考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

学ぶ側の態度と教える側の態度

2011年07月07日 | 教育
 実は、内田先生のブログで、ちょっと思ってしまった。
 内田先生は、大学の先生だから、高校教員とは違う。同じ教育を語るにしても大きく異なる点があるはずだが、「一般論」としてとらえると、誤解を招きかねないと思った。
 
>教師として私は、若者たちに「知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感」をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。

 極めて正しく、広く受け入れやすい考え方だと思うが、そのために取られる簡便な方策が、おそらく「ほめて育てよ」だったのではないかと思う。
 しかし、世の人というのは、えてして「ほめて育てよ」を「叱ってはいけない」ととらえる。子どもを叱ることは子どものやる気を損ね、教育的に、それこそ有害無益である、ととらえる。

>学生に向かって「お前はバカだ」とか「お前はものを知らない」というようなことを告げるのは(たとえそれが事実であったとしても)、教育的には有害無益である。
>「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。

 う~ん。。これが、ところが、「でへへへ~」と笑って、あるいは、素直に受け入れ?そうした怒鳴り声に慣れて、にこにこ勉強をする生徒も、あるいは、「くそっ」と思って、勉強をする生徒もいるんだよね、これが。最近、こうした生徒は少なくなっているのだろう。女子と男子の違いなどもあろうから、内田先生は出会わなかったのだろう。ま、まだまだ、日本も捨てたモノではないとも思う。

 子どもが、まず、知るべきは、「自分はモノを知らない、自分の周りには自分の知らない世界が広がっている、どこにどのように広がっているかすら、自分は全く知らない」という事実である。しかし、現実は、大人びたがる中学生を過ぎても、自分の知っている世界がすべてだ、という顔をして、学ぼうとしない生徒であろう。そうした生徒には、「ものを知らない」という事実を告げることが必要だと思う。恫喝したり怒鳴ったりは全く次元を異にする話だから、感情は別ものである。ここで言う「別もの」とは、誤解を恐れずに言えば、「なくてもあってもどちらでも実質的には構わない」ということである。愛情があるかどうか、が関わることでもあろう。「先生は心配して怒鳴っているのだ」となれば、問題がなかったりもするということだ。とにかく、「事実」を伝えるのである。経験的に、私は、それなりに効果があるのではないかと感じる。数量的に検証できるわけではないが、言ったそのとき、言われたそのときはわからなくても、生徒を見ていると、何かしら、「わかってきたような感じ」を受けることがあるような気がする。

 内田先生が、ここで書いているのは、例の会見の様子の恫喝や怒鳴る場面でのことだろう。ただ、文字情報にしてしまうと「おまえはバカだ」「おまえはものを知らない」という字面だけが一人歩きして、「そのような言葉を少しでも発した場合は、発する方が悪い」という価値、ある意味、マニュアル化した無思考(←たぶん、造語)の状態になろう。(ときによって、「短見」を正統とするなどの「想像力の欠如」もあり得る。)

 内田先生は、極めて常識的な感覚で書かれているのだが、読む方は常識的だと限らない。それで、経験的に、常識的でないマニュアル的な無思考法がはびこる現実にしばしば直面するものだから、何だか、誤解を生みそうな気がして、「ちょっと困ったな」と、私は正直思ってしまった。

 学生を真綿で包むかのように、ひたすら手厚く扱わなければ、こっちが手痛いしっぺ返しに合いかねないならともかく、(というか、現実は、しっぺ返しがあるかもしれないことを事前に「常識」として気にかけておかなければならない状況に、既になっていて、しっぺ返しを食らうことはしばしばあるのだが)子どもは、小さいときから、自分のいくらかを否定されるように叱られる経験を持たないと、それこそ、なにかちょっと合っただけで、全人格を否定されたと自信を失いかねない大人になりかねない。それで、現実、そのような若者が増えているだろうと思う。
 言葉を換えると、周りの「大人」が、子どもを傷つけまいとして、あるいは、しっぺ返しを避けるように我が身に不快が降りかからないことを目的に、子どもを大事に大事に扱いすぎると、本当に可哀想なのは、大事に大事にされたはずの子どもになってしまう。子どもは短見な大人や保身の大人の犠牲になってしまう。今の子どもたちの最大の不幸は、こうした短見や保身が世の常識としてはびこっている点にあるのではないかと思う。この意味で、現代は、子どもが大事にされてない時代と言えよう。

2 コメント

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「馬鹿」という言葉 (影法師)
2011-07-08 11:07:08
 淡々と事実を伝えるのと、そこに感情を込めて伝えるのとでは、おのずと用いられる言葉に違いが生まれてくると思います。

 よっぽど注意して用いるようなことがない限り、この「馬鹿」という言葉は罵倒語として用いられるものでしょうから、正面切って発せられて気分を害しないものはいないでしょう。
 本当に、高次元の世界へと誘う意識を持っているのであるとすれば、あえて罵倒語など用いいらずとも、十分に知らぬ世界があるということを、想起させる術はあると思いますが。
 その努力を怠ったとすれば、教える側が悪いのは当然です。
言葉だけではない (ほり(管理人))
2011-07-08 23:45:02
影法師さん、コメントをありがとうございます。

地方によって、いかなる言葉が「最低」を指すのか、異なると思います。ばか、アホ、まぬけ、いろいろ。

個人的に言うと、私は、勉強ができないことについて、「あほ」「ばか」などの言葉を決して思いつきません。
でも、勉強をしない、努力しない、態度、素行が悪い、などの場合、こうした言葉を使いたくなることがあります。
小ずるく、利己的で、邪悪な態度に、本当にハラが立つことがあります。他の生徒の迷惑を考えない態度には、本当に、心底、ハラが立ちますから。
でも、使いません。
気分を害したくないからではありません。その意味では、気分を害してやった方が、どれほど教育的かわかりません。でも、使いません。
イマドキの時代です。自分に災いが降りかかるのを避けるためです。
そうでなくても、どこでどのように「悪意」に遭遇するか、わかりません。
ナマミの感情を抑えるのにはエネルギーを使います。その分、正直、生徒の指導に対する気持ちは萎えますよ。
本気になると、ソンする、という気分になります。でも、ついつい、本気になろうとすると、すごいストレスですよ。
ものすごい、アンビバレントな状況です。
この状況は、ひょっとしたら、本気になろうとして病むか、美辞麗句を並べて本気にならないか、のどちらかかもしれませんね。

勉強に関して、教室で、でかい声で罵倒語を浴びせられても、へっちゃら~、「慣れました」などと言う生徒はたくさんいます。
まあ、先生の方も、心底、罵倒しているわけでもなく、面倒を見てやらなければならない、という気持ちにあふれています。
とっても、健康的です。
言葉は、言葉だけでないのです。

もっともいけないのは、学ぶ側が「教える方が悪い」ととらえることで、自ら自分の成長を止めることです。
この点、上記のようなとっても健康的な生徒は、とても賢いです。

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