いたようなことは昔は結構なコンプレックスでしたが,今は確かに段々気にならなくなってきました.
あるいは,自分の悩みというよりは,それを客観的に見ることができるようになってきているようです.
だから,自分のことを例に出して,問題提起という面もないではないですね.
でも,こんな長文を書いているというのは,やっぱり気にしているんでしょうね.
達観するにはもう少し時間が必要なようです.
同様なコンプレックスは私もありましたよ。(私はそんなに良い成績をとったこと、ないけど。どーしても、できないところがたくさんあったから。笑)
でね、この間の私の↑のコメント、ちょっと真実とずれてたかなと、かっこよすぎたことを書きすぎたかと(苦笑)。。。
私は石橋を叩いて渡らない性格ですが(養老先生は、石橋を叩いて壊すらしいけど)、気が付いたら、川に落っこちて溺れかかってた、(まだ溺れてる?)ってこともありますので(笑)、人生、いつ、何がどうなるかなんて、分かったことじゃないですよ。
きっと、プラマイ・ゼロなのでしょうね、と思います、はい。
だから、人生は過程なのだと思います。
自分の性格で、トクしたなと思うのは、何かこう、マズイ状態になったときでも、どこからかむくむくと前向きな感情が生まれてくることです。
この間の内田先生のブログに、善い人は何か良いことは自分の努力のせいだと考えるとかいう内容がありましたが、私って、けっこう善い人の部類に入ると思うんだけど(笑・偏屈なところもあるけそうとう素直だし。)、この「むくむく」は、決して自分の意識的な努力ではないんですよ。その自覚がある。
なにかしら、どこからか「与えられている」気がする。自分の力だと思えない。でも、わき起こってくる。
だから、トクな性格かな、と。親から与えられたのかもしれないし、環境から貰ったものかもしれない。
まあ、だから、内田説には、反対だな。
(内田説が真実なら、単に、「ほりは悪人である」ということですが。う~ん、そうなのかな。でも、「オレがこうなったのは、周りのせいだ」とは、まあ、あまり考えないからなぁ。。ひどい目にあったとは、思うけど。笑)