考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「間違いだらけの教育論」

2009年08月21日 | 教育
 だいたい読み終えたが、諏訪さんが最も言いたいのは、前書き部分のサリバン先生である。
 サリバン先生は、野生児のようなヘレン・ケラーを暴力的に啓蒙し、世界の中心に自分がいないことをヘレンに教えたことだ。ところが、今の教育に最も無自覚的になって、無視されているのが、「啓蒙」ということなのだ。
 啓蒙は、力尽くで押しつけでしか行えない。ここで、「力」とか「押しつけ」「強制」、また、上記のサリバン先生が行った「暴力的」という語句そのものに反応する人がいたとしたら、余りにも幼稚で人間を知らなさすぎるだろう。
 通常考えうる教育のすべては、ここで言う「啓蒙」なくして行えない。現場で真面目に教員をしようとしている人なら、誰でも気がつくことだろうが、「今の時代は・・」とか「やっぱり生徒を納得させないと・・」などのコトバが何より先に付いて出てくる今風の方は理解しない、否、理解したくない真理だろう。
 私が、公立学校の教員は透明であるべきだと考えるが、推し進めれば、諏訪さんの言う「啓蒙」に至ると思う。啓蒙は、すべての教員が生徒になすべきことで、啓蒙された生徒は、私の言う「生徒力」をつける。であれば、あとはほぼ自動的に知識や技能の習得につながる。(←言い切る。)諏訪さんは、啓蒙を近代的な自我を持つ個人と書いていたが、いかなる社会や時代であろうと、社会を形成しない人間はないからには、啓蒙は普遍として受け入れられるべきものだろう。
 どこか忘れたが、啓蒙に関する叙述で、思わず涙ぐみそうになった(ここまで言うと、言い過ぎかもしれないが・笑)ところがあった。私も、名もなき教師の一人だと思った。でもね、私、何回も教員研修を受けているが、これに関することを言われたのは、校内の新任研で教務主任の言「生徒を叱れ」くらいだ。それ以外は、一つもない。変な話である。

 この本は、読み方によっては、難も見つかるだろう。それでも、筆者の最も言わんとすることを読み取るのが読者のなすべきことだろう。

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