考えるのが好きだった

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一流と二流は全然違う

2010年02月18日 | 教育
一流と二流は全然違う。ベクトルで言うと次元が異なる。基礎力と戦略という観点で言うと、基礎力が全然違う。二流の努力の仕方では決して到達できないところにいるのが一流である。要は、一流と二流は、決して同一の尺度で測られるものではないということだ。
 日常的に言っても、あらゆる職業、あらゆる観点において、一流と二流の違いが存在すると思っている。きわめて卑近な例だが、初めて行った美容院で若い美容師が初めての客に精一杯接してくれた。腕は悪くない。しかし、私が常連客になって慣れてきたら変わった。当初の新規客を捕まえようという目的が果たされたのだと思う。私はこの人は一流になれないと思った。何年かしたら、彼女は理由は知らないが美容院を辞めた。どこかよそでやっているのかもしれないけれど。
 「そこまで出来ない」「そこまでやる必要がない」と思うか否か。もっとも、仕事という観点で言うと、働き過ぎの問題を抱えるから、無理して働くのが良いと言いたいわけでない。しかし、同じ時間をかけるなら、同じような身体活動を行うのであるならば、人によって、時と場合によって、大きな違いが生じることがあって当然であろう。それで、その違いが時間や明らかに言語化できる活動の違い「でない」とき、一流か二流かの違いとなって顕在化する。
 生徒の勉強の仕方を見ても、同じように教室に座って授業を受けるにしても、教室から立ち上ってくるオーラがひどく異なることがある。授業者は同じ授業者で、使っているテキストも同じである。それでも、異なる。授業者の一言一言に対する反応が違う。発言が多い、少ないの問題でない。メモの取り方は誰の目にもわかる違いになろうが、最も違うのが「目」である。目が反応をするかどうか。言い換えると、心がどれだけ動いているかどうかである。授業で心を動かすことが出来る生徒は、授業の受け方を知っている生徒で、伸びていく生徒である。授業を受ける生徒として一流の生徒だと言うことだ。
 一流は、相対性に準拠しない。上位数パーセントが一流で他は二流以下だと言うことではない。絶対性を持つのが一流である。この際の絶対性とは、人間そのもの、具体的には脳を含めた身体に関わるだろう。身体なくして何ごとも行えないからこれを絶対と判断して良かろう。身体とは、「感覚」が自己を取り巻く世界の「違い」を捉え、「脳」が「同じ」をとらえる。この事実に関して他に説明は必要ない。
 こうした絶対性に依拠すると、一流とは、己が持つ人間としての絶対的な存在を基盤に感覚をより研ぎ澄まして外界から情報として収集したものを脳が適切に判断を施して達成するものだということになる。感覚が精密になればなるほど収集される情報量が増える。細分化されて世界がとらえられるからだ。この膨大な量の情報を、今度はさまざまな角度、観点から「同じ」ととらえ直す。「同じ」は差異を捨象する作業であるから、何をどのように捨象するかによって情報は大きく変容する。この過程を具体的な人の活動に戻して考えると、一流とは、目に見える表層や付け焼き刃的な方法論ではなしえないということになる。「感覚」と「判断」を元にするからには、その人自身が根幹から変化しない限り達し得ない。このためには、日々の訓練や研鑽が必要となり、月謝を払えば得られる程度のものでないことがよくわかる。絶えざる自己の改革しか他に方法がないということだ。身体感覚、脳による判断は他人のお仕着せで出来ることではない。逆に、「何をやってもあの人はすごい」と言われる人がいるのはだからだというのもわかる。わからない人から見れば、「ヤツはとにかくコツをつかむのがうまいんだよな」としか見えない理由もよくわかる。

 もし、子どもたちを育てるのだとしたら、上記のような人間の根幹に関わる部分から育て上げるにしくはない。後になってその能力をどのように使うかは、それぞれの子どもたち次第である。大人が子どものために出来ることはこれだけではないか。これが、今風の言葉を使って言えば「自主性」や「個性」を育む元になるだろう。しかし、何よりも大事なのは、こうした脳を含めた身体を獲得した子どもの方が、己の人生を果敢に歩んでいけるだろうということだ。大人が子どもになすべきことは、その礎を築かせることである。

8 コメント

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落ちこぼされ (ずっと愛読者)
2010-02-19 10:30:43
>大人が子どもになすべきことは、その礎を築かせることである。

同感です。
今の「公立」初等教育ではこの部分を捨ててしまっています。小学一年生からパソコンでお絵かきしたり、泥んこ遊びや町内見学などばかりして、持続力も忍耐力もつきはしません。まあ、公立学校で下級労働層を作ろうとしている連中がいるのですから、ほりさんの学校の生徒さんとはまず、前提が違うのかもしれませんね。
せめて一流二流を論じられるぐらいの高校の生徒さんには自分のおかれた環境に感謝すべく努力はしてほしいです。
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ことば (わど)
2010-02-19 17:21:30
学ぶとは変わること――
不意にそんな言葉を思い出しました。
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みんな同じ (ほり(管理人))
2010-02-19 22:43:57
ずっと愛読者さん、コメントをありがとうございます。

子供たちは皆同じですよ。私は、どんな生徒も、それぞれに学んでいって伸びていく存在だと思いますよ。持って生まれた能力とは関係がなく。
高いから伸ばすとか、高いから放っておいても良い、とかじゃなくって。
一人一人の可能性は、決して無限ではない。しかし、どこにどんな風に伸びていくかは、誰にもわからない。だったら、基礎力をしっかり付けて伸ばしていくのがいい。
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子供の仕事は変わること (ほり(管理人))
2010-02-19 22:45:21
わどさん、コメントをありがとうございます。

そうですよね。
養老先生じゃなかったっけ?



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出典 (わど)
2010-02-20 13:45:06
これじゃなかったかなー。
『学ぶということ』(林竹二)
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そうかー (ほり(管理人))
2010-02-20 16:40:45
わどさん、コメントをありがとうございます。

懐かしい名前だなぁ、という気がする。。。
何か、読んでる、はず。
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Unknown (あーあ)
2012-12-31 19:16:19
はじめまして
「一流と二流の違い」で検索したらひっかかりました。
一流とは何かを知りたかったのですが、
知ることすら難しく感じられます。
本当に知るにはすでに一流でないといけないのかもしれませんね。
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身近な存在 (ほり(管理人))
2013-01-02 00:16:50
あーあさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

何年も前かな、何かの雑誌、たぶん、どこかの女性誌だったと思いますが、セレブの特集か何かで、「あなたはセレブになれる資質があるかどうか」を判断しようというページがあったのですが、いくつか質問が並んでいて、その中に、「身近に有名人がいるかいないか」という問いがありました。
で、これが最も重要らしかったです。(笑)
あーあさんのコメントを読んで、この話を思い出しました。

私は、勉強の仕方で、一流というか、自分自身の身に付く、応用力が付く、本当の意味での教養が身に付く学習方法について、ある先生が、「自分自身がそうした学習をしてきたか、あるいは、本当の意味でよくできる生徒を間近に教えてきたか、どちらかの経験がないと、本質に至る勉強がどういうものであるかわからないでしょうね」とおっしゃっていたのを聞いて、さもありなんと思いました。この先生は、部活動でも、生徒をインターハイに送っていて、やはり、「本当に出来ることがどういうもの、どういうことであるか」を知って見える方でした。

残酷ですが、「次元の違い」は、そのようなものだと思います。わかる人はわかるけれど、わからない人はわからない。
でも、一流でなくても、人間、誰だって、生きていけます。
多くの人は、一流ではないし、なりたいと思わないものです。だって、「それ」わかんないから、目指しようがない。「結果」だけを見て、「あいつはうまいことやっている」と思うだけです。
一流というのは、「求道者」に近いものがあるかもしれません。絶対的な何かを求めてるのだと思います。どんな人気稼業でも、「その道」というものはあって、たぶん、そんな感じじゃないのかなと思います。その絶対性というのは、「道」によって多少異なるでしょうけれど、ま、本質は似てるんじゃないかと想像します。

またどうぞ、お気楽においでください。

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